辺境としての人間

テリトリー、外、内、辺境

 昔の話です。

「仏文学は澁澤龍彦、独文学は種村季弘(たねむらすえひろ)、英文学は由良君美(ゆらきみよし)」――そんなふうに、一部の人たちが口にしていた時期がありました。三人に共通するのは、博覧強記というところでしょうか。在野、アカデミックな場と、身を置く場所は違いましたが、それぞれが持ち味を生かしながら、いいお仕事をなさっていました。

澁澤龍彦 - Wikipedia

種村季弘 - Wikipedia

 三人のなかでは、由良君美がいちばん一般的な知名度は低かったような気がします。ただ専任の大学教員であったために、アカデミックな世界では、著名な方でした。現在、表象文化論というテリトリーがあるのは、由良君美の門下、あるいは、その講義を聞いた人たちがいたからだ。そう言ってもいいように思います。

由良君美 - Wikipedia

book.asahi.com

 由良は『脱領域の知性』という邦題の訳書を1972年に上梓しています。原書の著者は、ジョージ・スタイナー(George Steiner)という人で、原題は、Extraterritorial です。スティーブン・スピルバーグのSF映画で邦題が、「E.T.」という作品がありますが、その原題は、E.T. the Extra-Terrestrial です。

 似ていますよね。Extraterritorial は、「学問の領域を超えて」という意味であり(治外法権・extraterritoriality の形容詞形でもあり、interdisciplinary・学際的とも近い気がします)、一方の Extra-Terrestrial は、「地球の外の」という意味です。もっとも the が形容詞につくと、英語では「○○な人たち」とか、「○○なものたち」という複数名詞みたいに扱われますから、the Extra-Terrestrial は、「地球外の生物たち」という意味になりそうです。

 ところで、「脱構築」という言葉があります。英語では deconstructionです。ドイツのハイデガーの著作経由で、ジャック・デリダが、déconstruction (デコンストリュクシオン)と仏訳=造語したのが、英語になったらしいです。この語に「脱構築」という訳語を当てたのも、由良君美だと聞いたことがあるので、ネット検索をして確かめてみると、ウィキペディアの解説「由良君美」に言及がありました。由良には『メタフィクション脱構築』という著書があります。

 学術の領域における海外の新しい潮流で、ものになりそうなものを嗅ぎだす優れた才能の持ち主だったことが、うかがわれます。先見の明があった人だったと、今になって思います。

 とは言いながら、こうしたことはすべて高山宏先生からの受け売りです。かつて大学生だった私に、由良君美について熱っぽく語ってくれた高山先生の姿がいまも目に浮かびます。ちなみに高山宏先生は事物をつなげる名人であり、上のお三方に続く人物だと理解しています。

高山宏 - Wikipedia

        *

*extraterritorial
*interdisciplinary
*extra-terrestrial
*deconstruction

 ex(tra) や inter や de のつく単語とそのイメージを見てみましょう。

 export、import、exit、exterior、interior、without、within、in、out、inbound、outbound、étranger、stranger、outsider、excentric、expose、impose、express、impress

 内と外、入ると出る、はずれる・外れる、ずれる、ずれ、よそとうち、なかとそと

 detour、decline、incline、decentralize、decompose、demerit、devalue、decertify、deconstruction、decontaminate、decrease、increase

 déterritorialisation、deterioration、decode、code、encode、domain、Dominus、domestic、dominion、empire、emperor、imperium、imperial、imperialism

 それる・逸れる・反れる、脱する、脱ぐ、反・逆・降・否・分

 international、interaction、intercontinental、interface、inermariage、Intercollegiate

 際、きわ、間、あい、あいだ、あわい

 periphery、outskirt、periscope、peri-urban、frontier、marginal、border、Doctors without Borders、boundry、between、among

 隔たり、分かれ目、境い目、境界線、辺境、縁、ふちっこ、枠

        *

 澁澤龍彦種村季弘由良君美は、それぞれ辺境に身を置いた人物だという気がします。フランス、ドイツ、英米と日本とのあいだに身を置いて、学び、研究をし、執筆活動をしたという意味です。

