「欠けている」と名指したときに欠ける

欠けている

 足りない、欠けている、ない。
 何かが足りない、何かが欠けている、何かがない。

 上の文字列では「何か」がないわけですが、上と下とでは大きな違いがあるように私には感じられます。そもそも欠けている場合には、その欠けているものがないのですから、何が欠けているのかは不明なはずです。

 その不明なものを「何か」と名づけるのは、恐怖感をやわらげるためでしょう。正体不明のものほど人にとって恐ろしいものはありません。なんとか手なずける必要があります。

 手なずけるために名づけるという行為は太古から人がおこなってきたようです。名前を付けられないのであれば、「何か」「それ」「あれ」「なに」という便利な言葉があります。

 保留するのです。とりあえず「何か」「それ」「あれ」「なに」と名づければ手なずけた気分になります。

 足りない、欠けている、ない。
 何かが足りない、何かが欠けている、何かがない。

 上の場合には、ただ欠けているのです。ただ足りない気がするのです。何がないのかが分からないのです。これほど気味の悪い、恐ろしい気配や体感はないでしょう。

     *

 足りない、欠けている、ない。
 何が足りないのか分からない。何が欠けているのか分からない。何がないのか分からない。

「何か」の代わりに「何が」と名づけて手なずけようとする手もあります。保留の代わりに疑問という形で気持ちを整理するわけですが、いくぶん恐怖心はやわらいだとしても、解決策にはなりません。

 気配ほど人にとって恐ろしいものはないのかもしれません。気配には実体がないからでしょう。

 そんな感じがするだけ。なぜかそんな感じがする。「そんな」は言葉で説明しようがない。「感じ」があるだけなのです。

 気分を辞書で調べると「そぶり」という語義がありますが、「そ」がなくて「ぶり」があるだけという感じが私にはします。「そぶり」を「そんなふり」と取れば、「そんな」はぜんぜん意味がなく「ふり」だけが立ちあらわれているという感じでしょうか。

 足りない、欠けている、ない。これだけが気配としてあるのです。

数量が足りない

 いったい何の話をしているのかと言いますと、書くときの話なのですが、個人的な思いです。私がそう感じているだけなのかもしれません。

 文章を書くとき、私は「欠けている、足りない、ない」といったないない尽くしの状態にある自分を感じます。恐ろしい思いなのですが、その恐ろしさを軽減するために、何が欠けているのか、何が足りないのか、何がないのかをあえて名づけてみます。

 たとえば、言葉が足りません。書こうとしても言葉が足りないので出てこないのです。これは、一つには私の書く能力が欠けているからです。一方で、言葉が圧倒的に足りないものであるという状況もあります。

 言葉の数量も言葉を覚えておく記憶力にも限りがあります。限りがあるのだから、これは足りないと言えるでしょう。現実なり思いなりを言葉に置き換えるには、その対象が大きすぎて、言葉が足りないと言えば分かりやすいかもしれません。

動きに追いつけない

 言葉の数量が足りないに加えて、話し言葉にしろ、書き言葉にしろ、言葉は動きをあらわすのが苦手です。その分、言葉は固定するのが得意です

 猫、眠っている猫、走っている猫、動いている猫、変化している猫、成長している猫

 どれもが静止画です。言葉でどう言おうと静止しているし固定しているのです。話し言葉で言うにしろ、文字で書くにしろ、です。

 言葉には始めと終りがあり、枠があるからです。

 話し言葉であれば時間に拘束されます。話しはじめて話しおわる。しかも、声は発したとたんに消えていきます。聞くほうは、つぎつぎと消えていくものをつぎつぎと記憶しながら追いかけていくのでしょう。

 よく考えれば、はかないし切ないし情けない話です。ないない尽くしです。

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 書き言葉、つまり文字であれば、片っ端から消えていく話し言葉と異なり、消さないかぎり残ります。

 猫、眠っている猫、走っている猫、動いている猫、変化している猫、成長している猫

 文字にも、文字列にも、空間的な枠があります。物差しをつかえば長さも面積も測れるでしょうが、これは紙に書かれたり印刷された、つまり有限な形で固定された文字や文字列の話です。

 ネット上にある文字や文字列や文書は、形(書体やフォント)や大きさがまちまちですから、測ったところで意味はありません。デジタル化された情報がたまたまあるモニターに文字やテキストとして映っているだけだからです。

