読みやすい文章、読みにくい文章

黙読しやすい文章

 漢字が適度に使われている文章は黙読しやすい気がします。読むというよりも、見て瞬間的に意味を取るのに漢字が適しているのは、もともとが象形文字だったからでしょうか。

 形を音に変換してその意味を理解するのではなく、形で直接意味が理解される回路が頭の中にできているように思えます。

 フォトリーディングという言葉を聞いたことがあります。その内容は知りませんが、写真のように文字を即理解するとすれば、その理解の仕組みは漢字ぽいなあと想像しています。

 ことばはえ

 言葉は絵。

 しゃしんをとるように、ぱちっとあたまにはいる、ことばやぶんしょうがある。

 写真を撮るようにパチッと瞬間的に頭に入る言葉や文章がある。

 かんじがまじっていると、しゃしんやえのように、りかいできる。

 漢字が混じっていると写真や絵のように理解できる。

 めにはいりやすいことば。めにはいりにくいことば。

 目に入りやすい言葉。目に入りにくい言葉。

 というわけですね。文字どおり、一目瞭然。説明は要らないと思います。

速読しやすい文章

 黙読しやすい文章は速読もしやすいと言えるでしょう。速読については、いろいろな本があります。上では漢字混じりの文章について述べましたが、そもそも速読は英米から来たような記憶があります。

 高校生から大学生の頃に、「速読」という文字の入った本をよく見かけました。英語の速読の本も本屋さんにたくさん並んでいました。

 各段落の冒頭のセンテンスがその段落を要約しているから、各段落の初めだけを読んで一冊の本を数時間で読み終えるなんて、乱暴な内容の本もありました。

 英語では単語間にスペースがあるので、各単語が漢字のように一つのまとまりを持った「意味のかたまり」(ほぼ形)に見えるのかもしれませんね。英単語漢字説なんて感じですが、まさにそうだと思います。英語を速く読んでいる時には、単語を意味のかたまりとして見ている気がしてなりません。

 英語を読むときに頭の中で音が聞こえると速く読めない気がします。これは日本語でも感じますけど。文字から意味へ行く前に、音に置き換える作業が入るためにその分だけ遅くなるのでしょうね。

 日本語だと、適度に漢字が混じり、センテンスが短めで、改行が多く、一段落の行数が少ない、と速読に適している気がします。この記事も、そういう工夫をしています。

 あと、いちばん大切なことは、書かれているテーマに詳しいことです。これが決定的な速読の条件なのですが、自分がよく知っているテーマなら速読できるという当たり前の結論になりました。

・自分が知っているテーマや話の文章は速く読める。
・自分が興味のあるテーマの文章は速く読める。

 あとは、その時の体調とか気分とか気合いでしょうか。

 冗談ではなく、そうした気持ち的なものによって、さくさく読める時と、遅々として読み進めないことがある、と経験から思います。

 精神一到何事か成らざらん。

 すべては、気合いだ!

読みやすい文章、読みにくい文章

 次の文を読んでみてください。長めなので、読む前に気合いを入れてくださいね。

(Ⅰ)

 祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面してはいないが、三つの異なった方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明りを受けるようになっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色の花模様を刺繍した何脚かの肱掛椅子があり、そうした装飾からは、気持ちのいい、すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋にはいるときにいつもそれが感じられるのだった。
プルースト『花咲く乙女たち』井上究一郎訳)in(三島由紀夫文章読本』第七章)

 めちゃくちゃ長いですね。『花咲く乙女たち』(花咲く乙女たちのかげに)はマルセル・プルースト作『失われた時を求めて』の第2篇にあたります。これで一センテンスですから、すごいです。

 翻訳だから可能な文章とも言えそうです。翻訳文は作者が書いた文章ではなく、翻訳者が作った文章なのです(したがって、翻訳を読んで作家の文体について語るのは無理があります)。すべての文章は人が作文したものなのですが、翻訳文は「人工的に作った」文章(別の作り方もあるという意味です)だという言い方もできるでしょう。

 日本語特有の生理を無視して(あるいは日本語の流れに抗って)作ったとも言えそうです。すべての翻訳がそうだと言っているのではありません。なかにはそういう翻訳もあるという意味です。井上究一郎訳の『失われた時を求めて』は、いい意味でそうだと思います。私はこの翻訳のファンなのです。