 こうした異国と母国のあいだに身を置くという身振りで決定的な役割を果たすのが言葉、つまり言語であることは言うまでもありません。忘れてならないのは、異国の言葉を身につけることが異国の文化との触れ合いでもあるということです。

 母国において異国の言葉を学ぶ際には、たとえその異国の人から直接学ぶという幸運に恵まれたとしても、その異国で学ぶのではないわけですから、制約や限界があります。その言葉をある程度、あるいはかなり身につけながら、その言葉が話されている国や地域に、ほとんど、あるいは一度も足を踏み入れることなく生涯を終える人も多いに違いありません。

辺境に身を置いた人たち

 上の文章では、辺境に身を置いた人物として、澁澤龍彦種村季弘由良君美を挙げました。この三人に共通点は何でしょう。

 博覧強記ですか。確かにそうでしょう。語学に秀でいていた、ですか。あれだけのお仕事をなさったのですから、それも間違いありません。名文家だった、ですか。おおいに共感します。私は三人の文章の熱狂的なファンです。

 三人の残した業績を見れば、フランス語、ドイツ語、英語という言語が大きな役割を果たしたのは言うまでもありません。まず言葉を学び、そして言葉とその言葉にまつわる文物を学び続けるという果てのない過程をとおして創作活動をした。そう言えるのではないでしょうか。

 言葉を学ぶことは、同時にその言葉を生んだ文化を学ぶことである――。言うのは簡単ですが、きわめて困難な道でしょうね。才能、運、環境、身体(健康)、財力、社会情勢といった要素に左右されるに違いありません。

 さて、三人の共通点ですが、私の頭にある共通点については、上の文章の最後に書いてあります。

 母国において異国の言葉を学ぶ際には、たとえその異国の人から直接学ぶという幸運に恵まれたとしても、その異国で学ぶのではないわけですから、制約や限界があります。その言葉をある程度、あるいはかなり身につけながら、その言葉が話されている国や地域に、ほとんど、あるいは一度も足を踏み入れることなく生涯を終える人も多いに違いありません。

 それぞれ三人についてのウィキペディアの解説を読んでみると、三人とも長期にわたって留学をした経験がないようなのです。澁澤であればフランス、種村であればドイツ、由良であれば英国か米国で、もし若い時に留学していれば、残したお仕事の内容も大きく変わったのではないか。

 不用意きわまる感想および意見でしょうが、そんな想像をしてしないではいられません。

 歴史に if は許されないという意味のことがよく言われます。その意見にしたがえば、今私の述べた感慨は、想像や空想どころか無意味な妄想でしょうね。

 もう一つ、不用意で妄想じみた疑問が浮かびます。

 なぜなのでしょう。

 なぜ、上の三人は若い頃に留学をしなかったのでしょう? しなかったというより、できなかったのかもしれません。三人が少年から青年だった時期の情勢がまったく関係なかったとは言えない気がします。

澁澤龍彦(1928-1987):フランス語
由良君美(1929 -1990):英語・ドイツ語
種村季弘(1933- 2004):ドイツ語

 上に挙げたお三方の生年と享年を見ると、それらが単なる数字の羅列ではないことが分かります。要するに、留学をするのがきわめて難しい時代に少年および青年時代を過ごしたという意味です。 

 もちろん、この三人と同世代で十代から二十代にかけて海外渡航や留学経験がある人もいますが――その前後の世代に比べればずっと少ない気がします――、海外へ渡航すること自体が不可能に近い国内および世界情勢下の時代を生きたことは事実であると思われます。

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 次に「辺境」に身を置いた人物を生年順に挙げてみます。あくまでも私個人の興味に基づいたリストで、各人が深くかかわった言葉と海外渡航および留学経験の有無に焦点をあてています。

 リストの作成のために、各人物についてのウィキペディアの解説を参照しました。私には語るような知識も蘊蓄もないので、詳しい経歴などをお知りになりたい方は、ウィキペディアでご検索願います。