 いずれにせよ、人によって読まれるさいには、人の視覚機能に合わせて、有限な形の文字として固定されます。固定されていなければ、文字は人には読めませんし、見ることもできません。

 人は動きをとらえるのが苦手なので、文字も人に合わせて動きをとらえられないのかもしれません。

点と線でしかない

 猫、眠っている猫、走っている猫、動いている猫、変化している猫、成長している猫

 話し言葉にも文字も枠があるわけですが、この枠の中には流れや順番があります。

 支離滅裂という言い方がありますが、言葉はしっちゃかめっちゃかであっては困るわけです。人が話すにせよ、書くにせよ、聞くにせよ、読むにせよ、流れや筋や順序がないと困るわけです。

 困る困ると書きましたが、誰が困るのかと言えば、もちろん人です。誰かに向けて話すのでも書くのでもない場合には、話や文が支離滅裂であって誰も――本人も相手も周りも――いっこうに困らないわけです。

 こうした場合というのは、人にあっては意外と多いし日常的に起きている気がします。

 また、話をただ聞き流したり、文字や文を読むと言うよりも見ているだけであったり、心がうわの空である場合も意外とふつうに起きている気がしますが、それは除いて話を進めます。

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 話や文は、ある程度の方向や筋や順番があって進み流れないと困るのです。そうでないと支離滅裂になります。

 支離滅裂、支流に分れたり、筋から離れたり、滅するつまり立ち消えたり、分裂して統一感を失う――脱線と飛躍だらけの、この文章が好例です――と、困るのです。

 ある程度の方向や筋や順番があって進み流れるというのは、点が移動していくようなイメージでしょうか。

 人の視界で考えてみると、視線というのはある大きさのある点が、そこを中心にしてあちこち移動するようです。視線をたどりながら、情報をとらえて整理していく気がします。

 結果的には、面として――ある奥行きや深みのある、つまり「立体的な面」という苦しまぎれのレトリックをつかいたいところです――視界をとらえていく、そんなイメージを私はいだいています。

 人が現実をとらえるというのは、こんな感じではないかと思うのです。そうした前提で話を進めます。

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 現実や思いが、面であったり立体であるとします。話し言葉も書き言葉も、その面や立体を再現するためには、まず点から出発しなければなりません。始まりがあって終りがある話の発端です。それを文字にするなら、出だしの一語です。

 本人や相手や周りが困らないように、出発点からある方向にむけて、なるべく順序よく、なるべく滑らかに、その点を移動させていく。

 この移動とは、話では言葉を時の流れに沿って発していく、つまり並べていくことになります。文では紙や画面の上に線状に並べていく、つまり書いたり入力していくことになります。

 話でも文でも、筋や流れを想定しながら、線状に進んでいくのです。

 声をつかう話し言葉でも、文字をつかう書き言葉でも、点を移動させて線を描いていくと考えられます。面も立体でもないわけです。

 点と線でしかない。これが言界、つまり言葉の世界の限界なのです。

書くときに感じる失調

 数量が足りない。動きに追いつけない。点と線でしかない。

 これが言界、つまり言葉の世界の限界です。

 足りない、欠けている、ない。
 何かが足りない、何かが欠けている、何かがない。

 いまの話はあくまでも私の限界であることをご承知おきください。研究者でも探求者でもない私が、自分語をつかいながら、勝手にイメージして書いただけです。

 いったいなんでこんな話をしているのかと言いますと、私が書くときに、あえて言葉にするとすれば、以上のような、足りない、欠けている、ないを日々感じているからにほかなりません。

 個人的な思いでしかありません。この欠けているという思いを失調と呼んでみましょう。欠けているのですがら、欠陥とか欠損と呼んでもいいようなものですが、とりあえず失調にという言葉をつかいます。

欠けていると書けている

 私だけなのかもしれませんが、書くという体験では不思議なことがよく起こります。

 欠けていると書けているのです。欠けているとなぜか知らないまに書けているのに気づく。逆に言うと、欠けている状態がつづいていないと書きつづけられません。欠けているを引きずりながら書いていくのです。

 つまり、欠けていると感じると書けているのに気づく、欠けているから書けているとしか思えない、という感じです。欠けていると書けていると掛けているわけですが、それは欠けているが宙ぶらりんの宙吊りの状態でもあるからです。