 この翻訳について書いた過去の記事の一部を以下に引用します。

        〇

失われた時を求めて』の井上究一郎訳を私が好きなのは、律儀に訳してあるからです。つまり、センテンスが長くてとても読みにくいのです。ああいうのを難しいとは私は言いません。とにかく読みにくいのです。

 でも、あれよあれよという感じで気持ち良く読み進めることができました(難しいものはあれよあれよとは読めません、私の場合には)。「できました」と過去形なのが残念です。寂しいです。今は無理ですね。

 井上訳を原文に忠実な訳とは言いません。フランス語がろくにできないのに、偉そうな言い方をしてごめんなさい。あれは忠実なと言うよりも、律儀な訳なのです。そもそも外国語の作品を原文に忠実に訳すなんてあり得るのでしょうか。はなはだ疑問です。

 直訳という言葉を思い出しました。そればかりか、意訳、逐語訳、逐次訳、大意、抄訳、完訳、改訳、重訳、超訳、名訳、迷訳、誤訳というぐあいに、次々とあたまに浮かびます。あと、翻案というものもありますね。翻案を広義の翻訳と見なすと、パスティーシュやオマージュや文体模写まで広義の翻訳だと言いたい気分になります。

 そんなことを気にしたり、本気になって調べたり考えていたことがありました。もう昔の話で、詳しいことは忘れました。翻訳家を志していた時期があったのです。身のほど知らずにも。結果的には、翻訳業を短期間やっただけで今は休業状態です。話が昔話やネガティブな方向に流れますね。ごめんなさい。

 気持ちのいい話にもどりましょう。

        *

 あれよあれよ、まだまだ、ねえ、まだ、まだなの? あれーっ、ひぇーっ。そろそろやめてー。もうやめてください。

 どんどん続きます。なかなかいかせてくれません(目的地にですよ)。はらはらどきどきわくわくの連続です。でも、中途半端な着地はしない、要するに墜落も不時着もしないので延々と続くアクロバットみたいで見ていて気持ちがいい。ときに苦しくなることもあるけど、それでもいい。

 井上訳の『失われた時を求めて』は読んでいてとにかく心地よいのです。律儀に訳してありますから、センテンスが長くてもいちおうの辻褄は合います。てにをはの処理を含め、それは見事なくらいきちんと合うのです。その意味では偉業だと言えるのではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、読んでいてじつに快いのです。井上究一郎氏は頭脳明晰で体力も抜群だったのだろうと想像します。案外、超敏感かつ病弱であられたりして……。コルク張り部屋伝説のマルセルのように――。想像は楽しいです。

 まさに、あれよあれよの最上級です。こんなの初めて。あれよあれよ感MAXというやつ。

 たぶん、あれは翻訳だからこそ可能な技だという気がします。もともと日本語で書かれた作品だったら、ああいう文章はあり得ないと思うのです。語弊のある言い方になりますが、反則に近いと言えそうです。いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか。それだけにすごいです。すごすぎます。

 翻案でない限りどの翻訳にもある種の違和や不自然さを感じるという意味での、人工的な日本語の妙味――すべての言葉は人工的なので恥ずかしいほど当たり前のことを言っていますが、翻訳という言葉につられて出たレトリックということでお許し願います――と言いましょうか。

 とはいえ、決して否定も非難もしません。気持ち良さの点では、この上もないからです。ただ長時間の読書には向かない気がします。あの長い長い作品が長時間の読書に向かないというのではなく、あくまでも井上訳の話です。

 ところで、フランス語を母語とする人たちはあの長編小説をどう読んでいるのでしょう。ああいう長いセンテンスをどのように感じているでしょう。興味津々ですが、知りません。きっと人それぞれでしょうね。謎は謎のままにしておいて、勝手気ままに想像を楽しむことにします。

        *

 欧文には、論理性をそこなうことなくかなり長いセンテンスを組み立てる力があることは、英語の例からおわかりのことと思うが、さらにドイツ語の二、三の特性は、それにさらに輪をかけて長いセンテンスを組み立てることを可能にする。(中略)たとえば第七章三二一ページの<このように夕べの息吹が>から、三二三ページの<わたしの上に降りてくるそのとき>までは、純粋なワン・センテンスとはかならずしも言い切れないが、とにかく終止符はひとつもない。これはさすがの<現代>日本語もおつきあいできない。第一に、これに合わせてセンテンスを組んだら、どんな日本語ができるだろうか。第二に、日本語の句点(マル)はあきらかにフル・ストップではない。
【「ブロッホと「誘惑者」」(古井由吉著『日常の”変身”』所収)より引用】

