文字を見る

 私には「文字を読む」ことが途方もなく難しい行為に思えてなりません。見るのではなく読むことが、です。たいてい見ているのです。見てしまうのです。

 読んでいると、文字を追いながら、文字以外の何かを思いうかべたり、思いえがいたり、思いおこしたりしている自分に気づきます。文字を追っていると、文字を読んでいるというよりも、その文字、文字列、センテンス、文章の向こうを見ている気分になることもざらにあります。

 こういう状態を「読んでいる」と言うのにはためらいを覚えずにはいられません。ここではなくどこかにいるとか、こっちではなくかなたを見ているという感覚。

 あと、私には文字が顔に見えることがあります。人の顔というよりも、単なる顔です。生き物だけでなく、どんな物にも――たとえば石とか湯飲みにも――顔がありますよね(たたずまいとか雰囲気とも言えそうです)。その意味の顔ですから、文字に顔があっても不思議ではないわけです。

 文字の顔をながめているときの自分が「読んでいる」とも言えそうにありません。うわの空と言えばいいのでしょうか。文字や文字列を目で追っていると、心ここにあらずなんていう心もちになります。

 あれは何なのでしょう。どういうことが起こっているのでしょう。夢と似ていて、その状態でその状態を意識しようとすると、その状態から覚めてしまいます。また夢に似て、その夢想は思いどおりになりません。あれよあれよとただ見ているしかないのです。

 夢と同じく、劇場にたった一人で最前列の座席に縛りつけられて、あれよあれよと見ている、拘束を拘束と感じない、もどかしさがもどかしさと意識されない状態と言えばいいのでしょうか。

 いまこうやって思いおこすしかないのですが、いざ構えるとなかなか現れてくれません。試しに何かを読みはじめれば、うわの空にはなりますが、それを意識したとたんに、うわの空ではなくなってしまいます。やっぱり夢に似ています。

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 文字を見る、文字を読む。そんなことを考えながら、いまこの文章を書いているわけですけど、書いていると、書くことが読むことでもあるのに気づきます。

 自分の書いた文字を見ながら、文字や書かれていること以外の言葉や物や事が浮かんでくるのですが、それは他人の文章を読んでいるときの心境ととてもよく似ています。

 書かれていく(自分で書いているわけですけど)文字を目で追っていると、文字を読んでいるというよりも、その文字、文字列、センテンス、そしてその文の向こうを見ている気分になります。

 文字も向こうに見えるものもどこかよそよそしく、書かれていく時点でもう自分から離れている感じがしますが、その文字というか言葉が自分の中にあったとは思えないのです。やはり、よそよそしい(余所余所しいと書くのですね)と言うしかありません。

 読んでいるときと同じく、書くときにも、うわの空でいる自分がいます。出てくる言葉を、ぼんやりとなぞっているとか写している自分がいる感じ。言葉を写すことで、言葉が映り、さらには移ってきているのかもしれません。言葉は外にあって外からやってくる外である、と私には感じられるのです。

 言葉が外であるというのは、よそよそしく自分の思いどおりにならないという意味です。言葉を思いに移し、思いを言葉に移し、その言葉を文字に移して書いているのでしょうが、それは言葉を思いどおりにあやつっているから、そうなっているのだとはとうてい感じられません。少なくとも私にとっては、そうです。

 うわの空なのです。空ですから、くうであり、からなのでしょう。何がって、私がです。私は空っぽなのです。空っぽが、言葉を見ている。ながめている。たぶん、読んでいるのではありません。

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 音を見る――。

 古井由吉がどこかで書いていた言葉です。文字を見るということを考えていて思いだしまた。文字を見ていてその文字の形ではない光景が、文字の向こうに見えてくる、それは音を見るのに似ている。そんな類推が働いたのかもしれません。

 古井由吉の小説では、音や声に耳を済まし傾けながら、その情景(もちろん視覚的なものです)が丹念に描かれていく形式の文章がよく見られます。まさに音を見ているわけですが、その筆致をとくに感じるのは連作集『聖耳』です。

 聖耳。象徴的なタイトルですね。耳はもちろんですが、聖という字が気になります。そこに口と耳が見えるからです。古井のこの連作においては、口と耳が重要な役割を果たしています。

 私は古井由吉の文章が好きでよく読みますが、読むと言うよりも見ていることがあります。文章ではなく文字ばかりに目が行く場合が頻繁にあるという意味です。

 ああ、明、月、日が出てくるなあと感じると、もう駄目です。目がそれらの文字を追い、目にとまると、その箇所に見入ってしまいます。見入る、魅入ろうとして魅入られる。いや、物思いをしながらひたすら「ながめる」のです。

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 古井の『仮往生伝試文』に「いま暫くは人間に」という章があるのですが、ここでの月と日と明の頻出ぶりは圧巻です。この章は、藤原定家の日記である「明月記」からの引用から成り立っているのですから当然だとはいえ、月と日と明の氾濫ぶりは尋常ではありません。

 この章だけでなく『仮往生伝試文』全体における、日と月と明の頻度はきわめて高いと思います。私の印象では、手持ちの古井のどの本についても言える気がします。

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 日、月、明といえば、古井に特徴的な表記を指摘しないではいられません。

