あれよあれよと読む

きちんと本が読めないのです

 一日の大半を過ごす居間のテーブルには、PC脇に何冊かの本が置いてあるのですが、好きな本はこちらに目くばせを送っているように感じられることがあります。

『聖耳』、『魂の日』、『野川』、『仮往生伝試文』、『杳子・妻隠』。このところ古井由吉の本ばかり読んでいて、他の作家の本を手に取る気になりません。そういうふうに融通のきかないところが私の欠点なのです。それは分かっているつもりです。

 私にはもう一つ欠点があります。きちんと本が読めないのです。文字を目で追いながら別のことを考えるなんてざらにあります(たまにですが、書きながら別のこと、とくに次に書くつもりの文章のことを考えている時がありますが、その際には書いている時間がもどかしくてなりません)。

 それがとても楽しいのでやめられません。だから意味を正確に読み取るのは至難の業です。自分で勝手に読みかえている節があるのですが、こういうのを世間では誤読とか曲解とか呼んでいますね。

 長年にわたってこんないい加減な読み方をしているのは、社会とは切り離された生活をしているからにちがいありません。わけあってずっと無職ですし、交際が極端に薄いのです。引きこもっていると言ってもかまわないと思います。このまま一生を終えるだろうという予感があります。

     *

 うわの空で本を読んでいる私の感想なのできっと的外れな意見なのでしょうが、『仮往生伝試文』はブログみたいにも読める気がします。各章に日記体の部分があるのがいちばんの理由なのですけど、いかにも安易な考えですね。いま言葉にしてみて、そう思いました。とはいえ、私にとってあの作品がブログであることに変わりはありません。

 日記体の部分の前後にいろいろな種類の文章があるのですが、各文章間に内容はもちろん文体や雰囲気の揺らぎと変化が見られ(たとえて言うと突然の変調とか転調です)、そのがくんとした落差というか踏み外しがとても心地よく感じられます。一貫性を欠いた異なるテキストを織りまぜたつくりの作品が、私は好きみたいです。

 以前には村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』が好きで、この小説ばかり読んでいた時期がありました。この作品もパッチワークのような構成になっています。少なくとも私にはそう読めると言うべきでしょうか。読んでいるといきなり文章の質や感じが変わって、目がくらみそうになります。もちろん、気持ちがいいという意味です。

 私は筋とかストーリーを追うのが苦手です。というか筋があっても無視して読みます。これも気持ちがいいのでやっていることです。私には文学について語り合う相手が身近にいません。何かを読んでも誰かにそれについて話す機会が皆無なので、気ままに本を読む習慣がついたのかもしれません。不都合は今のところ見当たりません。その意味では、ひとりは楽です。

あれよあれよと読んでしまう

 読んでいて気持ちいい文章があります。思いつくままに挙げると、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、野坂昭如の『アメリカひじき』、蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』、古井由吉の『仮往生伝試文』、井上究一郎訳 のマルセル・プルースト作『失われた時を求めて』 です。どうして気持ちがいいのでしょう。

 これは個人的な思いですから、自分で考えて答えるしかありません。答えは出ないでしょうが、応えることはできそうです。

 上記の作品に共通するのは、あれよあれよと読んでしまうという点でしょうか。意味とか内容とかストーリーなんてどうでもいい。少なくとも私にとってはそうです。だから理解とかは頭にありません。まして作者の意図なんて考えたことすらないです。

 で、あれよあれよですけど、これは読んでいて運ばれていく気分と言っていいかもしれません。「いまここ」しかない感じです。前も後ろも意識しません。それが、あれよあれよなのです。あとは字面でしょうか。べたーっとした字面というか、すかすかはしていません。イメージとしては古文の原文に似た字面です。

 私は古文が読めません。嫌いなのです。だいいち難しくてさっぱり分かりません。内容や意味は気にしないで読むほうなのですが、語句というか単語というか言葉のレベルで知らないものが続くと、読みようがありません。読んで気持ちのいいものしか読まないたちなので、古文は敬遠しています。

 藤井貞和の『古典の読み方』という本が書棚にあってときどき手にするのですけど、ああ面白そうだとわくわくするのは一瞬で、五分もしないうちに「こりゃ駄目だ」と読むのをあきらめてしまいます。残念でなりません。

 いつか本腰を入れて読みたいという気持ちはあるにはあるのです。この本を読みかけたさいの瞬間的なわくわく感があまりにも強烈なので、いつかその快感が続いてくれればと望みをかけています。

 センテンスレベルで言うと『コインロッカー・ベイビーズ』は完璧だと思ったことがあります。自分が小説を書くときに何度かお手本にしたほどです。

 読点なしの長いセンテンスが目立ちます。それでも難なく読めるのに驚きます。センテンス内の語句の配置が見事なのです。いつだったか、試しにいくつかのセンテンスをばらばらにして、それ以外の配置にして遊んだことがあります。

 何度も試みましたが駄目でした。たちまち読みにくくなるのです。元の配置がいちばんしっくりきて、それ以外にはないという感じでした。

 段落レベルでも、各センテンスをつなぐ接続詞がきょくたんに少ないのに驚かされます。それなのにセンテンス間の違和を覚えません。然るべきところに然るべきかたちで収まっているとしか言いようがないのです。

 さらにセンテンスの長短のバランスが、まるで読み手の呼吸を計算したように巧みに加減されています。こういう文章が書けないものかと試してみましたが、なかなか真似ができるものではありません。

 私が持っている『コインロッカー・ベイビーズ』は新装版ではない講談社文庫版です。新装版を本屋で立ち読みしたことがありますが、別の作品かと思われるほどピンと来なかったのを覚えています。

 この失望感のまじった違和は何なのでしょう。組版というんですか、レイアウトが違うと同じ作品が別の作品に見えるのは、私だけでしょうか。友達がいないので聞いたことはありません。この種の謎はそのままにしておくほうが心地よいので、追求するつもりはないです。

あれよあれよにも種類があるのです

「ねえまだなの?」の永遠化という感じなのです

 安心して身をまかせられるのが、夢の魅力です。夢は何でも肯定してくれます。夢には矛盾はありません。あると感じたら、それはむしろ覚醒ではないでしょうか。夢の後の記憶としては、いくらでも矛盾を指摘できます。

