透明な言葉、透明な文章

 やはり、ガラスはそのものを見るためではなく、向こうや彼方を見るものだと痛感します。それどころか、ひょっとすると別世界や異世界を見るためのものではないでしょうか。
 考えれば考えるほど、言葉に似ています。言葉は目の前にあってそれが見えないときにだけ、人に何かを見せてくれるからです。
(拙文「ガラスをめぐる連想と思い出」より)

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透明感のある文章、透明な文章

 ガラスと言えば、透明。
 カラスと言えば、黒。
 マリア・カラスと言えば、男性で苦労。
 カラスは英語でcrow。

 いまのは韻(頭韻と脚韻)の練習です。

 冗談はさておき、透明感のある文章とか文体という言い方を見聞きしますが、あれはどんな文章をいうのでしょう。イメージがいまいちつかめません。

 こういう時には、逆を考えるといいです。沼とかどぶみたいに濁った文章、ダミ声みたいな文体、ごちゃごちゃした文章、べたーっと黒っぽい字面の文章……。

 もしも文章が透明ならば、向こうが透けて見えるではないでしょうか。つまり、つっかえずに(読書においてはつっかえることが大切であり醍醐味だとすら思いますが)、すらすらさくさく読めるのが透明な文章ということになります。

 あるいは、読んでいて書かれているシーンが容易に目に浮かぶような文章があれば、それは透明だと言える気がします。

 そもそも言葉、とりわけ文字は意味を取るときには見えなくなります。文字の形、つまり筆跡や書体を見ていては意味が取れないからです。話し言葉である音声も同じで、声の質や色を味わっていれば――そういうことってありますよね――、意味を取るのはおろそかになるでしょう。その意味では、言葉は透明だと言えます。

 話をもどします。

 すらすらさくさく読めるのが透明な文章ですけど――。ちょっと待ってください。そんな文章は書いても意味がないのではないでしょうか。要するに、言葉であることを感じさせないような文章。きれいに磨かれた透明なガラス戸を思い浮かべてください。そのガラスが文章で、ガラスの向こうに見える風景が文章の内容なりストーリーだとします。

 味気ないのではないでしょうか。誰もが文章と意識しないような文章。あってもないようにしか感じられない文章。透明な文章とはそんなものをいう気がします。たしかに綺麗なのかもしれませんが、目立たない言葉を癖のない言い回しで淡々とつづっていく――そんな文章を、あなたは書きたいと思いますか。

 自分の文章。自分という人間性や人となりが出ている文章。これは〇〇さんの文章だ、と言われるような個性あふれる文体で書いてみたいのが、人情ではないでしょうか。どうせ書くのなら。

     *

 話が逸れたようです。

 透明な文章じゃなくて、透明感のある文章の話をしていたのでした。逸脱していくのが私の文章の癖なんです。自己引用を頻繁にするので、パッチワークのような、つまり継ぎ接ぎだらけの文章になり、透明感とはほど遠いのです。

 それはさておき、さっきとは矛盾した言い方になりますが、透明な文章はあると思います。

 たとえばテレビのニュース原稿や電気製品の取扱説明書やマニュアルやレシピやカップ焼きそばの作り方の説明であれば、個性を感じさせない、誰もがすっと読めるような書き方が求められる気がします。

 いわゆる実用的な文章です。人が味わってくれることを想定していない文章や、メッセージが伝わればいいだけの文章は、無色透明でなければならないと考えられます。

「透明な文章」は文体模写の土台に適すると言えます。無色透明だから、癖のある文体で容易に色づけ味付けできるという理屈ですね。

 無色透明であるからこそ、いろいろな個性ある文体で書き分けるという企画の餌食にされるのです。村上春樹、あるいは蓮實重彦の文体で、洗濯機の取説を書いてみよう、なんて具合に。

川端のイリュージョン

 透明ではなく透明感のある文体として、川端康成作『雪国』の冒頭近くの文章を挙げてみます。

 とくに取り上げたい例は、主人公の島村が、曇った汽車の窓ガラスに指で線を引く場面なのですが、ちなみに川端の作品は青空文庫に入っていません。日本国内での著作権保護期間がまだ満了になっていないからです。ここで引用するのも遠慮し、以下に私の要約を挙げます。

