異、違、移

それは強烈な個性ではなかった。なるほど強烈な個性はまわりの人間たちを、異和感と屈辱感によってだけでも、かなり遠くまで引きずって行くことができる。実際にそんなこともあった。 

古井由吉『先導獣の話』(『木犀の日』所収)講談社文芸文庫p.22)

違和感、異和感

「いわかん」といえば違和感と書くのが一般的ですが、異和感という表記もあります。

 古井由吉の作品では「異和感」という表記で統一されている気がします。たとえば、『槿』(講談社文芸文庫)だと p.10、冒頭で引用した『先導獣の話』(『木犀の日』所収)では、講談社文庫版の p.22 に見えます。

 村上春樹の作品でも見かけたことがあります。私がたまたま目にしたのは『1973年のピンボール』(講談社文庫)の p.12 で、そこには三つ続けて出てきます。

 吉田修一もそうみたいです。一例を挙げると『東京湾景』(新潮社文庫)の p.13 をご覧ください。他にもあると思っていましたが、先日『怒り 下』(中央公論新社)を読みかえしていたところ、p.143 に「違和感」がありました。もともと新聞に連載されたものだからでしょうか。

『杳子』における異和感と違和感

 後で引用しますが、古井由吉の『杳子』には異和感という言葉が、たぶん一箇所しかつかわれていません(他にもつかわれていたら、ごめんなさい)。

 それにもかかわらず、あれだけ異和感と違和感に満ちた作品が書けるのですから、古井先生はすごいと思います。私は、各ページというか全ページに異和感と違和感を感じます。

 私は文庫本の『杳子』で一度に読めるのが、せいぜい五ページまでです。読んでいると息が苦しくなり目まいがしてくるので、休み休み読みすすめるしかない作品なのです。

杳子、《ヨウコさん》

 一週間目の夜に電話をかけると、杳子に似た声が受話器の中から細く響き出てきた。杳子の声とはすこし違うなと聞き分けて、「Sという者ですが。ヨウコさんはご在宅でしょうか」と初めて口にする《ヨウコさん》という言葉にぞっとするような異和感を覚えながら言うと、「少々お待ちください」という無表情な声とともに受話器がコトリと台の上に置かれて、足音がたしかに階段を登っていった。

古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収)新潮文庫 pp.133-134)

 ここで異和感がつかわれていますが、作品のテーマとかかわっているという意味で興味深い箇所です。一貫して「杳子」と記述されてきた名前が、ここで初めて「ヨウコさん」、しかももう一度「《ヨウコさん》」と二重山括弧でくくられて出てくるのです。

 杳子の姉という杳子と彼にとっての「異物」が受話器から聞こえる声として介入する瞬間だからに他なりません。同時に言葉が異物として立ちあらわれます。この展開は、言葉からなる文学作品である『杳子』における内的必然とも言えます。

 杳子がヨウコとカタカナにされた異物感、そして二重山括弧《》でくくられたさいのさらなる異物感に私は震えを覚えないではいられません。それだけではありません。

名前

 考えすぎでしょうか。語り手や登場人物の人称代名詞や「名」について、古井はかなり考える書き手だったことを考慮すると、考えないほうが失礼だと思えてきます。

 もう二十年になりますが、「杳子」という小説を書いたことがあります。これはヒロインです。それに男性の、副主人公に当たる人物がいる。これは語り手、つまり著者の側に付いているので、ある意味では主人公といってよい地位にある。それをずっと書きすすんでいって、副主人公だから当然名前がいりそうなもんなんだけど、どうしてもつけられない。何か苗字でもつけたら、とたんに自分の筆がおかしくなるんじゃないか、そこで避けるだけ避けて、とうとう後半になって、人に名前を呼ばれる会話の部分でどうしても名前をださないわけにはいかなくなった。名なしのゴンベじゃ人は呼べないわけだから。「S」って頭文字を使いました。頭文字とは言いながら、じつは名前は浮かんでないのです。(後略)
古井由吉「「私」という虚構」p.317『招魂としての表現』(福武文庫)所収)