 一笑に付すこともできるでしょう。覚醒は、その意味で退屈きわまりない体験です。夢では退屈はありえません。あれよあれよが夢です。

     *

 あれよあれよという感覚が好きです。夢はもちろんというか、夢が最高のあれよあれよですが、歌や映画や文章や生理現象や運動でも、あれよあれよを体験することがあります。

 いちばん分かりやすいのはテレビのCMでしょうか。音楽も映像も含まれていて、そして何よりも短い点が、あれよあれよ感を助長するみたいです。あっけにとられて見てしまうCMがあります。心地よいです。

 文章では野坂昭如の小説と蓮實重彦の批評の文体が、私にはあれよあれよです。読みにくくてもかまいません。理解なんてする必要がないのが、あれよあれよですから。

 テレビのCMはあっと言う間に終りますが、野坂昭如蓮實重彦の文章はセンテンスが長く、しかも改行が少なくて、決して読みやすいものではありません。

 でも、私にとってはあれよあれよなんです。考えるいとまがないのに読み進んでしまう。あたまのどこかで音読している自分の声と活字の字面、つまり聴覚と視覚の両面で酩酊している。そんな感じです。

 視覚はともないますが、楽曲や旋律を楽しむのに似ています。どこに連れていってくれるのだろうという、運ばれる心地よさがあります。なかなか逆らえないのです。

 徹底した無抵抗状態というか万事お任せ気分なのです。お腹を天に向けて寝っ転がる「へそ天」という格好をする犬や猫がいますが、それを思い出します。もーどーにでもして頂戴。

     *

 古井由吉の文章も、私にはあれよあれよなのですけど、野坂や蓮實の場合とはちょっと違います。野坂や蓮實の文章が――顰蹙を買うのを覚悟で申しますと――快便や下痢であるなら、古井の文章は便秘に似ている感じなんです。

 古井の『水』という短編集の解説で「停滞」という言葉が使われていますが、停滞とは比喩的に言えば便秘ですよね。よどみ、とどこおるわけです。これを毎日体験する人がいます。私もそのひとりです。

 ああ、まだまだ。出ないよー。うーん、うーん。宙ぶらりんの忘我状態というか、要するにまだまだ感です。いましているのは抽象論ではなく、すごくリアルな感覚のお話なのです。

 まだまだ先を伸ばされる快感という意味ではサスペンスに通じるものがあります。体力がないと読めない気がする古井の文章ですが、何だか死にかけみたいな超脱力系の雰囲気がただようのが不思議でなりません。

「ああもう駄目、まだまだ、ねえまだなの?」の永遠化という感じです。癖になります。一種の多幸感と言えば言いすぎでしょうか。

     *

 まだまだという感覚には二つあるような気がします。一つは、「まだなの?」というふうに、どこかにたどり着きたい気持ちです。これは最後にどこか、あるいは何かにたどり着いて一件落着という「まだまだ」です。

 分かった、正解、やったね、ガッテン、はい、よくできました、ユリイカ、ゴール達成、スタンプ、押しましょうね、お疲れさまでした、ご褒美にチューしちゃう。これじゃ、悟りみたいではないですか。私は悟りたくはありません。そんなに欲深くないというか、そんな贅沢は言いません。

 もう一つの「まだまだ」は、終りがなさそうという感覚です。私の言っているのは、こっちのほうなのです。そもそも終りなんて考えないのが、私の好きな「まだまだ感」だと言えるかもしれません。

 したがって、決して知的な行為ではないと断言できます。サスペンスにはちがいないのですが、ミステリーに不可欠な謎の解決という知的な喜びや満足感はありません。

 ミステリーにも、必ずしも謎の解決や見事な伏線の回収や大団円といったものを求めない楽しみ方がありそうです。というか、それが私の楽しみ方なのです。

     *

 性格的なものなのでしょうか。私にはストーリーを味わう喜びが欠けている気がします。筋を覚えている小説が極端に少ないのです。小説に限りません。たとえば、幼いころに見たり読んだはずのテレビドラマや絵本や童話で、いま筋を話せるものが思い当たりません。

 特に漫画が駄目です。漫画は見えますが、読めないのです。筋が追えないというのが正確な言い方かもしれません。理由は分かりません。ひょっとすると欠陥なのかもしれませんが、深くは追求しないようにしています。

 子ども時代に読んだ漫画のストーリーを嬉々として語ったり、同じ漫画のファンとかなり細かい点までを含む筋についての話に花を咲かせる人を見ると感心もしますが、自分にはありえないことだと複雑な心境になります。

     *

 話が飛んだので戻しますね。

 江戸川乱歩、ルース・レンデル、宮部みゆきパトリシア・ハイスミスローレンス・ブロックといった作家たちの小説を、たまに手に取って一部を読み返し、まだまだ感を楽しむことがあります。

 もっとも、ローレンス・ブロックなんて、謎解きを重視せずに心境小説みたいな筆致で作品を書いていますから、私と似たような読み方をする人がいるのではないでしょうか。田口俊樹さんの翻訳の文体が好きで、田口訳以外のブロックなんて考えられません。

 いま挙げた広義のミステリー作家たちの作品を、辞書みたいにあちこちめくって楽しんでいます。文章を楽しんだり、情景を描いて思いに耽るのですが、ストーリーは意識しません。

 辞書は引くこともありますが、辞書を読むのが私の趣味の一つなのです。国語辞典、漢和辞典、英和、和英、英英、仏和、仏仏、独和、西和、伊和、ことわざ、類語、新聞用字用語、ドゥーデンの図解……。

 小説を読む楽しみと辞書を読む楽しみに、大きな違いがあるという気がしません。知識を得たいわけではなく、ただあるページやある箇所を読んでいたいというか、読んでもすぐに忘れるので、また来てしまうのです。

 言葉が好きだからと言えば、それで終りみたいな話なのですけど……。気持ちよかったことを覚えているから、そこにまた来るのでしょうね。

 あたまがではなくて、からだが覚えているのです。「また、来ちゃいました」という感じです。

「あら、また来たの? いやだ、あんたも好きね」なんて本も辞書も言わないので救われます。そういう茶化した言い方をされると、私は赤面するだけでなく、かなり落ちこんで立ち上がれなくなるたちなのです。想像しただけで、汗が出はじめました。

いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか

 ああ、そこそこ。そうなのね。なるほど、お上手お上手。ほう、そう来ましたか、不意を突かれてちょっと戸惑いましたよ。あ、これはいったいどういうことなのか。あら、いやだ。またまたそういう手をおつかいになる。それはズルだって言ったでしょ。それにしても……。