 ぶらぶらふらふらゆらゆら。

 書く人は枝に引っ掛かっている蓑虫や蜘蛛に似ています。言葉というないない尽くしの細い糸だけを取っ掛かりにして、ひたすら「かく」のですから。夢の中で駆けても駆けても駆けたことにはならない。うつつでどんなに書いても書いても書けていない。藻掻く、足掻くだけ。

 もどかしい、ままならない。隔靴掻痒。長靴の上から痒いところを掻いても掻いても痒みがつづく。むしろ、痒みがつづくから書けるのかもしれません。もしそうであるなら、これはもう賭けるしかないでしょう。

 欠けるに賭けるのです。冗談ではなく、まさに欠けると掛けるに賭けて、この文章は書けているのです。じっさい掛け詞だらけではありませんか。内容はないようなのです。

 レトリックというか言葉の綾、つまり文彩だけでなりたっている文章ですから、文才がないことは明々白々でしょう。

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 見切り発車、行き当たりばったり、連想に頼る、勢いにまかせる、これまで書いた文章の継ぎ接ぎ(パッチワーク)――これが私の書き方なのですが、これは「ない」があるを基本にしているようです。

 ないから書くのです。ないことを書くとも言えます。要するに、でっちあげるのです。

 とっかかりがないととっかかりを無理にでもつくって、つまりでっちあげて書きます。

 これは私の書き方なのですが、そうではない「ない」を切っ掛けにした書き方があります。ありますと書きましたが、正確には「あるように見える」と言うべきかもしれません。

 例を挙げます。小説の話です。

最初に失調がある

 小説の冒頭やその近くに、失調があって作品が書かれていく。そんな感じをいだかせる作家がいます。

 まず失調感の確認が儀式のように執り行われて、小説が進んで行くかのような印象を私は受けるのです。

 失調とは、たとえば次のような形を取ります。

 発熱、うなされる、身体の不調、疲弊・疲労・消耗、渇き・脱水、入院・闘病、時間や方向感覚が失われる・迷う、誰かが亡くなる・葬式・法事、入眠・寝入り際・寝覚め・意識の混濁や喪失、旅

 こうした「欠ける」「失う」「無くなる」という出来事や事件があり、それが切っ掛けになって、狂いが生じます。その狂いを引きずりながら、作品が進行し展開していくのです。

 上で「旅」がありますが、旅とは非日常が失われ、それが継続していく時空と言えます。大ざっぱな言い方になりますが、太古や大昔や昔は、旅や大規模な移動は命がけの行動であったことを考えると分かりやすいと思います。

 旅はくたびれるのです。へとへとへらへらくたくたになります。草臥れる。愛用の辞書には「「草臥」は疲れて草に臥す意の当て字」(広辞苑)とあり、うなずいてしまいます。

 草臥れて空をあおぐ。仰ぐ。仰臥。生まれてしばらくの、亡くなる直前の、姿と重なります。毎晩、夢の世界に入るときの姿勢でもあります。

 草臥れる、仰ぐ、仰臥は、古井の作品で頻出する身振りでもあります(たとえば『仮往生伝試文』はこの身振りに満ちています)。登場人物はしばしばくたくたになり、語り手はへとへとの状態で語ります。失調です。旅行はもちろん、山登りや散策を含む「たび」はくたびれるなのです。

     *

 長い下り道をたどってようやく谷底に降り立ったとき、沢音がまるでいままで息をひそめていたように、私の上にいきなり降りかぶさってきて、私の感覚を、まわりの光景とのつながりから微妙な具合に切り離してしまった。
 あの時の軽い失調の感覚を私は軸として、杳子の座っていた谷の光景を描いたようだ。
(太文字は引用者による)

古井由吉「杳子のいる谷」・福武文庫『招魂としての表現』および、作品社『言葉の呪術』所収)

 仮に現実の世界と思いの世界と言葉の世界があるとして、人は言葉の世界、とりわけ点と線でしかない文字の世界に入るとある種の失調におちいるのではないかと私は思います。

 そもそも文字の世界に入った人間は、現実世界や思いの世界でのように、自由でいられるでしょうか。不自由で、もどかしくままならない状況に投げこまれているのではないでしょうか。