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最澄(766/767-822):中国語、遣唐使

空海(774-835):中国語、遣唐使

菅原道真(845-903):中国語、遣唐使

遣唐使(630年から894年)

前野良沢(1723-1803):漢文、オランダ語

杉田玄白(1733-1817):漢文、オランダ語

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866):ドイツ語、オランダ語。お雇い外国人。

*ジェームス・カーティス・ヘボン(1815-1911):英語、宣教医、宣教師。

ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886):英語、お雇い外国人。

*ジョン万次郎/中浜万次郎(1827-1898):捕鯨船員、英語、アメリカ人家庭で養子、アメリカで学校教育、帰国後欧州へ派遣。

西周(1829-1897):漢文、オランダ語、ドイツ語、留学。

福澤諭吉(1835-1901):漢文、オランダ語、英語、万延元年遣米使節

新島襄(1843-1890):漢文、英語、江戸時代の1864年に密出国して米国に渡り、米国訪問中の岩倉使節団と会い参加する。

森有礼(1847ー1889):漢文、英語、薩摩藩第一次英国留学生。

ラフカディオ・ハーン/小泉八雲(1850-1904):英語、フランス語。お雇い外国人。

*アーネスト・フェノロサ(1853-1908):英語、お雇い外国人。

坪内逍遥(1859-1935):漢文、英語。

内村鑑三(1861-1930):英語、札幌農学校1884年に私費でアメリカに渡る。

森鷗外(1862-1922):漢文、オランダ語、ドイツ語、1884年陸軍省派遣留学生。

新渡戸稲造(1862-1933):英語、ドイツ語。札幌農学校、米国へ私費留学、官費でドイツへ留学。

岡倉天心(1863-1913):漢文、英語、アーネスト・フェノロサの助手、宮内省より清国出張を命じられる。インド訪遊。ボストン美術館勤務。

二葉亭四迷(1864-1909):漢文、フランス語、ロシア語。ロシア滞在。

*津田梅子(1864-1929):英語。1871年、父親が女子留学生に梅子を応募させ岩倉使節団随行して渡米(5人のうち最年少の満6歳)、米国で教育を受け、1882年に帰国。1889年に再び渡米。

夏目漱石(1867-1916):漢文、英語。1900年文部省より英国留学を命じられる。

南方熊楠(1867-1941):漢文、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語。私費で渡米、渡欧。

◆明治時代(1868年から1912年)

上田敏(1874-1916):漢文、英語、東京帝国大学英文科、講師小泉八雲からその才質を絶賛され、小泉の後任となる。1908年欧州へ留学。

有島武郎(1878-1923):父の教育方針により米国人家庭で生活、英語、札幌農学校1903年に渡米。

片山広子(1878-1957):英語、東洋英和女学校卒。松村みね子名義でアイルランド文学を中心に翻訳。

永井荷風(1879-1959):英語、フランス語。1901年暁星中学の夜学でフランス語を習い始め、1903年父の意向で実業を学ぶために渡米。1907年から1908年にかけてフランスに10か月滞在。

*アーサー・ウェイリー(1889-1966):日本語、中国語。パブリックスクールを経てケンブリッジ大学で古典学専攻。日本語と古典中国語を独学で習得する。東アジアの古典語に通じていたが、現代日本語は操れなかった。来日もしていない。

日夏耿之介(1890-1971):漢文、英語。フランス、イタリア、イギリス、アイルランドの文学の紹介と翻訳などをおこなう。

堀口大學(1892-1981):フランス語。外交官の長男。1911年父の任地メキシコに。父の後妻がベルギー人で、家庭の通用語がフランス語。父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、パリ、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。

村岡花子(1893-1968):英語、10歳で東洋英和女学校に給費生として編入学、そこでカナダ人宣教師から英語を学ぶ。

西脇順三郎(1894-1982):英語、ラテン語、フランス語。1900年に小学校に入学し姉からナショナル・リーダーズを習う。1922年渡英。オックスフォード大学。