 かなり前のことです。井上究一郎訳『失われた時を求めて』と Folio 版の Du côté de chez Swann (「第一篇 スワン家のほうへ」)と辞書を照らし合わせながら読んだことがあります。もちろん、ところどころです。

 対訳でのお勉強というわけですが、気持ちが良かったので勉強をしているという気はしませんでした。若かったし、体力があったからでしょう。それに当時はいろいろな夢がありました。夢があると人は強いです。

 プルーストのあの長い長い作品には複数の邦訳がありますね。選り取り見取りですから、興味と体力のある方はお好きな訳でお読みになったり、途中でおやめになったり、ときどきぱらぱらめくったりなさっているにちがいありません。

     *

 今思い出しましたが、ジェイムズ・M・ケイン作の『郵便配達はいつもベルを二度鳴らす』(または『郵便配達はベルを二度鳴らす』)という邦訳が、田中西二郎訳、田中小実昌訳、中田耕治訳、小鷹信光訳の四種類も楽しめた(つまり本屋に並んでいた)時期がありました。

 こっちは原著なしで、日本語訳だけを四種類読み比べましたが、わくわくするような体験でした。若くなければできない冒険だと今になって思います。

 そう言えば、J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(または『九つの物語』)もいくつかの訳本がありましたね。私は野崎孝による邦訳しか読んだことはありませんが。

失われた時を求めて』の井上究一郎訳を私が好きなのは、律儀に訳してあるからです。つまり、センテンスが長くてとても読みにくいのです。ああいうのを難しいとは私は言いません。とにかく読みにくいのです。難解とも言いません。解こうとするから難解なのです。お経や漢文の素読のように声を出して読めばあれよあれよと読めます。古くから続いている読みですから、不自然な読みではないと思います。

 いずれにせよ、井上訳をあれよあれよという感じで気持ち良く読み進めることができました。「できました」と過去形なのが残念です。寂しいです。いまは無理です。

 井上訳を原文に忠実な訳とは言いません。フランス語がろくにできないのに、偉そうな言い方をしてごめんなさい。あれは忠実というよりも、律儀な訳なのです。そもそも外国語の作品を原文に忠実に訳すなんてありうるのでしょうか。はなはだ疑問です。

 直訳という言葉を思い出しました。そればかりか、意訳、逐語訳、逐次訳、大意、抄訳、完訳、改訳、重訳、超訳、名訳、迷訳、誤訳というぐあいに、次々とあたまに浮かびます。あと、翻案というものもありますね。翻案を広義の翻訳と見なすと、パスティーシュやオマージュや文体模写まで広義の翻訳だと言いたい気分になります。

 そんなことを気にしたり、本気になって調べたり考えていたことがありました。もう昔の話で詳しいことは忘れました。翻訳家を志していた時期があったのです。身のほど知らずにも。結果的には、翻訳業を短期間やっただけで今は休業状態です。話が昔話やネガティブな方向に流れますね。

 気持ちのいい話に戻りましょう。

     *

 あれよあれよ、まだまだ、ねえ、まだ、まだなの? あれーっ、ひぇーっ。そろそろやめてー。もうやめてください。

 どんどん続きます。なかなかいかせてくれません(目的地にですよ)。はらはらどきどきわくわくの連続です。でも中途半端な着地はしない、要するに墜落も不時着もしないので延々と続くアクロバットみたいで見ていて気持ちがいい。

 ときに苦しくなることもあるけど、それでもいい。井上訳の『失われた時を求めて』は読んでいてとにかく心地よいのです。律儀に訳してありますから、センテンスが長くてもいちおうの辻褄は合います。てにをはの処理を含め、それは見事なくらいきちんと合うのです。

 その意味では偉業だと言えるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、読んでいてじつに快いのです。

 井上究一郎氏は頭脳明晰で体力も抜群だったのだろうと想像します。案外、超敏感かつ病弱であられたりして……。コルク張り部屋伝説のマルセルのように――。想像は楽しいです。

 まさに、あれよあれよの最上級です。こんなの初めて。あれよあれよ感MAXというやつ。

 たぶん、あれは翻訳だからこそ可能な技だという気がします。もともと日本語で書かれた作品だったら、ああいう文章はあり得ないと思うのです。語弊のある言い方になりますが、反則に近いと言えそうです。いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか。それだけにすごいです。すごすぎます。

 翻案でない限りどの翻訳にもある種の違和や不自然さを感じるという意味での「人工的な」日本語の妙味――すべての言葉は人工的なので恥ずかしいほど当たり前のことを言っていますが、翻訳という言葉につられて出たレトリックということでお許し願います――と言いましょうか。

 とはいえ、あの訳文を決して否定も非難もしません。気持ち良さの点では、この上もないからです。ただ長時間の読書には向かない気がします。あの長い長い作品が長時間の読書に向かないというのではなく、あくまでも井上訳の話です。

 ところで、フランス語を母語とする人たちはあの長編小説をどう読んでいるのでしょう。ああいう長いセンテンスをどのように感じているでしょう。興味津々ですが、知りません。きっと人それぞれでしょうね。謎は謎のままにしておいて、勝手気ままに想像を楽しむことにします。

        *

 欧文には、論理性をそこなうことなくかなり長いセンテンスを組み立てる力があることは、英語の例からおわかりのことと思うが、さらにドイツ語の二、三の特性は、それにさらに輪をかけて長いセンテンスを組み立てることを可能にする。(中略)たとえば第七章三二一ページの<このように夕べの息吹が>から、三二三ページの<わたしの上に降りてくるそのとき>までは、純粋なワン・センテンスとはかならずしも言い切れないが、とにかく終止符はひとつもない。これはさすがの<現代>日本語もおつきあいできない。第一に、これに合わせてセンテンスを組んだら、どんな日本語ができるだろうか。第二に、日本語の句点(マル)はあきらかにフル・ストップではない。
(「ブロッホと「誘惑者」」(古井由吉著『日常の”変身”』所収)より引用)

 ドイツ語で書かれたヘルマン・ブロッホ作の『誘惑者』を訳した古井由吉の言葉は参考になります。

 邦訳の三二一ページから三二三ページまで続くセンテンスに終止符がひとつもないとは、どんな原文だったのでしょう。それを古井はどんな日本語の文にしたのでしょう。原著も訳書も手元にないので、想像を楽しんでいます。