 確かに『杳子』の後半で、「杳子」を「ヨウコ」と呼ぶ杳子の姉の口から――会話での姉の言葉の中で「ヨウコ」と表記されるという意味です――、「S」が複数出てきます。どれもが電話口での会話です。以下はその一例です。

「ちょっと、おたずねしたいことがあるのですけど、Sさん」
と固い顰め面をありありと感じさせる声が返ってきた。
古井由吉『杳子』p.139(新潮文庫))

「S」は、この直後にも出てきます。

「S」だけにとどまらず、「杳子」と「ヨウコ」という表記の使い分けも気になります。これだけで記事が一本書けそうです。ここでは、「女・杳子・彼女・ヨウコ」と「姉・お姉さん・あの人」については割愛させていただきます。

【※別件ですが、蓮實重彦氏は『夏目漱石論』で、夏目漱石の『三四郎』において、登場人物のある女性が「女」と表記されるか、「美穪子(美禰子)」という固有名詞で表記されるかに注目して刺激的な考察をおこなっています。書き手が、ある登場人物をどう「呼ぶか/呼ばないか」つまりどう「書くか/書かないか」は看過できない要素として書き手に働きかけているように思われます。】

「S」に話を戻しますが、いずれにせよ、古井はこうしたこだわりがある書き手だったということです。看過するわけにはいきません。

(拙文「「私」を省く」より)

renrenhoshino.hatenablog.com

     *

 このように、一貫して「彼」と記述されていた登場人物が、初めて「S」と書かれている箇所でもあるのです。「ヨウコ」と「S」――この唐突な名前の表記の「立ちあらわれ」を異和感と言わずに何と言えばいいのでしょうか。

 この電話の場面から、テーマが言葉になるという、p.133以降の流れは注目していいと思います。電話での声による名前の呼び掛けが切っ掛けになって、言葉がその異物感を増していくのです。「声」と「言葉」という言葉がそれまでにない頻度でくり返されます。

「文字」ではなく「字面」(p.135に二箇所)という言葉が選ばれてくり返される点もスリリングです。言葉への異和が杳子の身体の失調を誘いだすさまが描写されます。興味深いのは、隔たった場所を音や声を頼りに登場人物や語り手が思い描くという古井の書き方が――初期から後期の諸作品で何度もくり返される手法です――ここでも反復されていることです。

 電話でのやり取りが数日続くのですが、この部分について、いつか書いてみたいです。

 気になるのは、面、表、日、明――古井における日と明については、拙文「「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」が」をご参照願います――という文字、そして「白」です。この「白」は、小説の最後に何度も出てくる「赤」――もちろん「あか・赤」は「あけ・明ける」と同源らしいのでつながるのは明白です――と無縁ではないでしょう。

renrenhoshino.hatenablog.com

     *

 八章からなる『杳子』の最終章である「八」の第一段落に以下の文があるのは象徴的に感じられます。古井の偏愛する「明ける」と「明かり」という文字が見えるからです。

階段を昇りきったところで左手の扉をゆっくり明けると、薄暗がりの中から、階下よりも濃密なにおいが彼の顔を柔らかくなぜた。かなり広い洋間の、両側の窓が厚地のカーテンに覆われ、その一方のカーテンが三分の一ほど引かれて白いレースを透して曇り日の光を暗がりに流していた。その薄明かりのひろがりの縁で、杳子はこちらに横顔を向けてテーブルに頬杖をついていた。

(pp.153-154・太文字は引用者による)

  やはり古井の作品群において特徴的な「白」が、この場面の焦点を「薄暗がり」から「薄明かり」へと移し、暗を明に転じる役割を果たしているのにも注目しないではいられません。章冒頭にある三センテンスからなるこの展開は、後述するように、第八章全体の展開をなぞることになります。

