小説をまばらにまだらに読む

線と点で線状に並べていく

 文章は文字で書かれています。文章には始まりがあって終わりがあるのですが、「始まり」とは、書物であれば、冒頭の一文字、一語、一フレーズ、一センテンス、一段落、一章であるといえます。「終わり」も同様に、一文字、一語、一フレーズ、一センテンス、一段落、一章で締めくくられるわけです。

 始まりと終わりのあいだはどうなっているのでしょう。

 文章では、文字や語やフレーズやセンテンスや段落や章が、線状に並んでいきます。行があり、句読点が打たれ、改行や行開けがあったりもしますが、とにかく線なのです。文章をおさめるためには、ページや巻という形で折ったり切ったり割ったりするしかありませんが、とにもかくにも線なのです。

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 発せられた瞬間にどんどん消えていく音声からなる話し言葉と違って、文字からなる文書は始まりと終わりと、そのあいだが目に見えます。

 目に見えるのは文字が物だからでしょう。文章は文字という目に見える物からなる線だと考えられます。

 物である文字は具体的にはインクの染みであったり、液晶画面上の画素の集まりだったりします。

 文字は固定されてもいます。動かないのです。消さないかぎり残ります。これが、片っ端から消えていく話し言葉(音声)との大きな違いです。

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 印刷物なら、他にもたくさんどこかに同じものがあるはずです。遍在するのですから、よく考えると、これはすごいことです。

 しかも、ネット上で読める物であれば、なぜか――どういう仕組みなのか私は知らないのです――どこかに同じ物がたくさん、おそらく無数にあるはずです。

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 不思議でなりません。趣味として、私が言葉のありようを観察しているのは、言葉がこうした不思議だらけだからに他なりません。

 文字からなる文書とまったく同じものがどこかにたくさん(無数に)あるのは、どんな文字も複製だからであり、そもそもどんな文字や文字列も文書も複製で読むものだからでしょう。

 詩も俳句も小説も宣伝のコピーも法令も実用書も経典も聖典も、すべて複製で読まれています。

 あっさりと書きましたが、私には不思議でなりません。話として頭では分かりますが、どう受けとめていいのかよく分からないところがあるのは、体感できないからでしょう。

 知識が体感できるとは限らないのです。

言葉は人の外にある外

 おそらく平らな面に広がる点でも線状のものでもないもの――現実や思いのことです――を、文字という人の外にあって外であるもの――物だという意味です――をもちいて、平面上に点と線として配列する――作文のことです――というのは不思議な、いとなみだと言わなければなりません。

 人がこんなことをしているのは人の中にそういう仕組みがある、としか私には考えられません。

 おそらく人の中にある仕組みに合わせた形で、人は自分の外にある外――人の思いのとおりにはならないという意味です――である物を利用している。そのように私はイメージしています。

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 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。
 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。
 人には見えないものを人は真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。
 真似ている。似ている。

(拙文「文字や文章や書物を眺める」より)

 

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 いずれにせよ、文字は人の外にある物です。物だから見えるし、見えるから他の人といっしょに確認できるし、他の人と共有できます。

 音読すれば声、つまり話し言葉にもなります。発したとたんにつぎつぎと消えていく声と異なり、消さないかぎり残ります。

 しかも、持ち運びができます。つまり、「うつす」ことができるのです。写すことも、映すことも、移すこともできるという意味です。こう考えると文字はとても便利です。 

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 それだけではありません。文言をいじるという形で文字はいじれます。

 ただし、いじりやすいのは、それがインクの染みや液晶上の画素の集まりである物としての文字だからであって、曖昧模糊とした思いや、手を加えるのが困難(多くの場合には不可能)な現実ではないからです。

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 そもそも、文字と現実と思いは別物であって、一対一に対応したり、きれいにぴったり重なるものでは断じてありません。これを忘れてはなりません。

 だから、文字で現実や思いの辻褄合わせや帳尻合わせをするのは無理があります。 

 そんな無茶をすると無理がたたって喜劇や悲劇が生まれます。実のところ、あちこちで喜劇や悲劇や悲喜劇が生まれています。これは文字を使う誰もが日々体験することです。

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 人類にとって最大の悲劇である戦争も、現実の辻褄合わせを言葉でおこなっていることから、しばしば起きます。