        *

 ちなみに、「あら、いやだ。またまた、そういう手をおつかいになる。それはズルだって言ったでしょ」という、この記事の冒頭の箇所ですけど、訳文における(   )とか、――をもちいての挿入的な文のつづり方についてのコメントというか突っ込みです(この文章では意識的に丸括弧とダッシュを使っていますが読みにくいでしょう、ごめんなさい)。私は引用が苦手なので例文を引用できなくて残念なのですが(「失われた時を求めて 井上究一郎訳 例文」で検索すると、どなたかが引用なさっている例文にヒットします)、こういう道具をつかうと、どんどんセンテンスを長くできて――さすがに読んでいるほうは疲れますけど――途中でトイレに行きたくなるほどです。全体を通読するのは至難の業で、何年もかかって読み終えたという話さえ見聞きします(じつに贅沢な時の使い方ではないでしょうか)。

 井上究一郎訳の「失われた時を求めて」は体力と気力と暇がないと読めない、そして長時間の読書向きではなく、むしろ長期間の読書向きだと言えそうです。

内容とか筋はどうでもいいです

 長いセンテンスから成る作品だけが、あれよあれよと読めるというわけではありません。ただ短文で畳みかけるような文章は、年を取るにつれて読むのも書くのもだんだん苦しくなる。息継ぎに苦労する。そんな感じです。私の場合にはですけど。

 短いセンテンスの魅力と言えば、若いころに盛んに読んだ作家に中上健次がいます。いましたと言うべきなのかもしれません。四十六歳で亡くなったのですから夭逝ですよね。

『岬』は何度も読みました。小説を書きながら集中的にあちこち読んでいたことがあります。小説であれ哲学書であれ批評であれ、私は好きな箇所だけを順不同で読みます。こういうのは拾い読みと言うのでしょうか。この読み方がいちばん快いからです。

 内容とか筋はどうでもいいです。まして意図なんて考えたことがありません。気持よくあれよあれよと読むときに、そんな余裕はないです。何かに運ばれていくさなかには、考えるいとまがなんてないのです。

 極端なことを言うと、辞書はもちろんのこと、電話帳や電気製品のマニュアルでも場合によってはあれよあれよと読めます。これについては、いつか場をあらためて書きたいと思います。

     *

 書棚から、中上健次の本を持ってきました。

 小学館文庫版です。短文、短文と意識しながらぱらぱらめくってみて、いいなあと感じたのは『岬』のほかに『浄徳寺ツアー』と『蛇淫』(邪淫でなくて蛇淫です)『蛇淫』でした。

 短文が適しているのはやはり短編だと感じました。短いセンテンスが力強くて気持ち良くからだに入ってきます。きょうは体調がいいようです。

 私には体調で読むようなところがあって、病状が思わしくない現在は、短くて勢いのある作品は体が受け付けません。息の長い文章のほうがすっと入ってきます。

 中上の短編では比較的短文が多いにもかかわらず(長いセンテンスも混じっています)、字面がべたーっとしています。改行が少なかったりするし、鉤括弧付きの会話が地の文に織り込んである場合もあるからです。

 出版社の会議室かなんかでテーブルの上に腹ばいで這いつくばり、原稿用紙ではなく罫紙に細かい字でぎっしり書いていた。中上についての、そんな逸話を読んだ覚えがありますが、記憶違いかもしれません。

 違ってもかまいません。中上についての、いま述べたイメージが気に入っています。

 段落なんかも考えずに、ばあーっと自動書記みたいに書いていたなんて噂も頭に浮かびました。そもそも古文はそんなふうに書かれたのではないでしょうか。自動書記という意味ではなく、段落なんかも考えずにという意味です。

     *

 中上のべたーっとした字面の文章を読んでいると、即興とかジャズといった言葉も浮かびます。中上とジャズ、自動書記、罫紙を埋め尽くしている昆虫のような細かい文字、改行なし、段落なし、改行は編集者が後で考えた――。

 伝説が自分のお気に入りのイメージになっていくのは心地よいです。真偽が曖昧なほど心地よい。私は暗示にかかりやすい人間なのです。暗示が原因で体調を崩すことなんか、ざらにあります。

 中上の短編は、短文だけから成るわけではなく、ときどき長めの文があったり、地の文と、語りと、話し言葉(鉤括弧でくくられるときも、括弧なしではめ込まれているときもあります、まさに象嵌という感じ)がいい感じで混じりあっていて、ああどうなっているのだろうと思いながらもあれよあれよと読み進めることができます。

 とりわけ、短いセンテンスと長いセンテンスが――まるで読者の呼吸を読んでいるかのように――リズム良く配置されている部分が心地よいです。そのリズムは、強弱、強弱、強強弱、弱弱強、みたいに感じられることがあります。

 文字や言葉であることを忘れます。強いていえば、楽曲を聞いているみたいなのです。

 久しぶりに中上の複数の短編に目を通してみましたが、さまざまな文体で書き分けられているのに驚きます。古井由吉の短編や、谷崎潤一郎の長編のように書き方や字面が多様なのです。

 古井と谷崎は長いスパンで書き方を変えていったのですが、中上は短期間につぎつぎと変えていったのです。表現の実験をしていたにちがいありません。

 文体に注目しながら読むと興味がわいてあれよあれよと引き込まれます。日本語の可能性をさぐったなどという陳腐で抽象的な評価がむなしく感じられます。

 中上は文章の中にしかいないと改めて思いました。文章は言葉から成るリアルなモノに他なりません。具体的には、字面と音(おん)です。頭の中で声を聞きながら音読していることもあれば、文字の形とその連なりだけを追っている場合もあります。

 どんどん読み進むこともあるし、ある部分でとどこおっているときもあります。読むとはリアルなモノをめぐっての、あくまでも具体的な体験です。基本的には目の前の細部しかありません。いまここしかない、とも言えます。

 目の前の言葉、つまり文字に注目するとストーリーが消えます。感想も印象も分析も批評もモノの前ではむなしい。本当は語るべきコトなどないのです。騙ってでっちあげるしかない。語るに落ちるとはこのことですね。

