「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」が

 古井由吉作『仮往生伝試文』は確かに難解なのですが、理解なんて無粋なものは求めていない気がします。読めば読むほどそんな気がしてなりません。難しいのではなく、むしろ読みにくいのです。そんなわけで、お経と同じで意味なんか知らなくてもいいと決めこんで読んでいます。

 そもそも往生なんて小難しいものであるはずがありません。往生(本往生と言うべきかもしれません)の直前まではいろいろあるでしょうが、誰もが最期のきわにはすっとなくなるのはないでしょうか。

 難しいものであれば、簡単に死ねない人だらけという理屈になります(ふと、思ったのですが、簡単に死ねない人だらけというのは、案外当たっているのではないでしょうか、横道に逸れそうなので、これ以上深入りはしませんけど……)。

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『仮往生伝試文』がブログのように思えてならないので、なぜか考えたことがあります。理由は拍子抜けするほど簡単で、各章に出てくる日記体のせいだと思いあたったのですけど――ブログと日記に日付は付きものですね、ただそれだけです――、その部分がそれぞれの章でアクセントになっているように感じられます。

 河出書房新社刊の単行本にある奥付の前のページには「初出掲載「文藝」一九八六年春季号~一九八九年夏季号」とあるので、この作品は約三年間にわたる連作だったわけです。

 そんなことに思いをめぐらせながら、この長い作品をぱらぱらめくっていると「月、日」(日付だけでなく空の月と太陽も含まれます)という文字がやたら目につき気になり出しました。

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 圧巻は「いま暫くは人間に」という章の終盤で、この部分は「明月記」という藤原定家の日記からの引用から成り立っていますから、当然のことながら「月、日」がたくさん出てくるわけです。何の不思議もありません。周到な読み手であることが求められる文庫版の解説者による解説において、やはり「明月記」からの引用が指摘され、「月、日」が頻出するのは自然の成り行きでしょう。

 でも、気になるのです。当然だと思いながらも、気になると不思議に思えます。気になって不思議でたまりません。当然と不思議は同義なのかもしれません。

「いま暫くは人間に」というタイトルをよーくご覧ください。「日」というかたちが四つ見えませんか。文字とは言いません。かたちです。こういうことが気になると、ほかのことも気になるものです。

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 書棚にある古井由吉の本をいくつか引っ張り出してきて、あちこち見ました。別の作家の本とも見比べました。結論から言いますと、「日、月、白、明」、さらには「見、目、耳、自」というかたちに満ちているように見えてなりません。とくに『仮往生伝試文』という本のなかの文章に尋常ではないほど目立つのです。

 とはいえ、この本のタイトルにはないですね。いや、強いて言えば「試」に見られる「言」ですか。でも、かなり苦しいだじゃれみたいで、ここまでくるとみっともないので、「言」は引っこめます。本当は「口」もかなり目につくのですが、これも残念ですが引っこめます。

 それにしても気になります。面倒なのでいちいち数えはしませんけど、「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」が目についてなりません。ぱらぱらページをくくっているうちに、何だか気持よくなってきました。

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 よくあることなのです。字面を眺めていると意識が遠のくのです。試してみませんか。別に古井由吉の文章でなくてもかまいません。どんな文にでも意外とあるものです。上の漢字やつくりやへんや部分的なかたちに注目して、読んでみるのです。もちろん別の漢字でもかまいません。自分が気になる漢字であることが大切なのです。

 文章観なんて言うと大げさですが、文章の見方が変化したら楽しいと思いませんか。どうです、やってみませんか? あなたのなかの何かが変わるかも。駄目ですよね――。

 宗教の勧誘じゃあるまいし、誘っちゃいけません。ごめんなさい。ふざけているわけではないことは理解してください。

 何だかでれーっとしてきたので、しゃきっとするために、意識的に文庫版の後ろのほうにある「著者目録」を調べてみました。

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 円陣を組む女たち、杳子・妻隠、櫛の火、聖、哀原、夜の香り、椋鳥、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、聖耳、ひととせの 東京の声と音、聖なるものを訪ねて、白暗淵、半自叙伝。

 書名だという約束事である邪魔な二重かぎ括弧をはずして文字たちのかたち(顔と言ってもいいです)を眺めていると、幸せな気分になります。ああ、まただ――。「わかった」とか「発見した」という知的な興奮ではないことは断言できます。

 そんな高尚なものであろうはずがありません。何しろ、「正しい」か「正しくない」なんて問題にしていないのですから。かたちを見留めて気づいたところで、物知りになったり賢くなるといったたぐいの話ではぜんぜんないのです。

 また、他の作家や文章と比較するのも意味をなしません。文体の特徴とか、ある作家が使う言葉や表記の頻度などという小賢しげで詮索好きな分析とも無縁の作業であると言いそえておきます。

 漢字の物質的な側面である字面やかたちの特徴については、漢字や漢字のつくりを学びはじめた小学生や、日本語を母語としない学習者の方々のほうが、めざとく目がいくのではないかという気がします。

 知識や教養はかえって邪魔になるのではないでしょうか。とはいっても、この種の「まなざし」が文芸批評の一手法としてもちいられないわけではなく、いろいろな人がやっているみたいです。

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 杳子・妻隠、夜の香り、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、ひととせの 東京の声と音、白暗淵。