 ドイツ語で書かれたヘルマン・ブロッホ作の『誘惑者』を訳した古井由吉の言葉は参考になります。邦訳の三二一ページから三二三ページまで続くセンテンスに終止符がひとつもないとは、どんな原文だったのでしょう。それを古井はどんな日本語の文にしたのでしょう。原著も訳書も手元にないので、想像を楽しんでいます。

        *

 ちなみに、「あら、いやだ。またまた、そういう手をおつかいになる。それはズルだって言ったでしょ」という、この記事の冒頭の箇所ですけど、訳文における(   )とか、――をもちいての挿入的な文のつづり方についてのコメントというか突っ込みです(この文章では意識的に丸括弧とダッシュを使っていますが読みにくいでしょう、ごめんなさい)。私は引用が苦手なので例文を引用できなくて残念なのですが(「失われた時を求めて 井上究一郎訳 例文」で検索すると、どなたかが引用なさっている例文にヒットします)、こういう道具をつかうと、どんどんセンテンスを長くできて――さすがに読んでいるほうは疲れますけど――途中でトイレに行きたくなるほどです。全体を通読するのは至難の業で、何年もかかって読み終えたという話さえ見聞きします(じつに贅沢な時の使い方ではないでしょうか)。井上訳は体力と気力と暇がないと読めない、そして長時間の読書向きではなく、むしろ長期間の読書向きだと言えそうです。

(拙文「いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか」in「あれよあれよと読む」より)

【※拙文からの引用は以上です。】

        〇

 さて、さきほどの長い一センテンスに話を戻します。

 祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面してはいないが、三つの異なった方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明りを受けるようになっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色の花模様を刺繍した何脚かの肱掛椅子があり、そうした装飾からは、気持ちのいい、すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋にはいるときにいつもそれが感じられるのだった。
プルースト『花咲く乙女たち』井上究一郎訳)in(三島由紀夫文章読本』第七章)

 こうした長いセンテンスの文章は黙読しても頭に入りにくいし、まして音読もしにくいし、音読を聞いてすんなり理解する人は聖徳太子以外にいないと思います。

 では、大切なことを言います。読みにくい理由は、飾りが多いからです。平たく言うと、ごちゃごちゃしてる。この記事の文みたいに。

 ややこしく言うと、日本語本来の飾り方とは異なる飾り方で、文章をつづってあるのです。いかにも、人工的な感じ(作ったような感じ)がするのは、そのせいです。

        *

 上の文にちょっと手を加えます。

(Ⅰ)

 祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面してはいないが、三つの異なった方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明りを受けるようになっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色の花模様を刺繍した何脚かの肱掛椅子があり、そうした装飾からは、気持ちのいい、すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋にはいるときにいつもそれが感じられるのだった。
プルースト『花咲く乙女たち』井上究一郎訳)in(三島由紀夫文章読本』第七章)  
 飾りを取り去ると、上の太文字の部分になります。ただし、プルーストの文章は、飾りが命なので、飾りを取ると味気ない文になります。でも、読みやすくはなると思います。

 元の長いセンテンスの飾りを取りはらい、分解してみましょう。

 祖母の部屋は、外の明りを受けるようになっていた。
(部屋には)何脚かの肱掛椅子があった。
(椅子に施された)装飾からはすがすがしい匂いが発散しているように思われた。
(部屋にはいるときに)それが感じられた。

 この文に「装飾」という言葉が使われているのは象徴的です。

 装飾命。by マルセル

 こういう文章もあるのですね。

・飾り本位の言葉や文章がある。
・飾り本位の文章が好まれたり読まれることもある。

        *

 次の文は、上の長いセンテンスの後に来る、これまた長いセンテンスなのですが、気合いを入れて読むというよりも、ざっと目を通してみてください。

(Ⅱ)

 そして、一日のさまざまな時刻から集まってきたかのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明りは、壁の角をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打際の反射と並んで、箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色どりの美しい休憩祭壇を置き、いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい翼を、内側にそっとやすませ、太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている小さい中庭の窓のまえの、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、肱掛椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取りはずしたりするように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、丁度そんな時刻に、散歩の仕度の着換えのまえに一寸横切るその部屋は、外光のさまざまな色合を分解するプリズムのようでもあり、私の味わおうとしているその日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散るのがまざまざと目に見える蜂蜜の巣のようでもあり、銀の光線と薔薇の花びらとのふるえおののく鼓動のなかに溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。
プルースト『花咲く乙女たち』井上究一郎訳)in(三島由紀夫文章読本』第七章より引用)