     *

 破れる。敗れる。やぶれる。

 それにしてもぶっきらぼうな『浄徳寺ツアー』の字面に漂う、この不気味さは何なのでしょう。中上については定型と型破りの間で揺れた書き手だという印象があります。

 中上にまといついていた決まり文句をつかうなら、「内なる暴力」を外にある定型で鎮めようとしたのではないか。だから、破れている。破るのではない。破れている。

 この文章は破れるしかないのだ。この人もやぶれるしかなかった。

     *

 短編といえば、ヘミングウェイですね。恥ずかしいほどの決まり文句です。

 高見浩訳の新潮文庫版を持ってきました。めくってみましたが、読む気になれないのが残念です。短編集だと大久保康雄の旧訳や、『老人と海』の福田恆存のぽきぽきごつごつした訳文が恋しいような気がします。こういうのは慣れ親しんだものへの郷愁なのかもしれません。

 高見訳だとすべすべつるつるして、ハードボイルドという言葉とイメージからはほど遠い印象です。イメージとはいい加減なものですね。イメージはそういういい加減なところがいいのですけど。

『エリオット夫妻』だけ読み終えましたが、これはなかなかいい感じでした。

 高見浩さんの訳では、ピート・ハミル作の『ニューヨーク・スケッチブック』が好きです。これは何度も読みました。文庫版は付せんだらけです。単行本には――私としては珍しく――傍線が引かれ書き込みがあります。

 あと、高見浩訳ではマイ・シューヴァルとペール・ヴァールによるマルティン・ベックシリーズと呼ばれる作品群がいい味を出していた記憶があります。

 警察小説なのですけど、舞台となるスウェーデンストックホルムの街や住人の描写が異世界のように面白くて、集中的に読んでいた時期がありました。『バルコニーの男』が特に気に入っていたのですが、確か押し入れに突っ込んである段ボール箱の中にいまもあるはずです。

     *

 アゴタ・クリストフの『悪童日記』が家にあったのを思い出して、二階から持ってきました。

 何年ぶりかに目にするこの短いセンテンスの連続は見た目が気持ちいいです。こんなにいい文章だったのか――。すっかり忘れていました。堀茂樹さんの訳文は良質の日本語で書かれています。翻訳特有の「人工的な」日本語感――いかにも作り物めいた日本語ぽさ――があまりしません。

 ルナールの『にんじん』が頭に浮かんだので、青空文庫を覗いてみました。岸田国士訳ですね。これも違和を覚えない日本語で書かれていて、心地よいです。

 このところ小説は古井由吉のものばかり読んでいるのですが、こういう翻訳物の短文もいいものですね。久しぶりにまとめて味わいましたが、あれよあれよでした。きょうの収穫です。

     *

 志賀直哉レイモンド・カーヴァー(私のなかでは短編集『頼むから静かにしてくれ』(村上春樹訳)のカーヴァーと『異邦人』(窪田啓作訳)のカミュがハードボイルドなのです)を思い出しましたが、疲れてきたので欲張るのはやめておきます。

小説をまばらにまだらに読む

線と点で線状に並べていく

 文章は文字で書かれています。文章には始まりがあって終わりがあるのですが、「始まり」とは、書物であれば、冒頭の一文字、一語、一フレーズ、一センテンス、一段落、一章であるといえます。「終わり」も同様に、一文字、一語、一フレーズ、一センテンス、一段落、一章で締めくくられるわけです。

 始まりと終わりのあいだはどうなっているのでしょう。

 文章では、文字や語やフレーズやセンテンスや段落や章が、線状に並んでいきます。行があり、句読点が打たれ、改行や行開けがあったりもしますが、とにかく線なのです。文章をおさめるためには、ページや巻という形で折ったり切ったり割ったりするしかありませんが、とにもかくにも線なのです。

     *

 発せられた瞬間にどんどん消えていく音声からなる話し言葉と違って、文字からなる文書は始まりと終わりと、そのあいだが目に見えます。

 目に見えるのは文字が物だからでしょう。文章は文字という目に見える物からなる線だと考えられます。

 物である文字は具体的にはインクの染みであったり、液晶画面上の画素の集まりだったりします。

 文字は固定されてもいます。動かないのです。消さないかぎり残ります。これが、片っ端から消えていく話し言葉(音声)との大きな違いです。

     *

 印刷物なら、他にもたくさんどこかに同じものがあるはずです。遍在するのですから、よく考えると、これはすごいことです。

 しかも、ネット上で読める物であれば、なぜか――どういう仕組みなのか私は知らないのです――どこかに同じ物がたくさん、おそらく無数にあるはずです。

     *

 不思議でなりません。趣味として、私が言葉のありようを観察しているのは、言葉がこうした不思議だらけだからに他なりません。

 文字からなる文書とまったく同じものがどこかにたくさん(無数に)あるのは、どんな文字も複製だからであり、そもそもどんな文字や文字列も文書も複製で読むものだからでしょう。

 詩も俳句も小説も宣伝のコピーも法令も実用書も経典も聖典も、すべて複製で読まれています。

 あっさりと書きましたが、私には不思議でなりません。話として頭では分かりますが、どう受けとめていいのかよく分からないところがあるのは、体感できないからでしょう。

 知識が体感できるとは限らないのです。

言葉は人の外にある外

 おそらく平らな面に広がる点でも線状のものでもないもの――現実や思いのことです――を、文字という人の外にあって外であるもの――物だという意味です――をもちいて、平面上に点と線として配列する――作文のことです――というのは不思議な、いとなみだと言わなければなりません。

 人がこんなことをしているのは人の中にそういう仕組みがある、としか私には考えられません。

 おそらく人の中にある仕組みに合わせた形で、人は自分の外にある外――人の思いのとおりにはならないという意味です――である物を利用している。そのように私はイメージしています。

     *

 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。
 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。
 人には見えないものを人は真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。
 真似ている。似ている。

(拙文「文字や文章や書物を眺める」より)

 

renrenhoshino.hatenablog.com

     *

 いずれにせよ、文字は人の外にある物です。物だから見えるし、見えるから他の人といっしょに確認できるし、他の人と共有できます。

 音読すれば声、つまり話し言葉にもなります。発したとたんにつぎつぎと消えていく声と異なり、消さないかぎり残ります。

 しかも、持ち運びができます。つまり、「うつす」ことができるのです。写すことも、映すことも、移すこともできるという意味です。こう考えると文字はとても便利です。 

     *

 それだけではありません。文言をいじるという形で文字はいじれます。

 ただし、いじりやすいのは、それがインクの染みや液晶上の画素の集まりである物としての文字だからであって、曖昧模糊とした思いや、手を加えるのが困難(多くの場合には不可能)な現実ではないからです。

