文字や文章や書物を眺める

 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。

 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。

 人には見えないものを人は真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。知らないものを真似ている。

 真似ている。似ている。

線や帯を巻く

 レコード、カセットテープ、映画、ビデオテープ、蚊取り線香、トイレットペーパー――どれもが細い線や幅のある帯を巻いたものです。

 レコードは、よく見ると、ぎざぎざした溝である細い線が渦を巻いています。私が初めてカセットレコーダーを買ってもらったのは、むき出しの磁気テープである帯を巻いた、オープンリールという方式からカセットテープに移行する時期でした。帯が細くなり、小さな箱に収められるようになったのです。

 そういえば、初期のコンピューターにはガラスの窓がついていて磁気テープが回っているのが見えた記憶があります。ずずっずずっという具合に、なんだか生き物じみた動きをしていました。ときどき戸惑うように見えたのです。映画は、巻いた帯状のフィルムを映写機で銀幕に映す形で公開されていました。フィルムはしゃーっという感じで流れます。綺麗な模様の蛇の動きを連想した記憶があります。

 ビデオテープは音と像の両方を磁気テープに記憶させた画期的な発明だったらしい。映画のフィルムにサウンドトラックという細い帯が伴走していたものの進化形なのでしょうか。

 以上述べた知識を私は言葉で知っているだけで、仕組みについてはぜんぜん分かっていません。ただ、いま挙げたアナログ的な仕組みのもののほうが、そうした知識を体感しやすいような気がします。錯覚なのでしょうが。

 デジタルは情報処理となると、私にはまったく体感できません。体感するとっかかりがないのです。

巻物、綴じた本

 トイレットペーパーといえば、トイレで目にするたびに昔の巻物を連想します。絵や文字が書かれていた巻物のことです。

 そうした絵と文字からなる文には、流れがあります。その流れは無限ではなく限りのある線や帯や面として存在しています。「限りがある」というのは始まりと終りがあるという意味であり、「存在している」というのは物だという意味です。

 巻物の始まりと終りのあいだには、ある順序や秩序に沿った流れがあり、その流れは筋とも言えるでしょう。筋道を立てて話すという言い回しに見られる筋のことです。

 巻物といえば、巻物を裁断すると紙切れになります。その紙切れを流れにしたがって束ねて綴じていくと本になります。巻物と同じく本にも絵があり、文字からなる文が載っているものがあります。

 ページという二次元の枠に収められた絵や写真と、やはり二次元の枠で区切られた文字の列が印刷されている本にも始めと終りがあります。

 人の作った線や帯や面や連続した面や流れや筋には、必ず枠――たとえばページやコマ(コマ送りのコマ)やコマ数や場面(シーン)や段落や章――と、始まりと終り(これも枠ですが)があるのではないでしょうか。

読む、見る、眺める

 本といえば、いまは綴じた紙のページからなる本よりも、インターネットに接続されたさまざま端末機の画面を読んだり見ている人が増えているそうです。私もその一人です。

 人は液晶の画面をスクロールしたりスライドして、文字からなる文を読んだり見たり、静止画像や動画をじっと見たりぼんやりと眺めているわけですが、そのさまは巻物を見たり読むに似ています。スクロールには巻物の意味があり、なるほどと納得します。

 右から左へ流れるか、上から下へ流れるかの違いはあっても、巻物と同じようにある方向に目を走らせていると言えそうです。ある点から流れるように線状に目を走らせているのでしょう。

 点が移動して線になるという、例の話です。

 走らせるといえば、速度を上げて動画や番組を見るケースが増えていると聞きますが、そうやって映像と同時に文字も読んでいるようです。忙しかったり、せっかちな人が多くなっていると思われますが、倍速で文字を読むとすれば、もはや読むと言うよりも見ているのではないでしょうか。

 たしかに現在は文字はしだいに読まれなくなり、見る対象になっている気が私にはします。熟読とか精読とか丹念に文字を追うという言い回しが、最近ぴんと来ないのです。誰もがせわしく文字を追っている。読むと言うよりも見ている感じがしてなりません。