 次に、第八章の終り、つまり文庫版の『杳子』という作品の最後の二ページから引用します。

 軀を起こすと、杳子は髪をなぜつけながら窓辺へ行ってカーテンを細く開き、いつのまにか西空にひろがった赤い光の中に立った

 明日、病院に行きます。(……)

古井由吉『杳子』p.169 新潮文庫・太文字は引用者による)

 この直後に、「赤い光の中へ」(p.169)、「赤みをました秋の陽が」「赤く炙られて」(p.170)と立て続けに「赤」が出てくるのには目を見張らざるをえません。「あか・赤」は「あけ・明ける」と同源らしいのですが、そう考えるとイメージの鮮やかさにはっとします。美しいのです。

「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」

古井由吉『杳子』p.170 新潮文庫

夏目漱石の『それから』のラストシーンに頻出する「赤」を連想した方もいらっしゃるにちがいありません。中条省平先生が『文章読本』(中公文庫)の「心象を描写する」でなさっている簡潔かつ俊抜な分析をお読みになることをお勧めします。)

 ラストに出てくる「赤」の伏線と考えられるものがあります。「紅茶とショートケーキ」(p.158)の出現です。コーヒーや緑茶ではなく「紅」茶であることに注目したいです。しかも、白いクリームと赤いイチゴのショートケーキなのです。「紅白」という言葉を連想しないではいられません。

「紅茶」「紅茶」(p.159)、「紅潮」(p.160)、「(杳子は)ショートケーキのクリームの泡の真ん中に立つ真赤なイチゴを指した」「彼のケーキのイチゴを指し」「杳子の目はゆらゆらと燃え上がり」(p.161)、「ほんの僅かなクリームにも、唇が円められて」「閉じた唇の奥で舌がゆっくりのたうつのが頬に顕われ」(p.165・クリームは「白」、唇は「赤・紅」でしょう)、「杳子はクリームの中から露出したイチゴをフォークの先でつつきながら」(p.166)、「杳子はいつまでもイチゴをつついては転がしていた」(p.167)、「赤く濡れた唇を二匹の別な生き物のように動かした」(p.168)、「(杳子は)濃くなった暗さの中に白く顔を輝かせて」(p.169)。こうやって見ていくと、「白」とからむ「赤」がじつになまめかしく描写されていますね。

 以上のように展開して、さきほどの引用箇所――作品ラストの窓辺(光・白・薄・明・明ける・開ける)と夕日(赤・紅・明・闇・黒)――にいたります。ここでの杳(暗・黒)と赤(紅・明)と白(肌)の対比と共存(共振)は、文字どおり明明白白ではないでしょうか。上で述べた「「白」が、この場面の焦点を「薄暗がり」から「薄明かり」へと移し、暗を明に転じる役割を果たしている」、この章の冒頭にある三センテンスによる展開が、この章全体の展開として反復されているかのように感じられます。

 さらに言うなら、作品の最後におけるこれらの明度の高い色の対比は、この作品の冒頭での「杳」「黒」「陰」「紅」「暗」「灰」「明」「昏」(pp.8-9)、「陰」「女の蒼白い横顔」(p.10)、「その顔は谷底の明るさの中にしらじらと浮かんでいた」(p.11)、「(杳子の)肌色のアノラック」「(杳子の)黒いスラックスをはいた脚は太腿をきつく合わせていたが」(p.12)、「形さまざまな岩屑の灰色のひろがりの中に」(p.13)という明度の低い色の対比と興味深い対照をなしているかのようです。

「杳子」で始まる『杳子』という小説は、「杳」子がしだいに「明けていく・開いていく」作品ではないか。そんなふうに私は感じます。

 とはいうものの、気になるのは「輪郭」という言葉です。

そうかと言って、よく山の中で疲労困憊した女の顔に見られるように、目鼻だちが浮腫みの中へ溺れていく風でもなく、目も鼻も唇も、細い頤も、ひとつひとつはくっきりと、哀しいほどくっきりと輪郭を保っている。