     *

 そもそも、文字と現実と思いは別物であって、一対一に対応したり、きれいにぴったり重なるものでは断じてありません。これを忘れてはなりません。

 だから、文字で現実や思いの辻褄合わせや帳尻合わせをするのは無理があります。 

 そんな無茶をすると無理がたたって喜劇や悲劇が生まれます。実のところ、あちこちで喜劇や悲劇や悲喜劇が生まれています。これは文字を使う誰もが日々体験することです。

     *

 人類にとって最大の悲劇である戦争も、現実の辻褄合わせを言葉でおこなっていることから、しばしば起きます。

「きょうから、黒いカラスは白いサギだ」

 たった一人、または一握りの人たちの辻褄合わせに、国民だけでなく、世界が付き合わされています。現在の話です。

「きょうから、黒いカラスは白いサギだ」

「異議なし。そのとおりでございます」

 このようにして「黒いカラスは白いサギである」と決まり、文字になって複製されて世界中に拡散すると、もう消せません。

 文字は決めた人の手の届かない、「人の外にある外」だからです。

     *

 かくして今度は文字の辻褄合わせと帳尻合わせのスパイラル(デフレスパイラルのスパイラルです)が始まります。苦労するのは、それに付き合わされた国民です。スパイラルは渦ですが禍でもあります。

 どだい無理な辻褄合わせは必ず綻(ほころ)びが生じますから、つぎつぎと綻びをつくろう必要が出てきます。切りがないわけです。やっぱり、渦どころか禍でしょう。

     *

 ここまでをまとめます。

 文字はいじりやすいのですが、いったん文字にすると残ります。複製されてたちまち拡散もします。すると取り消すことができなくなるのです。

 これを取り消すことができないため、辻褄合わせはエスカレートするしかないという悪循環(スパイラル)におちいりますが、これは恐ろしい話です。いま起きている戦争の話です。 

 政府や体制の失策も、同じようにして起こります。「○○主義」「○○政策」と標榜されるものがそうです。取り消せません。あちこちに文字として、つまり報道や通達の文書や書類や法令として残っているからです。

複製、拡散、保存される文字

 何が恐ろしいって、戦争も恐ろしいですが、文字が外であること、つまり文字が人の思い通りにならないことが、もっとも恐ろしいのです。

 いじりやすいのに、思い通りにならないし、言うことを聞かないのですから。こんなやっかいなものが、文字のほかにありますか。

     *

 戦争までには至っていませんが、人びとが権力側にいる人の辻褄合わせに付き合わされる例はあちこちで見られます。

 自分にとって都合の悪いことは、フェイクニュース、嘘、印象操作、でたらめ、捏造、フィクション、事実か確認できない、記憶にないと決めつけたり決めるわけです。

 つまり、その人は言葉をいじって、それで辻褄合わせや帳尻合わせをした気分になります。その言葉が文字、つまり文書になり、固定され複製され拡散され保存されます。

 すると、その文字化されてがちがちに固まった言葉を支持するか支持しないかで、人びとが分断されるという事態を招きます。

 真偽や正誤や善悪といったかつての判断基準が機能しなくなり、声の大きさや権力(暴力を法にのっとって行使する権利)で、「そうだ」「そうでない」が決まる時代に、いまはなっています。

本物(実物)のない複製の時代、起源のない引用の時代

 権力側は辻褄を合わせるためには何でもしますから、エスカレートして辻褄合わせ地獄になります。

 現在は、真偽、本物と偽物、正誤、善悪の境が曖昧になっている気がしてなりません。複製には複製の本物があり、引用には引用の起源があるというモデルが曖昧になっているからでしょう。

 そもそも真対偽、本物対偽物、実物対複製、起源対引用、正対誤、善対悪なんて図式はウソという感じです。

 本物や起源の権威が失われてきているだけでなく、本物や起源という概念を成立させている西欧的な知の枠組み自体が危うくなってきているとも言えるでしょう。

 本物(実物)のない複製の時代であり、起源のない引用の時代だと言いたくなります。

     *

 辻褄合わせ地獄(スパイラル)で権力を持つ側が圧倒的に優勢なのは、みなさんご承知のとおりです。

 こうなっているのは、法という最強の「文字による現実と思いの辻褄合わせ集」の後ろ盾があるからにほかなりません。法にのっとってさらなる辻褄合わせをする権利は、常に権力が握っているという仕組みがあるという意味です。構造的な問題というのでしょうか。

 〇〇領令、〇議決定という形で、一人のあるいは少数による辻褄合わせが即法律になったり、法的根拠を持ってしまうのです。それを支えているのが、人事上の任命権や業務の認可権が三権分立と権力の監視をないがしろにし骨抜きにしているという構造です。

 こうなると、法にのっとって辻褄合わせをする権利を握っている権力をのっとらない限り勝ち目はないという理屈になります。

     *

 文字をいじるのは簡単だけど、いじって固まってしまった文字の辻褄合わせは、するほうもそれに付きあうほうもかなり忍耐を要するし、しんどいということになります。これは、文字が人の外にある外だからにほかなりません。

 とはいうものの、文字は便利です。

文字は便利

 文字がどう便利かというと、たとえば文字や文字列の入力、投稿、配信、複製、拡散、保存がほぼ瞬時に同時に、さらには並行して継続することができます(だから、恐ろしいのですけど)。げんにネット上でいまも起きていることです。

 この文章もそうやって、あなたのつかっている端末の画面で読まれているにちがいありません。私にはこれが不思議でならないのです。

     *

 私の入力した文字はどこにあるのでしょう。どこにいったのでしょう。これから先もどこかにあるのでしょうか。その「どこか」ってどこなのでしょう。

 分からないこと、知らないことだらけなのです。でも、知ろうとはしません。ややこしそうだし、調べるのが面倒だから、このまま深く考えることなしにパソコンで文章を入力したり読んだりするという生き方をつづけるつもりです。

一気に書かれたわけではない

 俳句、短歌、詩、新聞や雑誌の記事やコラム、テレビのニュースの原稿、テレビドラマや映画の脚本、口述筆記、インタビュー記事。

 思いつくままに上に並べましたが、小説だけでなくいま挙げたものすべてが文字として書かれ、文字として読まれているはずです。のちに誰かによって音声化されるものであっても、一語一語並べられて、始まりと終りのある文書としてあったはずです。