「きょうから、黒いカラスは白いサギだ」

 たった一人、または一握りの人たちの辻褄合わせに、国民だけでなく、世界が付き合わされています。現在の話です。

「きょうから、黒いカラスは白いサギだ」

「異議なし。そのとおりでございます」

 このようにして「黒いカラスは白いサギである」と決まり、文字になって複製されて世界中に拡散すると、もう消せません。

 文字は決めた人の手の届かない、「人の外にある外」だからです。

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 かくして今度は文字の辻褄合わせと帳尻合わせのスパイラル(デフレスパイラルのスパイラルです)が始まります。苦労するのは、それに付き合わされた国民です。スパイラルは渦ですが禍でもあります。

 どだい無理な辻褄合わせは必ず綻(ほころ)びが生じますから、つぎつぎと綻びをつくろう必要が出てきます。切りがないわけです。やっぱり、渦どころか禍でしょう。

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 ここまでをまとめます。

 文字はいじりやすいのですが、いったん文字にすると残ります。複製されてたちまち拡散もします。すると取り消すことができなくなるのです。

 これを取り消すことができないため、辻褄合わせはエスカレートするしかないという悪循環(スパイラル)におちいりますが、これは恐ろしい話です。いま起きている戦争の話です。 

 政府や体制の失策も、同じようにして起こります。「○○主義」「○○政策」と標榜されるものがそうです。取り消せません。あちこちに文字として、つまり報道や通達の文書や書類や法令として残っているからです。

複製、拡散、保存される文字

 何が恐ろしいって、戦争も恐ろしいですが、文字が外であること、つまり文字が人の思い通りにならないことが、もっとも恐ろしいのです。

 いじりやすいのに、思い通りにならないし、言うことを聞かないのですから。こんなやっかいなものが、文字のほかにありますか。

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 戦争までには至っていませんが、人びとが権力側にいる人の辻褄合わせに付き合わされる例はあちこちで見られます。

 自分にとって都合の悪いことは、フェイクニュース、嘘、印象操作、でたらめ、捏造、フィクション、事実か確認できない、記憶にないと決めつけたり決めるわけです。

 つまり、その人は言葉をいじって、それで辻褄合わせや帳尻合わせをした気分になります。その言葉が文字、つまり文書になり、固定され複製され拡散され保存されます。

 すると、その文字化されてがちがちに固まった言葉を支持するか支持しないかで、人びとが分断されるという事態を招きます。

 真偽や正誤や善悪といったかつての判断基準が機能しなくなり、声の大きさや権力(暴力を法にのっとって行使する権利)で、「そうだ」「そうでない」が決まる時代に、いまはなっています。

本物(実物)のない複製の時代、起源のない引用の時代

 権力側は辻褄を合わせるためには何でもしますから、エスカレートして辻褄合わせ地獄になります。

 現在は、真偽、本物と偽物、正誤、善悪の境が曖昧になっている気がしてなりません。複製には複製の本物があり、引用には引用の起源があるというモデルが曖昧になっているからでしょう。

 そもそも真対偽、本物対偽物、実物対複製、起源対引用、正対誤、善対悪なんて図式はウソという感じです。

 本物や起源の権威が失われてきているだけでなく、本物や起源という概念を成立させている西欧的な知の枠組み自体が危うくなってきているとも言えるでしょう。

 本物(実物)のない複製の時代であり、起源のない引用の時代だと言いたくなります。

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 辻褄合わせ地獄(スパイラル)で権力を持つ側が圧倒的に優勢なのは、みなさんご承知のとおりです。

 こうなっているのは、法という最強の「文字による現実と思いの辻褄合わせ集」の後ろ盾があるからにほかなりません。法にのっとってさらなる辻褄合わせをする権利は、常に権力が握っているという仕組みがあるという意味です。構造的な問題というのでしょうか。

 〇〇領令、〇議決定という形で、一人のあるいは少数による辻褄合わせが即法律になったり、法的根拠を持ってしまうのです。それを支えているのが、人事上の任命権や業務の認可権が三権分立と権力の監視をないがしろにし骨抜きにしているという構造です。

 こうなると、法にのっとって辻褄合わせをする権利を握っている権力をのっとらない限り勝ち目はないという理屈になります。

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 文字をいじるのは簡単だけど、いじって固まってしまった文字の辻褄合わせは、するほうもそれに付きあうほうもかなり忍耐を要するし、しんどいということになります。これは、文字が人の外にある外だからにほかなりません。

 とはいうものの、文字は便利です。

文字は便利

 文字がどう便利かというと、たとえば文字や文字列の入力、投稿、配信、複製、拡散、保存がほぼ瞬時に同時に、さらには並行して継続することができます(だから、恐ろしいのですけど)。げんにネット上でいまも起きていることです。