 上の書名たちをPCの画面で見ながら、近くにあった紙のうえに書き写してみました。とりわけ「日」「月」「白」「目」というかたちをゆっくりとなぞるさいに、火照りを覚えて顔が上気してくるを感じることがありました。

 生前の古井由吉は何度も何度もそのかたちをペンであるいは鉛筆でなぞっていたはずです。こんなことを書くと、酔狂だとか単なる感傷だとか、あるいはちょっとここが変じゃないのと言われそうですが、それでもかまいません。ある種の供養だと思っています。

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 供養という言葉でしんみりしてきましたので、『聖耳』という短編を眺めてそこに並んでいる言葉に遊んでもらいましょう(単行本で見開き二ページです)。

 上で取り上げた「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」だけでなく、「口」にも注目します。『聖耳』が声と音に耳を澄ます身振りに満ちた作品だからに他なりません。

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 圧巻は冒頭の『夜明けまで』という短編でしょう。声と音だけの世界を言葉にしているのですが、凄味を感じます。短編集全体のタイトルが『聖耳』であり、耳と口が同居する「聖」がもちいられていることは無視できません。

「日、月、白、明、見、目、口、耳、自」という「文字ではなくかたち(顔)」に目が行ったところで、一瞬でかまいませんので、立ち止ってみましょう。

 文章を書き写すのが大変なので、第一行から順に目につく文字(かたち・顔)だけを拾ってみます。

1行目.曙
2行目.指、薔、薔
3行目.誰、昨、肌、昇、明、白
4行目.部、脆、眠、日、明、堵、息、吐
5行目.眠、(据)、同、時、日、始、日
6行目.復、自、者、明、繰、尋、過
7行目.
8行目.昇、朝、曙
9.行目(身)、明、郭、(血)、(滴)、部、暗
10行目. 味、朝、目、(覚)、(苦)
11行目. 息、呼、曙、(褪)
12行目. 明、(潰)、晴、曇
13行目. 陽、高、(頃)、部、(面)、者
14行目. 膳、同、朝、取、者、階、口、喫、服、
15行目. 者、(廊)、朝、口、眠
16行目. 散、(開)
17行目. 遠、(道)
18行目.(賑)
※『聖耳』(『聖耳』所収の表題作・講談社・単行本 p.248-249)

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 あなたもひとつ試してみませんか。同じ短編から美味しそうなところを選びました。上の続き(19行目から)です。

 昨夜、担架車に載せられて帰るのを、下の渡り廊下から見たよ、と話すのが聞こえる。
 雨の夜明けにも曙光らしきものを見た。暗天のままに、降りしきる雨の、雨脚がほんのりと染まった。一瞬のことだった。目を瞠ればその名残りもなかったが、身体の内で後れて薄紅がふくらんで、顫えながら天を指して昇った。呆れて窓から離れ、休憩所の椅子に座りこみ、まだ明けようともせぬ廊下をただまっすぐに眺めて、格段思うこともないのに考えこむようにしているうちに、むこうはずれの病室から起き抜けの寝間着の老女が現われ、ゆらりゆらりとこちらへ歩き出し、洗面所の前を過ぎて、配膳室にも入らず、急用の電話に起きたのかと思うと、まっすぐに寄って来て、年の程のちょっと分からぬ顔になり、黙って隣の椅子に腰をおろした。人には構わず背をまるめて頭を前後に揺すり、早目に破れた眠りをここで取り返そうとするのか、今にも寝息が立ちそうに見えたが、右手は膝から浮かせて、宙にゆるく握りしめ握りしめしていた。

『聖耳』(『聖耳』所収の表題作・講談社・単行本 pp.248-250)

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 かたち・顔を拾うと、たぶん次のような感じになると思います。

19行目. 昨、担、架、(廊)、見、話、聞
20行目. 明、曙、見、暗、脚
21行目. 瞬、目、瞠、名、(身)、顫
22行目. 指、昇、呆、憩、椅、明、(廊)
23行目. 眺、格、別
24行目. 間、(着)、現、(面)、前、過
25行目. 膳、話、寄、程
26行目.(顔)、椅、腰、背、頭、前、早、目
27行目.破、眠、取、息、見、右、膝
28行目.(握)、(握)
※『聖耳』(『聖耳』所収の表題作・講談社・単行本 pp.248-250)

 こじつけもありますが、ご容赦願います。遊びであり、気分の問題ですので。 

 上の文字・かたち・顔たちを目を瞠り――目を見張り、ではなく、眼を大きく開け、ではなく――眺めていると、目に映るのは紛れもなく古井由吉の文章のかたちであり、顔に見えてきます。

 それほどよく見かけるのです。こんにちは、またお目にかかりましたね。その節はどうも……。懐かしさすら覚えます。

 執筆時にワープロ専用機もパソコンも使わなかった古井がこうしたかたちをペンや鉛筆で一つひとつなぞったのだと考えると、私の指は顫えてきます。震えて、ではなく、ふるえて、でもなく。

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 ある日ある時の古井由吉は、多くの可能性と選択肢の中から、あえてその言い回しをもちいたのであり、その文字を選んでつかった。それは意図や思いや癖などという抽象を超えた具体的な行為であったはず。かたちを取っているのだから、もはや「物」と言うしかない動きと身振り。

 そう信じています。私はそれをなぞるだけ。 

 

※今回の記事は、以下の記事を部分的に再構成したものです。

bloggpostings2.blogspot.com

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