 こうした広い意味での文書は、一気に書かれたものではありません。加筆、書き直し、推敲、第三者によるチェックや手直し、編集、校正といった作業をへて最終的な原稿や作品として読まれると想像できます。

 書き手が一人であるとも限りません。これは忘れがちですが重要な点だと思います。

     *

 以上述べたことは、小説だけでなく、楽曲や絵画や写真や映画や演劇でも言えることでしょうが、ここでは触れる余裕がありません。それぞれの分野に詳しい方がお考えになるのがいいと思います。

活字は錯覚装置

 文書が一気に書かれたものではないことを実感し体感できるのは、小説の生原稿でしょう。書き込みがあったりして、決して一気呵成に書かれたという印象を与えるものではない原稿が圧倒的に多いです。

 それにもかかわらず、私たちが目にする文書はいわば最終的な形の完成品ですから、まるで一気に書かれたような印象を与えますが、それは錯覚であり事実誤認と言うべきでしょう。

 一気に書かれたという印象を与えるのは、一語一語きれいに活字が並べられたものを目にする(文字を声にしたものであれば、プロによってきれいに音声化された科白やナレーションや朗読を耳にする)からでしょう。

 活字は錯覚装置です。書かれるまでの、しっちゃかめっちゃかや、ああでもないこうでもないが、まるでなかったような顔をして済ましているのが活字なのです。

 文字で書かれたものは線上に伸びていますから、筋があって、その筋に沿ってきれいに流れているように見えます。

 とりわけ、活字になった文字の威力は強いです。あまりにも整然としているために、そしてあまりにも流れが視覚的にきれいなために、整然と書かれたのだろうという錯覚を起こします。

 やっぱり錯覚製造装置です。

「まばらにまだらに」が標準装備

 一気に整然と書かれたように見えるだけで、じっさいには一気に整然と書かれたものでないなら、一気に整然と読まなくてもいいのではないでしょうか。まばらにまだらに、あるいは、ばらばらだらだらと読むという意味です。

 人の集中力や持久力には限りがあります。うわの空で読んでいるなんて、ざらにあるのではないでしょうか。

 うわの空である自分に気づいて読みかえすこともあるでしょうが、ほとんどの場合に、私はそのまま読みつづけます。つまり、まばらにまだらに読んでいるのです。

 これは音楽や絵や映画の鑑賞でもそうだと私は思います。振りかえってみると、じっさい、そんな聞き方や見方をするのがデフォルトだった気がします。私にとっては、まばらにまだらに読むのが「標準装備」なのです。

     *

 創作は一気に滞りなく整然とおこなわれる、鑑賞も一気に滞りなく整然とおこなわれる。

 予定調和的すぎませんか? 出来過ぎた話ではないでしょうか?

 そんな綺麗事はありえないはずなのに、まるでそれが現実におこなわれているという前提のうえで、文学や芸術が論じられているように私には思えてなりません。

 文学と芸術において体裁をつくろう必要があるのでしょうか。

     *

 人のつくるものは人に似ているだけではなく、人は自分のつくるものに似てくるようです。いや、むしろ人は自分のつくるもののようになりたいのかもしれません。

 機械や人工○○のことです(○○に入るのは知能に限りません)。整然と滞りなく作業がこなせるものに、人はなりたいのです。

 人はしょっちゅう鏡を見てお化粧をしているのではないでしょうか? 自分の似姿に常時自分を似せていくのです。それが強迫観念(オブセッション)になっています。

 実際には似姿に似せているのではなく、自分を変えていることに気づいていないのではないでしょうか?

     *

 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。
 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。
 人には見えないものを人は真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。
 真似ている。似ている。

(拙文「文字や文章や書物を眺める」より)

点と線を面として眺める

 私たちは、整然とした字面できれいに流れている文字列からなる文章をどのように読んでいるのでしょうか。

 上で述べたように、私の場合には、かなり適当に、つまり、まばらにまだらに読んでいます。読んでいるだけでなく、見ているとか、ぼーっと眺めていることも多いです。最近は読んでいるというよりも眺めているのがずっと多くなりました。

 先ほど述べた、うわの空状態です。

     *

 文章を読むさいに、点からなる線として、最初の一文字から最後の一文字までの途中で、視線の動きが止まったり、前に戻ったり、場合によっては先を見たり、あるいは一度席を立ったり、長時間または長期の空白があったりすることなく、一気に整然と読みすすめる。

 そんな読み方は現実にあるでしょうか。機械なら、そういう読み方をしそうです。読み取り機ですね。

 コピー機は面としてページを複写しているのであり読んでいるようには思えません。いわゆる自炊用のスキャナーは、線状に文字を追うだけでなく、ひょっとすると面としてページを読み取っているのかもしれません。翻訳機であれば最初から丹念に読んでいる気もします。

 いずれにせよ、文章を面として眺めたり、面として読んだり、線状に戻ることなく一気に読んでいく読み方と見方がありそうです。機械には、です。

     *

 人間はどうやって文章を読んだり見たりしているのでしょう。

 視線の動きを見える形にする機械やソフトがあるようで、視線が点や線として動くさまを映した映像を見たことがありますが、視線の動きがそのまま読んでいるとか見ているという保証にはならない気もします。

 いずれにせよ、視線の動きはたどれるようです。

     *

 話がまばらでまだらになってきたので、小説を読むことに絞ります。

 小説をどんなふうに読むかに絞って考えてみましょう。

 ひとさまのことは知りません。私にとって「小説を読む」とは「点と線を面として眺める」ことだという気がしてなりません。

染み、模様を眺める

 たとえば、私が古井由吉の小説をどんなふうに読んでいるかですが、次のように読んでいます。

     *

もう五時間ちかく人の姿を見ていない男の目の中に、岩の上にひとり坐る女の姿は、はるか遠くからまっすぐに飛びこんできてもよさそうだった。三日間の単独行の最後の下りで、彼もかなり疲れはいた。疲れた軀を運んでひとりで深い谷を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛(じゅばく)を解いて内側からなまなましく顕(あら)われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶(もだ)える女、正坐(せいざ)する老婆(ろうば)、そんな姿がおぼろげに浮かんでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。

古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠新潮文庫所収・p.9・丸括弧内はルビで引用者による)

 