 この文章もそうやって、あなたのつかっている端末の画面で読まれているにちがいありません。私にはこれが不思議でならないのです。

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 私の入力した文字はどこにあるのでしょう。どこにいったのでしょう。これから先もどこかにあるのでしょうか。その「どこか」ってどこなのでしょう。

 分からないこと、知らないことだらけなのです。でも、知ろうとはしません。ややこしそうだし、調べるのが面倒だから、このまま深く考えることなしにパソコンで文章を入力したり読んだりするという生き方をつづけるつもりです。

一気に書かれたわけではない

 俳句、短歌、詩、新聞や雑誌の記事やコラム、テレビのニュースの原稿、テレビドラマや映画の脚本、口述筆記、インタビュー記事。

 思いつくままに上に並べましたが、小説だけでなくいま挙げたものすべてが文字として書かれ、文字として読まれているはずです。のちに誰かによって音声化されるものであっても、一語一語並べられて、始まりと終りのある文書としてあったはずです。

 こうした広い意味での文書は、一気に書かれたものではありません。加筆、書き直し、推敲、第三者によるチェックや手直し、編集、校正といった作業をへて最終的な原稿や作品として読まれると想像できます。

 書き手が一人であるとも限りません。これは忘れがちですが重要な点だと思います。

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 以上述べたことは、小説だけでなく、楽曲や絵画や写真や映画や演劇でも言えることでしょうが、ここでは触れる余裕がありません。それぞれの分野に詳しい方がお考えになるのがいいと思います。

活字は錯覚装置

 文書が一気に書かれたものではないことを実感し体感できるのは、小説の生原稿でしょう。書き込みがあったりして、決して一気呵成に書かれたという印象を与えるものではない原稿が圧倒的に多いです。

 それにもかかわらず、私たちが目にする文書はいわば最終的な形の完成品ですから、まるで一気に書かれたような印象を与えますが、それは錯覚であり事実誤認と言うべきでしょう。

 一気に書かれたという印象を与えるのは、一語一語きれいに活字が並べられたものを目にする(文字を声にしたものであれば、プロによってきれいに音声化された科白やナレーションや朗読を耳にする)からでしょう。

 活字は錯覚装置です。書かれるまでの、しっちゃかめっちゃかや、ああでもないこうでもないが、まるでなかったような顔をして済ましているのが活字なのです。

 文字で書かれたものは線上に伸びていますから、筋があって、その筋に沿ってきれいに流れているように見えます。

 とりわけ、活字になった文字の威力は強いです。あまりにも整然としているために、そしてあまりにも流れが視覚的にきれいなために、整然と書かれたのだろうという錯覚を起こします。

 やっぱり錯覚製造装置です。

「まばらにまだらに」が標準装備

 一気に整然と書かれたように見えるだけで、じっさいには一気に整然と書かれたものでないなら、一気に整然と読まなくてもいいのではないでしょうか。まばらにまだらに、あるいは、ばらばらだらだらと読むという意味です。

 人の集中力や持久力には限りがあります。うわの空で読んでいるなんて、ざらにあるのではないでしょうか。

 うわの空である自分に気づいて読みかえすこともあるでしょうが、ほとんどの場合に、私はそのまま読みつづけます。つまり、まばらにまだらに読んでいるのです。

 これは音楽や絵や映画の鑑賞でもそうだと私は思います。振りかえってみると、じっさい、そんな聞き方や見方をするのがデフォルトだった気がします。私にとっては、まばらにまだらに読むのが「標準装備」なのです。

     *

 創作は一気に滞りなく整然とおこなわれる、鑑賞も一気に滞りなく整然とおこなわれる。

 予定調和的すぎませんか? 出来過ぎた話ではないでしょうか?

 そんな綺麗事はありえないはずなのに、まるでそれが現実におこなわれているという前提のうえで、文学や芸術が論じられているように私には思えてなりません。

 文学と芸術において体裁をつくろう必要があるのでしょうか。

     *

 人のつくるものは人に似ているだけではなく、人は自分のつくるものに似てくるようです。いや、むしろ人は自分のつくるもののようになりたいのかもしれません。

 機械や人工○○のことです(○○に入るのは知能に限りません)。整然と滞りなく作業がこなせるものに、人はなりたいのです。

 人はしょっちゅう鏡を見てお化粧をしているのではないでしょうか? 自分の似姿に常時自分を似せていくのです。それが強迫観念(オブセッション)になっています。

 実際には似姿に似せているのではなく、自分を変えていることに気づいていないのではないでしょうか?