*由良哲次(1897-1979):ドイツ語、留学。エルンスト・カッシーラーのもとで博士論文を完成。

*呉茂一(1897-1977):英語、古典ギリシャ語、ラテン語。1926年ヨーロッパ留学して古代ギリシア文学・ラテン文学を修める。

*ロベルト・シンチンゲル/Robert Schinzinger(1898-1988):ドイツ語。エルンスト・カッシーラーの下で博士号を取得。1923年来日。東京大学でドイツ語とドイツ文学を教える。1946年から1974年まで学習院大学教授。

渡辺一夫(1901-1975):暁星中学、フランス語。1931年から1933年、文部省研究員としてフランスへ留学。

小林秀雄(1902-1983):フランス語。東京帝国大学文学部仏蘭西文学科。

平井呈一(1902-1976):英語。永井荷風佐藤春夫に師事。

*田中美知太郎(1902-1985):ギリシャ語、ラテン語

久生十蘭(1902-1957):フランス語。1929年から1933年までフランスのパリに遊学。

河盛好蔵(1902-2000):フランス語。京都帝国大学文学部仏文科。1928年、学校騒動で関西大学を辞職して渡仏しソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。

神西清(1903-1957):フランス語、ロシア語。、東京外国語学校露西亜語学科。

吉川幸次郎(1904-1980):中国語。1920年第三高等学校文科甲類へ進み、現代中国語を学び、1923年大学進学の休みに中国江南を旅する。京都帝国大学文学部文学科で考証学・中国語学・古典中国文学を学ぶ。1926年、卒業論文を漢文で書き大学院に進み唐詩を研究。

*高津春繁(1908-1973):ギリシャ語、ラテン語。1930年 から 1934年、 オックスフォード大学でギリシア語とサンスクリット語の比較言語学を研究。

森有正(1911-1976):フランス語。6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学ぶ。暁星小学校暁星中学校。1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任。第二次世界大戦後海外留学が再開され、その第一陣として1950年フランスに留学。パリに留まり1952年にパリ大学東洋語学校で日本語と日本文化を教える。

◆大正時代(1912年から1926年)

吉田健一(1912-1977):英語。1919年外交官だった父吉田茂の任地パリ、1920年ロンドンに赴く。1930年ケンブリッジ大学入学。1931年退学、帰国。アテネ・フランセへ入り、フランス語、ギリシャ語、ラテン語を習得。

福田恆存(1912-1994):英語。

高橋義孝(1913-1995):ドイツ語。1937年フンボルト財団給費生としてベルリン大学へ留学。1938年、ケルン大学へ移りドイツ文学を学ぶ。

神谷美恵子(1914-1979):フランス語、ラテン語、イタリア語、ドイツ語、古典ギリシャ語。

※私は神谷美恵子氏を心から尊敬しているのですが、その生い立ちと経歴については、ぜひ以下のウィキペディアの解説をお読みください。あれだけたくさんの素晴らしいお仕事をなさった神谷氏が65歳で亡くなったことが信じられません。もっと長生きをしていただきたかったと悔やまれてなりません。

神谷美恵子 - Wikipedia

朝吹登水子(1917-2005):フランス語。女子学習院を中退後、1936年フランスに渡り、ブッフェモン女学校、パリ大学ソルボンヌに学んで1939年帰国。

堀田善衛(1918-1998):フランス語、英語。1945年上海で敗戦を迎える。1947年12月まで留用生活。

福永武彦(1918-1979):フランス語、英語。1938年東大文学部仏文科に入学し1941年卒業。1961年学習院大学教授。

エドワード・G・サイデンステッカー(1921-2007):日本語。海軍日本語学校で日本語を学ぶ。1947年に国務省外交局へ入り、イェール大学とハーヴァード大学に出向して日本語の訓練を重ねる。1950年に退官し、5年間東京大学に籍を置いて日本文学を勉強する。