 これも長いですが、(Ⅰ)よりもずっと読みにくく感じませんでしたか。(Ⅰ)に比べて飾りが多く、しかもややこしく絡んでいるからなのです。

        *

 手を加えてみましょう。

(Ⅱ)

 そして、一日のさまざまな時刻から集まってきたかのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明りは、壁の角をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打際の反射と並んで、箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色どりの美しい休憩祭壇を置き、いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい翼を、内側にそっとやすませ、

太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている小さい中庭の窓のまえの、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、肱掛椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取りはずしたりするように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、

丁度そんな時刻に、散歩の仕度の着換えのまえに一寸横切るその部屋は、外光のさまざまな色合を分解するプリズムのようでもあり、私の味わおうとしているその日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散るのがまざまざと目に見える蜜蜂の巣のようでもあり、銀の光線と薔薇の花びらとのふるえおののく鼓動のなかに溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。
 たぶん、たぶんですよ、このセンテンスは三つに分かれるように思います、思うだけですよ。原文と訳文を照らし合わせたわけではないので、曖昧な言い方になるのをお許しください。

1)「(外からの)さまざまな明りが、箪笥の上に、美しい休憩祭壇を置き、光線の、温かい翼を、内側にそっとやすませた」

※「休憩祭壇」とは、たぶん原語は reposoir で、聖体つまりキリストの体とされるパンと葡萄酒を安置する祭壇のようです。カトリックのお祭りで使うものらしいです。この言葉はフランスの文芸ではよく出てきます。きらめく美しい装飾の「代名詞」とも言えるような気がします。

 どうやら、光線が鳥の翼のようだ、とたとえているみたいですね。いわゆる比喩が使われています。プルーストは比喩が大好きなのですが、読むほうは付いていくのが大変ですよね。

 外から祖母の部屋に差す明りによって、ガラス戸に反射する光が箪笥の上に陽だまりを作り、そこに集まった光がまるで翼を休め温めている鳥のように見えたということでしょうか。

        *

 ここで、言い訳をします。

 比喩は翻訳者泣かせなのです。なぜなら、比喩とは一種の駄洒落だからです。

 駄洒落とは、AをBに置き換えるとか重ねるとか、たとえることですね。たとえば、「アルミ缶の上にあるミカン」みたいにアルミ缶(A)とミカン(B)が二重写しになるわけです。また「パンダが食べるのはパンだ。」では、パンダとパンが頭の中で二重写しになるわけです。

 これを英語に訳せますか? 柳瀬尚紀先生ならたぶん執念でやったと思います。英語から日本語への話ですが、洒落は洒落として訳すのがポリシーの翻訳家でした。すごい人でした。

 もっとも、知性と鋭い洞察に裏づけられた駄洒落や言葉遊びは美しいです。

 一例を挙げると、クロード・レヴィ=ストロースの著作名である「La Pensée sauvage」です。「野生の思考」とも「三色スミレ、パンジー」とも取れる言葉遊びになっています。

 また、ジャック・デリダが「 différence」(差異)に掛けて「造語」した「différance」(差延・さえん)は美しいとは言えませんがすごいです。

        *

 言葉の音の面での類似をつかった二重写しが駄洒落や言葉遊びなのですが、比喩は聴覚的な類似だけでなく、視覚(形態)、触覚(手触り)、味覚(味わい)、嗅覚(におい)、および直観や無意味に訴える要素を用いて二重写しを試みます。

 簡単な例を挙げましょう。即席に作文してみます。

 彼女は赤い薔薇のような人だった。彼女の深い情愛は赤く燃え、その腕や脚は蔓そっくりにしなり、時にはたわんで、私の目をとらえて離さず、気難しい性格が棘となって私を苦しめるのだった。
 はあ、とため息が漏れるほど陳腐な文章です。今どき、女性を赤いバラにたとえる人がいるでしょうか。月並みすぎます。

 とにかく、ある女性をバラにたとえ、そのバラという比喩が赤い色、蔓、そして棘という具合に増殖し(エスカレートし)、女性を植物であるバラに二重写しするというわけですね。