 なにしろ、言葉の世界では、現実や思いを言葉にするにはその言葉の数量が足りないし、言葉は現実や思いの動きに追いつけないし、面や立体であると感じられる現実や思いをたどったり描くのに、点を動かして線状に進むしかないのです。

 ないない尽くしの世界に投げこまれると言えます。この状況を失調と言わずに何と言えばいいのでしょう。

もう五時間ちかく人の姿を見ていない男の目の中に、岩の上にひとり坐る女の姿は、はるか遠くからまっすぐに飛びこんできてもよさそうだった。三日間の単独行の最後の下りで、彼もかなり疲れはいた。疲れた軀を運んでひとりで深い谷を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶える女、正坐する老婆、そんな姿がおぼろげに浮かんでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。

古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠新潮文庫所収)p.9)

 上の引用にあるただならぬ日常感覚の失調は、下山する男の疲労がもたらすものであると同時に、不自由な言葉の世界に投げこまれた書き手が体験する言葉つまり文字を相手にするときの過酷な不調でもあると私は感じます。

 この場面で描写されている「岩」は、「異和」、「違和」、「移和」なのです。いわ、いわ、いわ、いわ。同じ「いわ」でありながら、つぎつぎとその姿を変えます。岩は、異物であり、出会えずにすれ違い、つねに移り変わるのです。

 言葉だからです。比喩的にも現実にも点と線でしかない文字だからです。現実にある「何か」ではないのです。

 現実にある「何か」はいじれません。人の思いどおりになりません。ところが、言葉と文字はいじれます。あっさりと言いましたが、これは驚くべきことです。何度腰を抜かしても罰は当たらないほど不思議だしすごいと言うべきでしょう。

 言葉と文字はいじることができる――これが、「ない」を「ある」に転じるレトリカルなトリックであり、「欠く」が「書く」であるというパラドクシカルなマジックでもあり、「欠けている」が「書けている」でもあるというデリュージョナルなイリュージョンなのかもしれません。

 私には、このトリックとマジックとイリュージョンこそが、文字を手にした人類にとってのリアルなのでありリアリティだという気がしてなりません。おそらく猫には通じない、薄いけど厚いというギャグの世界です。

 このアプシュルドでシュールきわまるレアリスム、というか超々スーパーなリアリズムが、ファンタスティックなファントムとして人類に取り憑いているのではないでしょうか?

 それとも、このところ老化と崩壊のいちじるしい私の杞憂であり妄想でしょうか。えっ? そうですね。杞憂ではなく、もうそうかもしれません。

 年寄りだからというわけではありませんが、しつこくて、ごめんなさい。

     *

 なにかはなにか。てなずけようと、なづけてみても、なつきはしない。

(「岩」も名指し名付けたものにはちがいありませんが)岩は岩なのです。その姿を別のものに置き換えるのではなく、その輪郭にひたすら目を注ぎ、その形をなぞるべきなのかもしれません。

 なにかはなにか。なぞはなぞ。なざしなづけるのではなく、なぞをなぞる。とくのではなく、なぞる。

(拙文「異、違、移」より)

     *

 文字を相手にしているだけに、書いているさいには、そしてそれを文字として目でたどり、なぞるさなかには、きわめて具体的な体験として、その不調、言い換えるなら、欠けている、ない、うまくいかない、書けないという感覚がそこにある――そんなふうに私は思います。

 興味深いのは、その欠けているがあって書けているということです。さらに、その欠けていると並行して書けているが続いていくのです。「ない」という感覚をひたすら書いていくとも言えるでしょう。

 このような言葉、とりわけ文字の世界で人が体験する失調を感じさせる小説を書いた作家として、私は古井由吉を挙げたいと思います。

 今回は、古井の小説でいちばんよく知られていて、また読まれてもいるだろう、『杳子』から冒頭に近い部分を少しだけ引用してみました。

「ない」から書けている

 最後に、比較的よく知られた古井由吉の作品を例に取ります。

 中編『妻隠』(新潮文庫『杳子・妻隠』所収)と連作集『山躁賦』(講談社文芸文庫)では、冒頭に病み上がりの熱っぽい状態にある主要な人物が登場したり、語りはじめます。発熱時に起こり、または発熱後に尾を引く、方向や時間や場所の感覚(見当識とも言えるでしょう)が失われる状態、つまり欠損が、描写と語りを支える形で作品が進行していくのです。