――汽車の中で主人公の島村が左手の人差し指をいろいろ動かしたり、その指にまつわる記憶にふけったり、指を鼻につけてその匂いを嗅いでみるという、かなりエロティックな描写(猥褻な感じさえする)の後に、向かい側の座席の女(娘)が窓ガラス(手で押し上げて開ける窓)に映る。窓ガラスが鏡になるのだ。その窓ガラスの向こうに夕闇の中の景色が流れていく。窓という鏡に映った娘。窓の向こうに流れる風景。娘の顔に、野山のともし火がともる。映画の二重写しのように。

 ガラスが透明であることとガラスが鏡でもあることをこれほどまでに、美しく象徴的に描いた文章はほかにない気がします。エロチックで濃密な筆致の直後に、こうした透明感のある描写を持ってくるところが、川端の凄さです。

 対比の妙というか、この書き方は錯覚を利用した一種のトリックなのです。文章がテーマ(ガラス、鏡、こちら側と向こう側、ここにあるものとここにないもの)を模していて、しかもきわめて複雑であり、私流にいうと、これは「書かれている言葉が書かれている内容を擬態している文章」にほかなりません。

     *

 言葉が言葉に擬態する。言葉が言葉を真似る。
 シニフィアンシニフィエに擬態する。シニフィアンシニフィエを真似る。
(意味するものが意味されるものに擬態する。意味するものが意味されるものを真似る。)

 言葉は擬態。
 文体が文章の内容を模倣する。文章が内容を模倣する。
 文体が文章の内容に擬態する。文章が内容に擬態する。
 言葉は魔法。言葉は魔術。

     *

 擬態とは錯覚を利用する行為にほかなりません。生き物においても、文章においても、言葉においても。

 川端の『雪国』におけるあの場面の描写――。淀んだ性愛行為と、ガラスと光によって織りなされる透明感のある美という、かけ離れたものをわざと隣り合わせにするのだから、これはまさに錯覚を利用した魔術的な文章の手法であると言えます。

 両者が別々に書かれていたら、その描写の効果は半減したにちがいありません。対比の妙とか対比の効果という意味です。

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 美しい文章には理由がある。美しさを感性とか(感性という名の概念)、美意識とか(何も言っていないに等しい)、才能とか(思考停止の決まり文句)いう言葉で置き換えてたところで、それは美しさの理由にはならない。抽象論や印象ではなく、具体的な言葉の身ぶり、つまり言葉の綴られ方、文章の書かれ方に目を向ける。美しさの「秘密」があるとすれば、それは文章と言葉の細部に具体的な形としてある。これは唯物論(もちろん、これは比喩)なのである――なんて思います。

 川端康成と言えば、新感覚派。これも言うまでもなく決まり文句である。口にして恥ずかしくなるような常套句ですね。たしかに新感覚派は錯覚を利用し、レトリックを多用した。要するに巧みまくったのですが、それだからこそ、ハズレや不発も多かったにちがいありません。

     *

 それにしても、『雪国』だけを読んでも川端の手法は凄いです。上で挙げた手法は、ほんの一例にすぎません。あれだけでも十分に複雑なのですが、まだまだ多種多様な技巧が使われています。

     *

 言葉はガラス。言葉は硝子。言葉は透明。言葉は鏡。
 言葉の向こうの景色。言葉に映る、こちら側。ある、と、ない。
 文体が文章の内容に擬態する。言葉は二重に写す。言葉は錯覚させる。