・彼女は赤い薔薇のようだった。【直喩】
・彼女は赤い薔薇だった。【隠喩】

 直喩であろうと隠喩であろうと、二重写しにするという点では変わりません。

 繰り返しますが、「アルミ缶の上にあるミカン」でアルミ缶とミカンが、そして「パンダが食べるのはパンだ。」でパンダとパンが頭の中で二重写しになるのと構造は同じです。

        *

 ある言語での駄洒落や言葉遊びを別の言語での駄洒落や言葉遊びにするのが至難の業であるように(こういうことを上述の柳瀬尚紀先生は執念で実践なさっていたのです)、比喩の翻訳はきわめて難しいのです。

 なにしろ、駄洒落でも比喩でも、それ相応の説得力が要ります。読者や相手が白けて乗ってこなければ埒が明かない、つまり不発に終わるという意味では、文学道における比喩も、一般人のささやかな楽しみである駄洒落道も大変ですね。芸の道は厳しいようです。

 さきほどの「彼女は赤い薔薇のような人だった。」で始まる文章なんか、説得力なしですよね。読む人は乗ってくれないでしょう。「アホか?」と言われるのがオチです。

 以上、お分かりになっていただけたでしょうか。ややこしい話をして申し訳ありません。苦情は、プルーストさんに言ってください。

        *

 次に参りましょう。

2)「太陽が、絨毯を温泉風呂のように温かくし、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであった」

 参りましたね。こう読んでいいのか、正直言って、自信がありません。詩みたいじゃないですか。実際、詩と考えて読んでもいいのかもしれません。

 要するに、お日様が注ぐおばあちゃんの暖かくてお風呂に浸かっているようないい気持ちになり、語り手は、のぼせてぼーっとしているのではないでしょうか。

 というか、家具に施された複雑な模様がより複雑に見えてくるなんて、尋常ではありません。駄洒落乱発じゃなくて、比喩がめちゃくちゃエスカレートしてきている、としか思えません。

 ぼけーっとしているより、ラリっていると言ったほうが正確な気がします。

3)「その部屋は、プリズムのようでもあり、蜜蜂の巣のようでもあり、希望の花園のようでもあった」

 後半でほっとしました。これなら分かる気がします。比喩(くどいですけど駄洒落の一種です)が穏当なところに落ち着きましたね。ぜんぜん共感は覚えませんけど。

        *

 プルーストのこうした凝った文章は推敲というか加筆を重ねた結果なのでしょう。「作家」と呼ばれる個人、つまり一人のの書き手が文章をいじりまくって作る小説という形式は、比較的新しい(novelな)ジャンルだと言われています。

 小説は書き手が書き言葉をいわば「物のように」彫琢することが可能なジャンルなのです。たとえば、フローベールのように、です。複数の人によって口承という形で語り継がれてきたり、何種類もある写本で伝わってきた物語とは大きく異なるわけです。

 あっさり書きましたが、今述べたところは大切です。文学を勉強なさっている学生さんや元学生さんならご存じだと思いますが。

すごい人たち

 いやいや、すごい人です。誰がすごいかって、プルーストじゃなくて、訳者の井上究一郎さんですよ。

 あの長い長い、そして駄洒落、じゃなかった、比喩と飾りだらけの小説『失われた時を求めて』を律儀に翻訳された井上究一郎さんはすごい。

 敬服いたします。しかも個人訳ですよ。すごすぎます。柳瀬尚紀先生と並ぶほどの駄洒落の達人ではなかったかと想像しないわけにはいきません。

        *

 いやいやすごい人ですよ。誰がすごいって、

 ジェイムズ・ジョイス作『ユリシーズ』を翻訳なさった丸谷才一、永川玲二、高松雄一各氏はすごい。

 同じくジョイス作『フィネガンズ・ウェイク』の個人訳を成し遂げられた柳瀬尚紀先生はすごい。

 ローレンス・スターン作『トリストラム・シャンディ』を個人で訳された朱牟田夏雄さんはすごい。この脱線と逸脱だらけの小説は私の愛読書でして、多大な影響を受けています。

 ヘルマン・ブロッホ作『ウェルギリウスの死』を翻訳なさった川村二郎氏はすごい。

源氏物語』を世界に先駆けて英訳したアーサー・ウェイリーはすごい。この方は、現代の日本語は話せなかったらしいのですが、平安朝の日本語なら話せたという話を何かで読んだ記憶があります。