(p.11)

 冒頭の谷底の場面でくっきりとした輪郭だった杳子が、最後には次のように描かれます。

帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の軀がおそらく彼の軀への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていた。

(p.170)

 杳子は「明ける」ことで「彼」と出会うはるか前の「杳」子にもどったのでしょうか。杳杳の「杳」です。心理や性格のことではありません。「彼」の目に映る「姿」のことです。

        *

 よろしいでしょうか。この作品のタイトルは『杳子』なのです。しかも作品冒頭の一語が「杳子」であることを失念するわけにはいきません。この作品における名前とその表記をあっさりと無視して、この作品を語ることができるでしょうか。

 ちなみに、杳子の杳には暗いという意味がありますが――もちろん同時に「杳」に「日」という字が見えることを看過するわけにはいきません――、暗さ、闇、黒、白、灰、明、明るさ、赤(あか)は、この作品では重要なテーマをなしていると思います。杳を性格の暗さという心理に還元する紋切り型で読むのではありません。テーマをなすのは、むしろ光と明度、つまり細部における色の具体的な「明るさ/暗さ」の「対比・対照/共存・共振」なのです。

 杳子と彼の心理だとか思いだとか人間関係、あるいは古井由吉の意図とか思想などという抽象に置き換えて読んだとして、それがこの作品を読んだことになるとは私は思いません。言葉(文字・字面)からなる具体的な作品の向こうに視線を向けて、作品に書かれた言葉以外のもの、つまり抽象や書いてないことに置き換えただけではないでしょうか。

 かなたではなく目の前にある言葉(文字にほかなりません)に目を注ぐという、この読み方は、大学生時代に受けた蓮實重彦先生――当時非常勤講師として私の在籍していた大学で教えていらっしゃったのです――の授業と、その著作から学んだものです。抽象をできるかぎり避けながら具体的に書かれた言葉を読むという姿勢は、私がものを書くさいにいまも心がけていることでもあります。

renrenhoshino.hatenablog.com

renrenhoshino.hatenablog.com

 とはいえ、小説の読み方は人それぞれです。どう読もうとその人の勝手です。

 話を「異和感」にもどします。

谷崎潤一郎作『瘋癲老人日記』

サッキカラ少シ薄気味悪ソウニ黙ッテジット予ノ表情ヲ見ツメテイタ颯子ハ、偶然眼ト眼ガ打ツカリアッタラ、咄嗟ニ予ノ心ノ変化ヲ看テ取ッタラシイ。
「気狂イノ真似ナンカシテルト今ニホントノ気狂イニナルワヨ」
予ノ耳元ヘ口ヲ寄セテ、ヘンニ落チツイタ、冷笑ヲ含ンダ低イ声デ云ッタ。
「ソンナ馬鹿々々シイ真似ガ出来ルト云ウノガ、モウ気狂イニナリカケテル證拠ヨ」
声ノ調子ニ、頭カラ水ヲ浴ビセルヨウナ皮肉ナモノガアッタ。
「フヽン、アタシニ何ヲサセヨウッテ仰ッシャルノヨ。ソンナ泣キ声ヲ出スウチハ何モシタゲナイワヨ」
「ジャア泣クノヲ止メル」
予ハイツモノ予ニナッテ、ケロリトシテ云ッタ。
谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』・中条省平著『文章読本』(中公文庫)より)

(中略)ふだんひらがな書きに慣れている読者に、カタカナ書きは異和感を生じさせ、ひらがな書きの場合ならば、読み進むにつれて文字が透明になり、イメージだけが残るような錯覚を読者にあたえるのにたいし、カタカナは完全に透明にはなりません。つねに文字の存在を読者に意識させ、したがって、作中で繰り広げられる情景も、所詮文字で書かれたものにすぎないという事実に、読者をたえず立ち戻らせるのです。
(太文字は引用者による)