     *

 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。
 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。
 人には見えないものを人は真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。
 真似ている。似ている。

(拙文「文字や文章や書物を眺める」より)

点と線を面として眺める

 私たちは、整然とした字面できれいに流れている文字列からなる文章をどのように読んでいるのでしょうか。

 上で述べたように、私の場合には、かなり適当に、つまり、まばらにまだらに読んでいます。読んでいるだけでなく、見ているとか、ぼーっと眺めていることも多いです。最近は読んでいるというよりも眺めているのがずっと多くなりました。

 先ほど述べた、うわの空状態です。

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 文章を読むさいに、点からなる線として、最初の一文字から最後の一文字までの途中で、視線の動きが止まったり、前に戻ったり、場合によっては先を見たり、あるいは一度席を立ったり、長時間または長期の空白があったりすることなく、一気に整然と読みすすめる。

 そんな読み方は現実にあるでしょうか。機械なら、そういう読み方をしそうです。読み取り機ですね。

 コピー機は面としてページを複写しているのであり読んでいるようには思えません。いわゆる自炊用のスキャナーは、線状に文字を追うだけでなく、ひょっとすると面としてページを読み取っているのかもしれません。翻訳機であれば最初から丹念に読んでいる気もします。

 いずれにせよ、文章を面として眺めたり、面として読んだり、線状に戻ることなく一気に読んでいく読み方と見方がありそうです。機械には、です。

     *

 人間はどうやって文章を読んだり見たりしているのでしょう。

 視線の動きを見える形にする機械やソフトがあるようで、視線が点や線として動くさまを映した映像を見たことがありますが、視線の動きがそのまま読んでいるとか見ているという保証にはならない気もします。

 いずれにせよ、視線の動きはたどれるようです。

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 話がまばらでまだらになってきたので、小説を読むことに絞ります。

 小説をどんなふうに読むかに絞って考えてみましょう。

 ひとさまのことは知りません。私にとって「小説を読む」とは「点と線を面として眺める」ことだという気がしてなりません。

染み、模様を眺める

 たとえば、私が古井由吉の小説をどんなふうに読んでいるかですが、次のように読んでいます。

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もう五時間ちかく人の姿を見ていない男の目の中に、岩の上にひとり坐る女の姿は、はるか遠くからまっすぐに飛びこんできてもよさそうだった。三日間の単独行の最後の下りで、彼もかなり疲れはいた。疲れた軀を運んでひとりで深い谷を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛(じゅばく)を解いて内側からなまなましく顕(あら)われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶(もだ)える女、正坐(せいざ)する老婆(ろうば)、そんな姿がおぼろげに浮かんでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。

古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠新潮文庫所収・p.9・丸括弧内はルビで引用者による)

 

 異、違、移。この場面で描写されている岩は、異和、違和、移和なのです。同じ「いわ」でありながら、つぎつぎとその姿を変えます。

 こうした日常感覚の失調は、下山する男の疲労がもたらすものであると同時に、不自由な言葉の世界に投げこまれた書き手が体験する言葉つまり文字を相手にするときの過酷な不調でもあると私は感じます。

     *

 以上は、拙文「「欠けている」と名指したときに欠ける」という拙文からの引用です。

 

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 この記事では、もう少し具体的に私の読みについて触れているのですが、上の引用部分に私の読み方がいちばんよく出ていると思い、紹介しました。

     *

 単純化して説明します。

「まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛(じゅばく)を解いて内側からなまなましく顕(あら)われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶(もだ)える女、正坐(せいざ)する老婆(ろうば)、そんな姿がおぼろげに浮かんでくる」

という小説の箇所を、

「異、違、移。この場面で描写されている岩は、異和、違和、移和なのです。同じ「いわ」でありながら、つぎつぎとその姿を変えます。」

と読んでいるのです。

 冗談でもなく、奇をてらっているわけでもなく、本気でそう言う読み方をしています。古井由吉は私が尊敬している数少ない書き手の一人です。冗談で、または受けを狙って冗談ぽく語るなんて罰当たりなことは私にはできません。

 私はそう読んでいるのです。

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 私にとって、小説は点と線を面として眺めながら読むものなのです。線状に並んだ文字を冒頭から終りまで流れるように読んでいくことはありません。そんなことは一度も経験した覚えがありません。

 いわば、まばらにまだらに眺めてきたのです。

 たとえば、古井由吉宮部みゆき吉田修一スティーヴン・キングパトリシア・ハイスミスなんて大好きですが、どんなジャンルでも、点と線を面として眺めながら読んできました。線状に並んだ文字を冒頭から終りまで流れるように読んでいた記憶はありません。