 上記の翻訳をすべて読んだわけではぜんぜんなく、ただ名前を知っているか、部分的に読んだけである私が言うのも僭越極まりないのですが、私はその訳書から間接的および直接的に多くのものをいただきました。

 また、そうした訳業が、現在の日本語と日本文学のありように大きな寄与をしたことは間違いありません。感謝の気持ちでいっぱいです。

長いけど読みやすい文章

 上で見た、プルーストの(Ⅰ)と(Ⅱ)のセンテンスを図式化してみましょう。

(Ⅰ) 

    │
    │
    │
    │

(Ⅱ) 

    └│
    │┘
    └│
    │

 上の図はあくまでもイメージです。

        *

(Ⅰ)は「│」が単位になって、すっすっと下に流れていきます。切れ目というか節で休むことができます。竹みたいですね。

 長くなれば、読みにくくなるのは当然でしょう。日本語の文章は、本来はこういう竹のような構造をしているのです。すごく簡単に言うと、

*主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部……

というふうに、並んでいくのです。もっと簡略化して言うなら、

*「AがBだ、そしてCがDした、それで、EがFなのよ、で、GはHだから、IはJしちゃって、んでもって、KがLなわけ、それだけじゃないのよ……」

みたいな延々としたつながりが可能だと言えます。

        *

 一方(Ⅱ)は、単位であり幹でもある「│」の左や右に、「└」や「┘」というごてごてした飾り――つまり枝(大枝・小枝)や葉――がくっついているので、流れにくいのです。

 明治時代になり、さかんに西洋の文物が流入し、それにともなって「翻訳調」の日本語が流通するようになったことが、こうしたごてごてした文章の流行や普及につながったのかもしれません。

 または、明治どころか、そのずっと前から続いている漢文の読み下しによる、漢語調の言い回しが、理屈っぽくて枝葉の茂った日本語の文章として存在していたらしいことが関係あるのかもしれません。

 この辺の事情については、不勉強なので曖昧な言い方になりましたことをお詫び申し上げます。

        *

 以下の文は、黙読しやすいうえに、音読もしやすく、それを聞いても理解しやすいと思います。

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖ふすまをあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。
太宰治『女生徒』・青空文庫より)

 以上は、太宰治の小説『女生徒』の冒頭なのですが、比較的読みやすいのではないでしょうか。なぜ読みやすいのでしょう?

 話し言葉を書き写したような文体だからかもしれません。とは言え、太宰はこれを小説として書いたわけですから、実際の談話を書き取った文章とは言えそうもありません。

 さきほど述べた、(Ⅰ)のように、竹の節で切れているリズムが読みやすさにつながっているようです。

*主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部……

 というか、そもそも日本語の話し言葉は、「主部+述部」がひとつの単位となって、延々と続くリズムになっていると言えます。だから、聞きやすいし読みやすいのです。日本語の生理に沿った、つまり自然なリズムなのかもしれません。

(ところで、冒頭で紹介した井上究一郎訳のプルーストの文章が読みにくいのは(Ⅱ)のように枝葉が茂って飾りが多いからにほかなりません。しかも、プルーストの場合は飾りがこれでもかというふうに異常に多いのです。その飾りを律儀に日本語に訳した井上訳は日本語特有の生理に逆らって作文をしたとも言えるでしょう。)

 太宰の小説が音読して心地よいのは、日本語のリズムが身についていた作家の文章だからではないでしょうか。

(Ⅰ) 

    │
    │
    │
    │

 しかも、読点「、」が多いのでさらに読みやすいと言えるでしょうが、あまり頻繁に読点があると読みにくくなる場合もあります。

 あと、目につくのは大和言葉(和語)です。大和言葉とは、ものすごく簡単に言うと、漢字で音読みしていない言葉です。一方で、音読みしている言葉は、漢語系の言葉ですね。

 漢字を使うと黙読しやすいのは、記事の最初で述べたとおりです。どちらがいい悪いの問題ではありません。大和言葉は「うたう・唱う・詠う・謡う・歌う・謳う」のに適し、漢語系の言葉は「論じる」や「語る」さいに便利だ、とは言えると思います。