ドナルド・キーン(1922-2019):日本語。1941年アメリカ海軍の日本語学校に入学し日本語教育の訓練を積んだのち太平洋戦線で日本語の通訳官を務める。復員後コロンビア大学ハーヴァード大学

*竹内実(1923-2013):中国語。中国山東省生まれ。日本へ帰国後、二松學舍専門学校在学中に学徒出陣を経験。第二次世界大戦後、京都大学文学部中国語学文学科、東京大学大学院修士課程修了。

遠藤周作(1923-1996):フランス語。1941年上智大学予科入学、1942年同学中退。慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。

*平野敬一(1924-2007):英語。米国サクラメント生まれ。東大英文科卒、1953年より東大教養学部勤務、のち教授。

◆昭和時代(1926年から1989年)

*粟津則雄(1927-):フランス語。

澁澤龍彦(1928-1987):フランス語。1950年、2年の浪人生活を経て東京大学文学部に入学。1970年、初めての欧州旅行に出たのをきっかけに、1970年代から1980年代にかけ何度か海外旅行。

出口裕弘(1928ー2015):フランス語。1962年東京経由でパリ大学文学部に私費留学。1963年帰国。1977年から1978年まで、ソルボンヌ大学に国費留学。

由良君美(1929 -1990):英語・ドイツ語。1949年学習院大学文政学部哲学科に入学。1952年に卒業し学習院大学英文学科に学士入学。1954年に英文学科を卒業し、慶應義塾大学大学院に進学し、教授だった西脇順三郎の指導でコールリッジを専攻。1963年、慶應義塾大学経済学部助教授に就任。1965年、高橋康也の推薦で東京大学教養学部英語科の助教授。英文科等で教えることはなかったが、教養課程の学生を対象とする一般教養ゼミの由良ゼミを担当。1976年に教授。

*久保正彰(1930-):18歳で日本の高校を中退し、単身アメリカに渡る。1953年、ハーバード大学卒業(古典語学・古代インド語学専攻)。呉茂一に師事。

岩田宏小笠原豊樹(1932-2014):ロシア語、英語、フランス語。東京外国語大学ロシア語学科中退。

阿部良雄(1932-2007):フランス語。1958年フランス政府招聘留学生として高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリユール)に学び、パリのCNRS(国立科学研究センター)研究員、東洋語学校講師として長くパリに滞在。1966年再びフランスに渡り1970年に帰国。

高橋康也(1932-2002):英語。1953年東京大学文学部英文科卒、58年同大学院博士課程満期退学。1981年カナダ・トロント大学客員教授、1986年ケンブリッジ大学客員フェローを歴任。

種村季弘(1933- 2004):ドイツ語。1953年、東京大学文学部美学美術史科進学。1954年、東京大学文学部独文科に転科。1977年、旧西ドイツのヴォルプスヴェーデに滞在。

蓮實重彦(1936-):フランス語。東京大学文学部仏語仏文科を卒業後、同大学院。1962年にフランス政府給費留学生として留学し、1965年にパリ大学大学院で博士号を取得。同年、帰国。

古井由吉(1937-2020):ドイツ語。1956年4月、東京大学文科二類入学。同文学部独文科卒。同大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程修了。

池内紀(1940-2019):ドイツ語。東京外国語大学国語学部卒業、1965年東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。1967年にオーストリア政府奨学金を得てウィーンに留学。

◆太平洋戦争(1941年から1945年)

        *

 壮観ですね。ため息が出ます。リストを作るのも大変でしたが、今こうして眺めていると目まいが起きそうな気配を感じます。

 リストの作成中に各人物の解説に目を通したのですが、いろいろなイメージや言葉の断片の洪水に襲われそうになりました。

 しきりに頭に浮かんだのは、中学生時代に読んだヘルマン・ヘッセの『車輪の下に』なのです。神学校に進学するため、そして進学後も、主人公のハンスが複数の古典語(ラテン語ギリシア語、ヘブライ語)を勉強する(活用の暗記・文章の暗唱・翻訳・読解・作文)のですが、それと上のリストにある人物たちが重なるのです。