     *

 面として眺めるのですから、行ったり来たりしたり、ある部分をじっと見ていたり、ある部分はほとんど目を通さなかったり、読むのを中断したり(数年間かかって読んでいる小説もあります)、読みながらメモを取ったり、寝入り際や昼間の夢うつつに思いだしたり、夢に見たり――そんな読み方をしています。

 断じて、整然としてはいないし、一つの方向にきれいに流れて進行していくものではないのです、私にとっては。これは小説を読む場合の話です。

 私は言葉の語義や使い方を調べるために辞書を引くのとは別に、辞書を読んだり眺めることがありますが、辞書の読み方と眺め方と、小説の読み方と眺め方とが、大きく隔たっているという感覚はありません。

 どちらの場合も、同じように文字や文字列と接している気がします。

文字や文字列や文章を見る、眺める、読む

 自分が人とは、ずれている意識はあります。おおいにあると言うべきかもしれません。

 とはいうものの、ある作品を読んで、その作品について誰かが何かで書いたフレーズを引用したり、その作者について貼られているレッテルをまじえたり、その作品の宣伝文句に沿って作文したり、筋を紹介した文章を読書感想文として公表する気にはなりません。

 そうしておけばいいのかもしれません。そうすれば、首を傾げられたり軽蔑されたり、または単に無視されるすることはないでしょう。誰もがそうだそうだと頷いてくれるにちがいありません。

     *

 私にとって読むことは、具体的な文字の形と模様と身振りをひたすら眺め、それから受けるイメージに浸ることにほかなりません。

 そうした文字を読むといういとなみは、しばしば自分が崩れ壊れる感覚をともなうのですが、それは言葉や文字という「外から来た外」の世界に身を置く違和と異和と移和から来ている気がします。

 言葉、とりわけ文字は人を過酷な異世界に誘う異物――いじりやすいのに、ぜったいに人の言うことを聞かない、つまり外にある外――なのです。私にはそう感じられます。

 読むという体験は、必ずしも綺麗に整然とした言葉でまとめられそうな感覚とイメージではありません。

 その意味で、「外から来た外」である異物としての文字に接し、かかわることは崩壊感覚をともなう体験である気がします。少なくとも私にとっては、そうです。

     *

 私が意識散漫な人間であることは確かです。「あなたは、ぼーっとしているね」とよく言われつづけてきたことも事実です。あと、いわゆる論理的思考が苦手だという自覚があります。

「AだからB、BだからC、CだからDだから……」というふうに物が考えられません。また「Aして、次にBして、それでもってCして、それからDして」という物語の筋を追ったり、それを再現するのにもとても苦労します。

 私が話したり書くときには、「Aといえば、Bといえば、Cといえば、Dといえば……」というふうに連想に頼っている気がします。

 だから、私は点からなる線上の文章をたどるのに苦労するし、苦労するからそうするのをやめているようにも思います。

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 漏れ聞くところによると、現代の詩の中には冒頭から終りまでを線状に読むことを疑問視したり拒否しているものがあるそうです。当然の帰結として、読むと言うよりも見たり眺めることを想定した書き方になっているらしいのです。

 詩について私は素人なので伝聞の話として紹介しました。誰がどのように書いているのかは知らないので、例を挙げたり具体的にはお話しできませんが、参考になればうれしいです。

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 文学作品を、点と線の一方向的な流れとして読むのではなく、面の上の染みや模様として読み、かつ眺めることを想定して創作活動をおこなった人はいまもいるし、大ざっぱな言い方で恐縮ですが昔もいたようです。

 いま私の頭に浮かんでいるのは、フランス語で詩を書いた人であるステファヌ・マラルメ、そして英語で小説を書いたローレンス・スターンと、その作品である『トリストラム・シャンディ』です。

言葉の夢、夢の言葉

 文学作品を、点と線の一方向的な流れとして読むのではなく、面の上の染みや模様として読み、かつ眺める――これは私にとって「言葉の夢」と同時に「夢の言葉」を眺めることなのです。

 あくまでもイメージですが、こんな感じです。以下の動画は、「文字や文章や書物を眺める」でも紹介した、杉浦康平さんのブックデザインです。


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 文字の顔と表情を眺めながら、浮かんでくる言葉の断片や映像や音の記憶や触感の記憶を体感する――そんな体験なのです。

 私は小説を点と線の流れではなく面に浮かぶ染みとして眺めていく。

 まばらに、まだらに、とりとめなく。

 だらだらと、ばらばらに。