 言葉がいざなうのは向こうでも彼方でもなく、別世界。それは、言葉の夢、夢の言葉。

谷崎のマジック

 川端康成を褒め称えたのですから、谷崎潤一郎を出さずにはいられません。私は両大作家を崇拝しています。

「颯チャン! 痛イヨウ!」
ト、覚エズ叫ビ声ガ出タ。ヤッパリコンナ声ハ本当ニ痛イノデナケレバ出ナイ。痛イ振リヲシタンデハ斯クノ如ク真ニ迫ッタ声ハ出ナイ。第一彼女ヲ「颯チャン」ナンテ呼ンダコトハ一度モナイノニ、ソレガ自然ニ出タ。ソウ呼ベタコトガ予ニハ嬉シクッテ溜ラナカッタ。痛イナガラ嬉シカッタ。
「颯チャン、颯チャン、痛イヨウ!」
マルデ十三四ノ徒ッ子ノ声ニナッタ。ワザトデハナイ、ヒトリデニソンナ声ニナッタ。
「颯チャン、颯チャン、颯チャンタラヨウ!」
ソウ云ッテイルウチニ予ハワア/\ト泣キ出シタ。眼カラハダラシナク涙ガ流レ出シ、鼻カラハ水ッ洟ガ、口カラハ涎ガダラ/\ト流レ出シタ。ワア、ワア、ワア、―――予ハ芝居ヲシテルンジャナイ、「颯チャン」ト叫ンダ拍子ニ俄ニ自分ガ腕白盛リノ駄々ッ子ニ返ッテ止メドモナク泣キ喚キ出シ、制シヨウトシテモ制シキレナクナッタノデアル。アヽ己ハ実際気ガ狂ッタンジャナイカナ、コレガ気狂イト云ウモンジャナイカナ?
「ワア、ワア、ワア」
気ガ狂ッタラ狂ッタデイヽ、モウドウナッタッテ構ウモンカ、予ハソウ思ッタガ、困ッタコトニ、ソウ思ッタ瞬間ニ急ニハット自省心ガ湧キ、気狂イニナルノガ恐クナッタ。ソシテソレカラバ明カニ芝居ニナリ、故意ニ駄々ッ子ノ真似ヲシ出シタ。
「颯チャン、颯チャン、ワア、ワア、ワア、―――」
「オ止シナサイヨ、オ爺チャン」
サッキカラ少シ薄気味悪ソウニ黙ッテジット予ノ表情ヲ見ツメテイタ颯子ハ、偶然眼ト眼ガ打ツカリアッタラ、咄嗟ニ予ノ心ノ変化ヲ看テ取ッタラシイ。
「気狂イノ真似ナンカシテルト今ニホントノ気狂イニナルワヨ」
予ノ耳元ヘ口ヲ寄セテ、ヘンニ落チツイタ、冷笑ヲ含ンダ低イ声デ云ッタ。
「ソンナ馬鹿々々シイ真似ガ出来ルト云ウノガ、モウ気狂イニナリカケテル證拠ヨ」
声ノ調子ニ、頭カラ水ヲ浴ビセルヨウナ皮肉ナモノガアッタ。
「フヽン、アタシニ何ヲサセヨウッテ仰ッシャルノヨ。ソンナ泣キ声ヲ出スウチハ何モシタゲナイワヨ」
「ジャア泣クノヲ止メル」
予ハイツモノ予ニナッテ、ケロリトシテ云ッタ。
谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』・青空文庫から引用)

 ここでお薦めしたい本があります。中条省平著『文章読本』(中公文庫)です。

 上の谷崎の文章が、この『文章読本』で引用され、素晴らしい解説がなされています。私がとやかく言うよりも、引用するのがいちばんだと思います。

 谷崎潤一郎作『瘋癲老人日記』は文字通り日記体の小説なのですが、なぜ全体がカタカナで書かれているのかについて、性にかかわることが書かれている老人による日記という点を中条先生は指摘し、わざと読みにくくしていると述べています。

 これは、まさに「透明ではない文章」とか「透明感のない文章」にほかなりません。副次的なものであるはずの文体が前面に出てくるからです。

 中条先生は、カタカナがとくに高齢の老人による「古臭さ」を出すという効果に加えて、次のように解説します。

(中略)ふだんひらがな書きに慣れている読者に、カタカナ書きは異和感を生じさせ、ひらがな書きの場合ならば、読み進むにつれて文字が透明になり、イメージだけが残るような錯覚を読者にあたえるのにたいし、カタカナは完全に透明にはなりません。つねに文字の存在を読者に意識させ、したがって、作中で繰り広げられる情景も、所詮文字で書かれたものにすぎないという事実に、読者をたえず立ち戻らせるのです。
(pp.93-94)

 中条先生の鋭い指摘にはうならざるをえません。文体を頻繁に変えて文章と言葉でいまも読者を魅了しつづけている谷崎の作品の特徴を、具体的にその言葉の身振りに即して述べているからです。

 これは持論なのですが、とりわけ谷崎の中・長編においては文章と文体こそが(読者と作者との関係性=プレイという意味での)主人公だと思います(詳しくは拙文「敬体小説を求めて」をお読み願います)。

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 短絡だと非難されるのを覚悟でまとめると、谷崎はわざと透明ではない文章を書いたとも言えます。上のカタカナの表記にぞくぞくしませんか? 私ハ痺レテシマッテ、モウ駄目デス……。