 たとえば、「目を大きく明けて」は「開けて」、「場所を明けよう」は「空けよう」と書くのが一般的だと思われますが、この二つの例は古井の初期の作品である『男たちの円居』(単行本の出版は1970年)から抜き出したものです。この作品には同様の表記が多々見られます。誤植ではなく校正された後の結果だろうという意味です。

 出版社によって校正の基準が異なるからか、本によってばらつきはありますが、中期、後期の作品でも「明ける」が目立つのは、古井の意識しての表記だと解釈できます。

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 この表記が気になって、若き日の古井がよく読んだという徳田秋声の作品を調べてみたことがあります(青空文庫テキストエディタに落とすとさくさく検索できます)。「開ける」と「空ける」の代わりに「明ける」が、「開ける」と「空ける」と並行して用いられていました。明治生まれの作家によくあった表記なのでしょうか。広く調べたわけではないので不明です。

 なお、この表記については、最近読んでいて気づいた例があるので紹介します。手元の『川端康成異相短篇集』(高原英理編・中公文庫)に『死体紹介人』が収録されているのですが、次の表記が目につきました。

「座席があいていても(p.167)」、「眼をあいている(p.176・2箇所)」、「もう一度(行李の蓋を)あけて(p.179)」、「大きく口を開いて(p.192・「ひらいて」とも読めます」、「(骨壺を)明けてごらん(p.202)」、「戸の明く音(p.207)」、「襖を明けた(p.210)」、「ガラス窓を細目に開けた(p.230)」。

 なお、19章からなるこの作品は1929年4月から1930年8月のあいだに雑誌で連載されたようで、そのために表記にばらつきが見られるのかもしれません。また、上の文字列が作者の手によるものなのか、印刷所で活字を拾うさいに生じたのか、編集者による判断の結果なのかは不明です。

 いずれにせよ、上の文字列(表記)をふくむテキスト(文書)として作品は存在し、読者はその文字列を目にするしかないのです。

 個人的には表記のぶれが好きです。その時々の作者の筆致を感じてぞくぞくします。

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 私もかつては校正者として他人の本の校正をしていたものだが、いまでは著者として自分の本の校正をしてもらう側の人間になってしまった。だから校正者の気持もよく分かるつもりなのだが、やはり腹が立つときは腹が立つものである。

 近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。「生む」と書こうが「産む」と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、両方を使い分けても一向に差支えないのである。

澁澤龍彦「校正について」『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫)所収・p.38)

「初出一覧」によると「校正について」という文章は1984年に書かれたもののようです。

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 古井由吉の文章に戻ります。

 それなのに、今では窓を残らず明けて、部屋の境いのドアも明けて、吹き抜けの中に横になっていても、肌がじっとり汗ばんでくる。
古井由吉作『杳子』(新潮文庫)p.105)

  どうでしょう。表記に異和感を覚えますか。文字の向こうにある意味だけを、あるいは視覚的なイメージだけを追っていると――意味もイメージも「どこか」「かなた」にあって「いま」「ここ」にはないものです――異和感も違和感も覚えないかもしれません。

 ところで、あなたは違和感派ですか、それとも異和感派ですか? 

 古井由吉の作品では「異和感」という表記で統一されている気がします。たとえば、『槿』(講談社文芸文庫)ですとp.10に、『先導獣の話』(『木犀の日』所収)では、講談社文庫版のp.22、『杳子』(新潮文庫)だとp.134に見えます。

 村上春樹も「異和感」派みたいです。ファンの方ならご存じかもしれませんが、私がたまたま目にしたのは『1973年のピンボール』(講談社文庫)のp.12で、そこには三つ続けて出てきます。

 私の大好きな吉田修一もそうみたいです。一例を挙げると『東京湾景』(新潮社文庫)のp.13をご覧ください。たぶん他にもあると思います。

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 話をもどします。

『仮往生伝試文』だと「物に立たれて」という章に「一時間あまり前に、火ののこる灰をその中へ明けてしまったらしい。」とあります。じつは、この文は紙切れにメモしてあって、それをいまここに書き写した(入力した)のです。この紙切れはずいぶん前から、パソコンの脇に置いてあります。

 古井由吉は下書きを鉛筆で書いていたようなのですけど、その削りかすをクッキーの入っていた空缶に煙草の灰といっしょに放りこむ習慣があり、ある日火が削りかすに移って缶が発熱した。そんな話が「物に立たれて」に書かれていました。

「空けてしまった」ではなく「明けてしまった」とあるところに、鉛筆で文字を書いていたそのときの古井由吉を感じ――いわば不意打ちされたのです――、恥ずかしいのですが涙ぐんでしまいました。感極まったからでしょうか、上の文をわざわざ鉛筆で書き写し、その紙切れを捨てるに捨てられず、いまもそばにずっと置いておいています。

 うわの空だったのでよく覚えていないのですが、私はそのときに文字を読んでいたというよりも見ていたのは確かだと思われます。読んでいては顔に出会えないからです。文字の顔のことです。

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