 太宰のこの小説の文章は、音読もしやすく、またその音読を聞いた人も容易に内容を理解し、その情景を思い浮かべることができるのではないでしょうか。

耳に入りやすい文章

 目に入りやすい文章、つまりこの記事の冒頭で述べた黙読しやすい文章があるように、耳に入りやすい言葉はあると思います。

 朗読されることを意識した散文や詩、ラジオやテレビのニュース原稿や語りの原稿、そして歌詞がそうでしょう。

 これらは、プロの手によって考案および制作された、然るべきノウハウやマニュアルがあり、それに添う形で耳に入りやすいように作られているのです。

 とくに歌詞は売り物つまり商品です。たくさんのお金をかけて、一か八かの勝負をするのです。歌詞には周到な準備と工夫がなされているはずです。

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように”

 私は「上を向いて歩こう」(歌:坂本九・作詞:永六輔・作曲:中村八大)が大好きです。

 永六輔さんの詩はいいですね。シンプルな言葉で素朴な感情をうたう。それがある意味深い。驚くのは、大和言葉(和語)しか使われていないことです。大和言葉大好き人間の私は感動してしまいます。

 だいたいにおいて日本語の歌詞には大和言葉がきわめて多く使われています。歌謡曲には詳しくないので分かりませんが、そういうことになっているのでしょう。作詞講座などでは、大和言葉をベースに作詞しなさいと教えているとしか思えません。

 漢語系の言葉だと、同音異義語が多くて聞き間違いやすいし、頭で理解するようなところがあって、大和言葉のようにお腹に来るというか体に染み入る語感に乏しいのかなあと勝手に思っています。

「あの人妊娠したんだって」とか「ご懐妊です」よりも、「あの人赤ちゃんができたんだって」とか「おめでたです」のほうが、ぴんと来ます。前者だと「は?」と一瞬理解が遅れるのに対し、後者だとすっと入ってきます。個人の感想ですけど。

 ここでお断りしますが、大和言葉だけを称揚し、漢語批判をしているわけではありません。ここでは大和言葉が耳に入りやすい、聞き間違いが少ないという特徴について述べているだけです。

 漢語つまり、からことばから来た言葉も、日本語であり、私たちの血肉になっていますね。つまり、漢文が日本において公用文書として用いられていたこと、そして漢文の読み下しから生まれた漢語が、大和言葉と並んで日本語を形成していることは否定できないという意味です。日本も、その首都である東京も漢字を音読みしていることを思い出しましょう。

 あと日本語の歌詞には英語や英語もどきも多いですね。これは漢語系の言葉と違って、同音異義語の心配は要らないし、洒落た感じを醸しだすのに便利なツールだという気がします。だから、使うのでしょうね。たぶん、ですけど。

 大和言葉でこれだけの内容と深さのある思いと感情をつづることができるのですね。

 個人的な感想で恐縮ですが、大和言葉でつづられた言葉は腑に落ちるというか、頭だけでなく体に染み入ってくるのです。

        *

”あなたの燃える手で
あたしを抱きしめて”

 岩谷時子さんによる訳詞も好きです。たとえば、越路吹雪さんが歌って大ヒットした「愛の讃歌」ですけど、元がフランス語であっても、大和言葉尽くしの日本語の詩に仕上がっています。なお、「愛」と「讃歌」は音読みですが、これも日本語です。いとしい・愛おしい日本語です。

 ところで、「(私はあなたが)好きです・好き(だよ・やねん)」と「(私はあなたを)愛しています・愛してる(よ)」は微妙に違う気がしませんか。

 個人的な感想を言うと、私は「愛している」は照れくさくて絶対に使えません。口にすると嘘っぽくも感じます、なぜか。ただし書くことならできそうです。

 一方の「好き」は照れくさいけど、すっと口にできそうです。というより、漏れ出る感じがします。大和言葉漏れ出る説を提唱したいくらいです。「好き」に比べて「愛している」は絞り出さないと出ない気がします。歯磨き粉チューブの最後を絞り出すように。

 冗談はさておき、みなさんは、どうですか? 

最後に

 この記事は「13824文字」だそうです。私が数えたわけではなく、はてなブログの編集画面の右下に表示された数字が教えてくれたのです。長くて読みにくい文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 それにしても、長かったですね。「長い」という言葉が時間と空間の両方で使われているのが不思議と言えば不思議です。プルーストのあの長い長い小説が、 Longtemps で始まって、 le Temps. で終わっているのも不思議と言えば不思議に感じられます。