中条省平著『文章読本』(中公文庫)pp.93-94)

www.kinokuniya.co.jp

 中条省平先生の鋭い指摘にはうならざるをえません。上に引用した谷崎の文体を前に私が覚えるのは、まさに「異和感」であり「違和感」ではないのです。谷崎のカタカナ書きは、私のイメージする「異」に近いという意味です。異物感と言ってもいいくらいの不気味さなのです。

renrenhoshino.hatenablog.com

異、違、移

 異、違、移。い、い、い。イ、イ、イ。

 音読みした場合の音の韻だけでなく、上の三つの漢字に私はイメージの韻を感じます。イメージは個人的なものですから、辞書に載っている語義とは、ずれているはずです。

「異」はいきなり目の前に現れる。「ぎゃあー」とか「ぎょっとする」というイメージで、とにかく異物なのです。

「違」は、すれちがう、ずれる。似ていると思っていたものが、重ねて見たらずれているとか、「あれっ」という感じがします。意外なのです。

「移」は、移り変わる。「あれよあれよ」とか「あららー」と時間的な推移を感じます。たぶんに気質的なもので、これからも移り変わる可能性を匂わせている気がします。 

移和感

 移和感という言葉が頭に浮かびました。あなたは「移和感」という表記に違和感や異和感を覚えますか?

 ふだんから、わりとマイペースに書いていて、自分語と言ってもいい言い回しや表記を平気でしている私ですが、いまのところは「移和感」という表記をつかったり提唱する気持はありません。

 とはいえ、自分がかなりいい加減な人間だという自覚があり、これからも移り変わる可能性が否定できませんので、未定としておくのがいいかもしれません。

     *

もう五時間ちかく人の姿を見ていない男の目の中に、岩の上にひとり坐る女の姿は、はるか遠くからまっすぐに飛びこんできてもよさそうだった。三日間の単独行の最後の下りで、彼もかなり疲れはいた。疲れた軀を運んでひとりで深い谷を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶える女、正坐する老婆、そんな姿がおぼろげに浮かんでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。

古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠新潮文庫所収・p.9・太文字は引用者による)

『杳子』の冒頭シーンからの引用です。

 異、違、移――この場面で描写されている「岩」は、「異和」、「違和」、「移和」なのです。いわ、いわ、いわ、いわ。同じ「いわ」でありながら、つぎつぎとその姿を変えます。岩は、異物であり、すれ違い、移り変わるのです。

       *

 移り変わる――。なんだか移和感という自分語に親しみを覚えてきました。

 違和感や異和感や移和感というのは、意外と親和感や親近感に近いものなのかもしれません。「違和感」や「異和感」や「移和感」なんてぐあいに名指したり名付けるのは、「何か」を飼いならしたり手なずけようとする行為にほかなりません。「何か」、つまり正体が不明であり不気味で怖くてたまらない世界や森羅万象に対する人の常套手段なのです。

 なにかはなにか。てなずけようと、なづけてみても、なつきはしない。

(「岩」も名指し名付けたものにはちがいありませんが)岩は岩なのです。その姿を別のものに置き換えるのではなく、その輪郭にひたすら目を注ぎ、その形をなぞるべきなのかもしれません。

 なにかはなにか。なぞはなぞ。なざしなづけるのではなく、なぞをなぞる。とくのではなく、なぞる。

     *

 ある日ある時の古井由吉は、多くの可能性と選択肢の中から、あえてその言い回しをもちいたのであり、その文字を選んでつかった。それは意図や思いや癖などという抽象を超えた具体的な行為であったはず。かたちを取っているのだから、もはや「物」と言うしかない動きと身振り。

 そう信じています。私はそれをなぞるだけ。 

(拙文「「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」が」より)