視線の動き

 本のページや、端末の画面を目にして、人はどうやって見たり読んだりしているのでしょう。

 視線という、おそらく点のようなものをページや画面に当てることで――レーザー光線を面にピンポイントで当てるさまをイメージしています――、点を移動させて線で、面を読んだり見たりしているのではないでしょうか。

 点と言っても、ある程度の面積が視野に入っているようなので、面に近い大きめの点なのかもしれません。そうなると点を移動させた線というより、ある程度の幅を持った帯と考えたほうがよさそうです。

 この帯の幅は、その時々の気分や集中度によって大きさが変わるでしょう。また帯にも濃淡がありそうです。濃ければきちんと読んだり見ていて、薄ければぼーっと、あるいはうわの空で眺めているだけだという意味です。

 まだらであったり、まばらに見ているとか読んでいるという状態が、人には意外とあるのではないでしょうか。年を取ったせいか、ぼーっとしていることの多い私には、まばらやまだらというのが、とてもリアルな感覚なのです。

 私は自分がまだら状とか、まばら状だという気がします。意識だけでなく存在として、です。

薄っぺらい、ぺらぺら

 巻物、本、レコード、カセットテープ、映画、ビデオテープ、蚊取り線香、トイレットペーパー――こうした広い意味での巻いた物はある部分が薄っぺらで、ぺらぺらしています。巻物だから当然と言えば当然なのですけど。

 細い溝や線を巻いたレコードや蚊取り線香のようが平べったい円盤状(ディスク)であったり、薄いぺらぺらしたもの――紙、羊皮紙、フィルム、磁気テープ――を巻き取ってあるという意味です。

 CD、MDのDはディスクで円盤です。そういえば、レーザーディスクなんてありました。ハードディスクも円盤ですが、これはパソコンを壊して解体したときに見たことがあります。

 ICカードやICチップは薄いです。ポテトチップスも薄い。ICのCはサーキットですから、円環とか輪っかのイメージを感じますが、これも薄そうです。

 ひょっとすると、こうしたぺらぺらしたものに載っていたり内蔵されているらしい文字や絵や映像は、薄っぺらいのではないでしょうか。厚みがあるとは考えにくいのです。

 でも、人はその薄いものから、量や厚みがありそうなものを読み取っているみたいに思えます。量や厚みがあるだけでなく、深みや奥行きさえ読み取っているかのよう。情報とか知識のことです。

Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでする

 そんなふうに考えると不思議です。まさに深そうな話に思えてきます。深いではなく、深そうです。

 薄いと厚い、浅いと深い、細いと太い、小さいと大きい、軽いと重い、短いと長い、近いと遠い。

 こうしたものは同居しているのではないでしょうか。私にはそうとしか考えられません。

 たぶん、いま挙げた、「と」で結ばれたペアたちが反対に見えるのは、そうした言葉が反対語みたいに扱われているからであり、つまり言葉の世界でそうなっているだけであって、言葉で現実や思いや印象の辻褄合わせや帳尻合わせをするから、矛盾しているように感じられるだけ――そんな気がします。

 言葉と現実と思いや印象はそれぞれが別個のものですから、それぞれのあいだで一対一に対応しているわけはないのでしょう。Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでするのには無理がありそうです。

Aの代わりにAとは別のもので済ませる

 そもそも人は矛盾することをしています。

 厚いものの代わりに薄いもので済ます。
 深いものの代わりに浅いもので済ます。
 太いものの代わりに細いもので済ます。
 大きいもののかわりに小さいもので済ます。
 重いものの代わりに軽いもので済ます。
 長いものの代わりに短いもので済ます。
 人間の代わりに人間でないもので済ます。
 人間でないものに代わりに人間のようなもので済ます。
 遠いものの代わりに近いもので済ます。

 巻物、本、レコード、カセットテープ、映画、ビデオテープ、蚊取り線香、トイレットペーパー。

 絵、遠近法、地図、世界地図、地球儀、年表、言葉(音、文字、表情、身振り、しるし)、放送、報道、写真、レントゲン、顕微鏡、望遠鏡、電話、電報、放送、孫の手、糸電話、人生ゲーム、人形、キャラクター、小説、演劇、漫画、アニメ、ロボット、仮想現実、人工知能、生成AI、MRI、CT、遠隔操作、遠隔医療。