 さらに漢文の素読に励む日本の着物を着た少年たちの姿も浮かびました。希望に満ちた表情もあれば、眠気を堪えた苦しげな顔もあります。見たこともないのにです。

 このリストにまともに付き合ったら寝込みそうな予感がするのでいったん保留し、記事で扱うのは後日にさせていただきます。

 結局、上のリストは今後の記事を書くためのメモとなりました。

言葉は外と内から辺境へとやって来る

 澁澤龍彦種村季弘由良君美の三人に話を戻します。

 三人はフランス、ドイツ、英米と日本とのあいだに身を置いて、学び、研究をし、翻訳もし、執筆活動をしました。対象とする国から遠く離れた場所、文化と文化の境目という意味での「辺境」に身を置いた人物と言えるでしょう。

 何しろ、ヨーロッパから見れば日本は極東(the Far East)にある小さな島国なのです。上で述べたのとは、ずれた意味の辺境なのです。縁や端っこであることには変わりませんが。

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 普通テリトリーというと、人の集団が作る縄張りを意味しますが、個人としての人間にもテリトリー、つまり外、内、辺境があるのではないでしょうか。個人のプライベートなスペースというのではなく、人の身体と意識が一つの「内」という場であるというイメージです。

 この記事では、共同体のレベルと個人のレベルのテリトリーを重ね合わせたり、両者の間を行き来しながら、外、内、辺境について考えてみようと思います。

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 日本語であれ、英語であれ、中国語であれ、漢文であれ、言葉というものが、ざらりとした違和感に満ちたものに感じられませんか。つまり、言葉は借り物なのです。個人レベルでも、国や地域や民族レベルでも、です。

 言葉は自分の中にあるのではなく、生まれた時に、既にあった。しかも、自分の外にあったものなのです。それを「真似る・学ぶ」という形で借りて内に入れて身につけたのです。

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 ところで、対応するものを欠いた(生活空間である身の回りに、対応するものが見当たらない)言語を習得するのは、ある意味空疎であり味気ないものでしょうね。遠く離れていて、風景や、食べ物や、季節感や、生えている草木や花が異なる国や地域の言語。

 このように対応物を欠いた言語との接触とは、結局異文化との触れ合いであり摩擦であり、場合によると衝突なのですね。言葉と文化と土地は切り離せません。でも、切り離されることはよくあるのです。

 たぶん、人が移動する生き物だからでしょう。途方もない距離を、です。いい意味でも、悪い意味でも、です。

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 澁澤と種村と由良の三人にとって、その活動の基礎となるのは言葉でした。あくまででも想像になりますが、フランス語、ドイツ語、英語を初めて学んだ時には、きっといつかその言葉が話される土地へ行くことを夢見ていたに違いありません。若く希望に満ちあふれれていたはずです。

 何しろ、日本という「内」において外国語とは、周りに一対一で対応するものがない場(この場を「辺境」と言ってもいいかもしれません)で、「外」から借りて身につけるという一種の曲芸をしなければ学べないものなのです。もどかしい体験とも言えます。

(※体系化された「曲芸」を確立しているのが、フランス語を母語としない人たちのためのフランス語教育だと思います。これは海外におけるフランス語教育にも見られます。)

 たとえば、英語の mountain とドイツ語の Berg とフランス語の montagne と、日本語の「山」とは、ずれています。イコールの関係にはなく、日本にいては五感で「体験する」こともできません。

 身も蓋もない話ですが、外国語とは何らかのトリックや錯覚や事実の意識的な忘却なしでは学べない、外から来るものなのです。

 本当はほぼほぼでテキトーだけど、細かいことを言ってては身につかないから、ま、いっか、気にしない気にしない――というわけです。実のところ、それでいいのです。さもなければ、語学なんてやってられません。

 澁澤と種村と由良の三人は、結果的に「よそ」の土地で長期に学ぶ、つまり留学することはなかったにせよ、もっぱら「うち」で書物を読むという形で研究をし、素晴らしい業績をあげたことは事実です。そして、そうした成果が素晴らしい日本語で著わされた書物という形で結実したことを忘れるわけにはいきません。