 短編集『聖耳』(講談社)の巻頭に来る作品である『夜明けまで』では、離陸する飛行機の客席で語り手が耳に挟んだ葬式の話が入院時の記憶へとつながっていく形を取っています。この入院では過酷な感覚喪失をともなう闘病が語られます。この短編集の一貫したテーマは知覚の欠損ではないかと思われるほどです。

     *

 そう言えば『杳子』では、この小説の視点的人物である「彼」の名前が「ない」、つまり欠けていることで書けている状態が持続するという形を取っています。

 このように、一貫して「彼」と記述されていた登場人物が、初めて「S」と書かれている箇所でもあるのです。「ヨウコ」と「S」――この唐突な名前の表記の「立ちあらわれ」を異和感と言わずに何と言えばいいのでしょうか。

(拙文「異、違、移」より)

 『杳子』における「名前の不在」は、『水』(短編集『水』講談社文芸文庫・所収)という中編(比較的長い短編)では「私を省く」という形で変奏されています。日常において「自分」を根底から支え、「自分」にとって自明のものとされている名前と一人称の代名詞が欠けたまま、小説が書かれているのです。

 『杳子』と『水』は言界(言葉の世界)が非日常や異次元や異世界であり、現界(現実の世界)や幻界(思いの世界)とは重なら「ない」、欠けて足り「ない」世界、つまり限界でもあると感じさせる作品です。それが具体的な文字の身振りとして「ある」のです。

 そのうちにおもしろいことに気がつきました。ふだんの日常でも「ぼく」とか「わたし」とかいう人称は、できるだけ避けようとしている。日本語というのは、人称をはっきりたてなくも通じますから。そういう習性が、小説を書いていてもはたらくんです。「私」という人称をできるだけ減らしてみようと。(中略)そうして、とうとうあるとき、五十枚位の小説で、語り手も主人公もあきらかに「私」なんだけど、一度も「私」という人称を使わずにすませたことがあるんです。「水」という短編です。一度、どうしても苦しくて「こちら」という言葉は使いましたけど。

古井由吉「「私」という虚構」p.320『招魂としての表現』(福武文庫)所収)

 この点については、「「私」を省く」という文章で、作品からの引用をまじえて具体的に論じてあります。

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 最近の私は古井由吉の作品しか読んでいません(あと川端康成の晩年の作品も読みますが)。古井の小説を読んでいていだくのは、欠けているから書けているという思いなのですが、これは私にとっては自分の書く体験と重なるきわめてリアルな心境でもあるのです。古井先生があの世でお聞きになれば、失笑なさるにちがいありませんが。

 衰える身体を持ち忍び寄る認知症の影におびえながらも居直っている老人である私が、文字という影からなる古井の作品に自分自身の影を見ている。そんな言い方もできる気がします。

 作者の意図とか、古井由吉とその作品に貼られたさまざまなレッテルやフレーズとはまったく関係がありません。私は古井の作品にある文字を見ながらいだいた思いをつづっただけです。

 古井由吉の小説については、もっと書きたいと思っています。

「ない、欠けている、足りない」は決して「ない」ではなくむしろ「ある」であり、「ある」がつづくことだと私は思っています。げんに「欠けている」に支えられ、うながされながら、「ない」をめぐって、これだけ長い駄文が「書けている」のですから。

「欠けている」と名指したときに欠ける

”川には水の音、瀬の底を転がる砂や石の音ーーこうした微かな音は重度の難聴者である私にはとうてい聞こえないのですけど勢いあまって書いてしまいましたーー、ほとりに生える草が風に揺れたり、その揺れる葉と葉がこすれる音があるはずです。鳥の声ーー補聴器はしていますが高い音域はとくに苦手で私には聞きとれないのですーーがしているかもしれません。

 聞こえなくても、目に見えるものから音を想像する楽しみがあるのです。

(……)

 こんなことを思いうかべていると、生きていることはーーたとえ障がい(「欠けているもの」)があってもーー全身で受けとめる豊かな体験なのだなとあらためて気づきます。欠けているものは、たぶんないのです。「欠けている」と名指したときに欠けるのです。”

(拙文「03/06 川のほとりで流れをながめる」(電子書籍「うつせみのあなたに 2023年2月・3月」所収)より)