 Aの代わりにAとは別のもので済ませる。
 Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでする。

 遠くを近くする。
 遠くを知覚する。

 やっているじゃありませんか。要するに、Aの代わりにAとは別のもので済ませて澄ましている。しらっと澄ました顔をしてやっているのです。知覚と錯覚をうまく利用しているわけです。

 それを言葉、とくに文字にすると、矛盾や、辻褄合わせや帳尻合わせをやっていることがもろに出る、つまり目立つ。とはいうものの、深くは受けとめずに、あれれーっと思うだけ。

 反意語とか対義語というのは、やらせというか、自作自演の狂言というか、人だけに受けるギャグに見えてなりません。勘違いとか、なにかの間違いではないのでしょうか。

 そんなふうに私には見えます。たぶん私にだけそう見えるのかもしれませんけど。

抽象と具象の同居

 遠くを近くする。
 遠くを知覚する。
 遠くを近いと錯覚する仕組みをうまく利用している。

 手で触ったり直接目にできないものを抽象と呼び、手で触ったり肉眼で見たりできるものを具象と呼んでみます。

 抽象の代わりに具象で済ませて澄ましている――。

 こういうことをしていると、抽象と具象が同居してあらわれる、見えることになります。

     *

 いちばん分かりやすいのが言葉だと思います。言葉では抽象と具象が同居しています。

 同居しているというか、抽象と具象のあいだを行き来しているというのが正確な言い方かもしれません。

 遠くを近くする。遠くが近くなる。
 近くを遠くする。近くが遠くなる。

 たとえば、「猫が眠っている。」という文字を読んでいると、猫が眠っている光景が頭に浮かびますが(または人によってはそれとは別の光景が浮かびますが)、それはいまここにはない光景です。

 頭に浮かぶ猫は肉眼で見ているわけでなく、その猫に触ることもできません。それが抽象です。抽象は人ぞれぞれが勝手にいだくものでもあります。

「猫が眠っている。」という文字に意識を集中してじっと見ていると、文字だけが感じられてきます。これが具象です。

     *

 以下の太文字の文をじっと見つめてください。

 猫が眠っている。

 書体、フォント、漢字、ひらがな、濁点、句点と呼ばれる「。」、促音を表わす「っ」という小さな「つ」、漢字の偏旁(へんとつくり)、太文字であること――つまり、文字や形や模様(これが具象です)としての「猫が眠っている。」に意識が行って、頭に浮かんでいた「猫が眠っている姿」が消える。

猫が眠っている。」と口にして出た音(音声)でも同じです。

 その声を聞いて姿や光景(抽象です)を思いうかべる。聞こえている音としての声(つまり、声の質や高さや響きという体感できるものが具象です)に意識を集中する。

 抽象と具象が同居している言葉を、人は抽象(そこにはない像)としてとらえたり、具象(そこにある文字やいま聞いている音)として体感しているわけです。両者のあいだを行ったり来たりします。

 こうしたとりとめのない話をしていると、眠くなります。おそらく、ふちとか、ほとりとか、きわにいるからでしょう。ゆめうつつ、ゆめとうつつのふちにいる。

文字や文章や書物を眺める

 文字や文章や書物を読む(意味や内容やメッセージといった抽象としてとらえる)だけでなく、つまりその遠くを見るだけでなく、文字や文章や書物そのものを眺めてもいいのではないでしょうか。

 近くは意外と遠いのです。薄くて軽くてぺらぺらしたものが意外と深淵であり深遠であったりもします。ふちに立つと体感できます。

 


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  上の動画は、杉浦康平さんのブックデザインなのですが、文字と文章と書物が眺める対象になるさまをよく見せてくれている映像だと思います。大ざっぱに言うなら、私はそんな感じで文章を見ていることがあります。

 そのときの私はひょっとするとまだらでまばらなのかもしれません。それでいいのだと思います。