 異、違、移。この場面で描写されている岩は、異和、違和、移和なのです。同じ「いわ」でありながら、つぎつぎとその姿を変えます。

 こうした日常感覚の失調は、下山する男の疲労がもたらすものであると同時に、不自由な言葉の世界に投げこまれた書き手が体験する言葉つまり文字を相手にするときの過酷な不調でもあると私は感じます。

     *

 以上は、拙文「「欠けている」と名指したときに欠ける」という拙文からの引用です。

 

renrenhoshino.hatenablog.com

 この記事では、もう少し具体的に私の読みについて触れているのですが、上の引用部分に私の読み方がいちばんよく出ていると思い、紹介しました。

     *

 単純化して説明します。

「まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛(じゅばく)を解いて内側からなまなましく顕(あら)われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶(もだ)える女、正坐(せいざ)する老婆(ろうば)、そんな姿がおぼろげに浮かんでくる」

という小説の箇所を、

「異、違、移。この場面で描写されている岩は、異和、違和、移和なのです。同じ「いわ」でありながら、つぎつぎとその姿を変えます。」

と読んでいるのです。

 冗談でもなく、奇をてらっているわけでもなく、本気でそう言う読み方をしています。古井由吉は私が尊敬している数少ない書き手の一人です。冗談で、または受けを狙って冗談ぽく語るなんて罰当たりなことは私にはできません。

 私はそう読んでいるのです。

     *

 私にとって、小説は点と線を面として眺めながら読むものなのです。線状に並んだ文字を冒頭から終りまで流れるように読んでいくことはありません。そんなことは一度も経験した覚えがありません。

 いわば、まばらにまだらに眺めてきたのです。

 たとえば、古井由吉宮部みゆき吉田修一スティーヴン・キングパトリシア・ハイスミスなんて大好きですが、どんなジャンルでも、点と線を面として眺めながら読んできました。線状に並んだ文字を冒頭から終りまで流れるように読んでいた記憶はありません。

     *

 面として眺めるのですから、行ったり来たりしたり、ある部分をじっと見ていたり、ある部分はほとんど目を通さなかったり、読むのを中断したり(数年間かかって読んでいる小説もあります)、読みながらメモを取ったり、寝入り際や昼間の夢うつつに思いだしたり、夢に見たり――そんな読み方をしています。

 断じて、整然としてはいないし、一つの方向にきれいに流れて進行していくものではないのです、私にとっては。これは小説を読む場合の話です。

 私は言葉の語義や使い方を調べるために辞書を引くのとは別に、辞書を読んだり眺めることがありますが、辞書の読み方と眺め方と、小説の読み方と眺め方とが、大きく隔たっているという感覚はありません。

 どちらの場合も、同じように文字や文字列と接している気がします。

文字や文字列や文章を見る、眺める、読む

 自分が人とは、ずれている意識はあります。おおいにあると言うべきかもしれません。

 とはいうものの、ある作品を読んで、その作品について誰かが何かで書いたフレーズを引用したり、その作者について貼られているレッテルをまじえたり、その作品の宣伝文句に沿って作文したり、筋を紹介した文章を読書感想文として公表する気にはなりません。

 そうしておけばいいのかもしれません。そうすれば、首を傾げられたり軽蔑されたり、または単に無視されるすることはないでしょう。誰もがそうだそうだと頷いてくれるにちがいありません。

     *

 私にとって読むことは、具体的な文字の形と模様と身振りをひたすら眺め、それから受けるイメージに浸ることにほかなりません。

 そうした文字を読むといういとなみは、しばしば自分が崩れ壊れる感覚をともなうのですが、それは言葉や文字という「外から来た外」の世界に身を置く違和と異和と移和から来ている気がします。

 言葉、とりわけ文字は人を過酷な異世界に誘う異物――いじりやすいのに、ぜったいに人の言うことを聞かない、つまり外にある外――なのです。私にはそう感じられます。

 読むという体験は、必ずしも綺麗に整然とした言葉でまとめられそうな感覚とイメージではありません。

 その意味で、「外から来た外」である異物としての文字に接し、かかわることは崩壊感覚をともなう体験である気がします。少なくとも私にとっては、そうです。

     *

 私が意識散漫な人間であることは確かです。「あなたは、ぼーっとしているね」とよく言われつづけてきたことも事実です。あと、いわゆる論理的思考が苦手だという自覚があります。

「AだからB、BだからC、CだからDだから……」というふうに物が考えられません。また「Aして、次にBして、それでもってCして、それからDして」という物語の筋を追ったり、それを再現するのにもとても苦労します。

 私が話したり書くときには、「Aといえば、Bといえば、Cといえば、Dといえば……」というふうに連想に頼っている気がします。

 だから、私は点からなる線上の文章をたどるのに苦労するし、苦労するからそうするのをやめているようにも思います。

     *

 漏れ聞くところによると、現代の詩の中には冒頭から終りまでを線状に読むことを疑問視したり拒否しているものがあるそうです。当然の帰結として、読むと言うよりも見たり眺めることを想定した書き方になっているらしいのです。

 詩について私は素人なので伝聞の話として紹介しました。誰がどのように書いているのかは知らないので、例を挙げたり具体的にはお話しできませんが、参考になればうれしいです。

     *

 文学作品を、点と線の一方向的な流れとして読むのではなく、面の上の染みや模様として読み、かつ眺めることを想定して創作活動をおこなった人はいまもいるし、大ざっぱな言い方で恐縮ですが昔もいたようです。

 いま私の頭に浮かんでいるのは、フランス語で詩を書いた人であるステファヌ・マラルメ、そして英語で小説を書いたローレンス・スターンと、その作品である『トリストラム・シャンディ』です。

言葉の夢、夢の言葉

 文学作品を、点と線の一方向的な流れとして読むのではなく、面の上の染みや模様として読み、かつ眺める――これは私にとって「言葉の夢」と同時に「夢の言葉」を眺めることなのです。

 あくまでもイメージですが、こんな感じです。以下の動画は、「文字や文章や書物を眺める」でも紹介した、杉浦康平さんのブックデザインです。


www.youtube.com

 文字の顔と表情を眺めながら、浮かんでくる言葉の断片や映像や音の記憶や触感の記憶を体感する――そんな体験なのです。

 私は小説を点と線の流れではなく面に浮かぶ染みとして眺めていく。

 まばらに、まだらに、とりとめなく。

 だらだらと、ばらばらに。