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 そもそも、文字の出現以後の人類の歴史とは、そうしたものではなかったか。そんな気がします。すべての人が「よそ者」の言葉を、「よそ」へ行って、そこで学んだり身につけたのではわけではないのです。

 写本、翻訳、訳読、素読、読み下し、レ点、暗唱、オーディオリンガルメソッド、ダイレクトメソッド、全身反応教授法、反復練習、通訳、要約、翻案、意訳、直訳、大意、見よう見まね、睡眠学習、催眠学習――。手品というか方法には事欠きません。その手法も次第に洗練されていったはずです。

 ずれを解消するにはいかないまでも、さまざまな妥協と試行錯誤を重ねて、人と人はかろうじてつながってきたということでしょうか。異文化間での「完璧な」意思疎通や伝達など幻想なのです。ずれとエラーと遅滞と勘違いは不可避です。これらがもとで、戦争だって起きます。うまくいかないほうが普通かもしれません。

        *

 ここで、澁澤と種村と由良とは別の人物に話を変えます。

 対応するものを欠いた(生活空間である身の回りに、対応するものが見当たらない)言語を習得する。遠く離れていて、風景や、食べ物や、季節感や、生えている草木や花が異なる国や地域の言語を学ぶ。

 こうした体験をしたのちに、ついに「対応するものがある」憧れの国へ行き、そこで学問をすることができた人物のひとりが森有正です。

森有正(1911-1976):フランス語。6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学ぶ。暁星小学校暁星中学校。1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任。第二次世界大戦後海外留学が再開され、その第一陣として1950年フランスに留学。パリに留まり1952年にパリ大学東洋語学校で日本語と日本文化を教える。

 森有正は、母語ではないフランス語を「対応するものを欠いた」日本でフランス人の教師のもとで学び、母語並みにフランス語に熟達した学者として、初めてフランスを訪ねたのは39歳になった年でした。

 フランス語がネイティブ並みに読み書きできるだけでは駄目だ。それはむしろ研究者として当り前の前提にすぎない。それ以上のものがなければならない――。そんな意味のことを森有正が何かに書いていた記憶があります。

 森は「経験」という言葉をさかんに著書でつかっていましたが、その経験とは頭で覚えただけの抽象ではない、実体験を積みかさねた結果としての「経験」だったと私は理解しています。

 抽象的であることではなく具体的であることの大切さを森有正があれだけ強調した背景には、対応するものを欠いた環境でフランス語を学ばなければならなかった苦く長い――長すぎる――過去があったからではないか。私はそのように想像しないではいられません。 

        *

 話を戻します。

 澁澤と種村と由良の三人において、日本語での読書体験が、外国文学の研究と理解に役立ったことは間違いないでしょう。内なる言葉で外からの言葉を受けとめたとも言えるでしょう。

 これは素晴らしいことではないでしょうか。というか、これしか他に道はなさそうなのです。

 日本語と日本の文化という「内」から、そして異郷の言葉と異郷の文化という「外」の両方から、自分という「辺境」に言葉を呼び寄せ吸収し、「辺境」にあって創作活動を続けた。三人の生き様をそんなふうに想像しています。 

 そうなのです。人は「辺境」なのです。そしてあらゆる国と地域もまた「辺境」だと言えるでしょう。

        *

 別の言い方もできそうです。

 外からやって来る言葉と事物、自覚も意識できないブラックボックスのような「内なる言葉」。この外と内が出会う場が、個人としての人であり、国や地域なのではないでしょうか。そうであれば、人は辺境であり、あらゆる国と地域も辺境だと言えるのではないでしょうか。

 辺境は常に揺らぎ移ろう。辺境は、混合という形での創造が常に生起する場である。そんな気がします。

 言葉は外と内から辺境へとやって来る。辺境という揺らぎの場へと。

 人は辺境から辺境へと移る。人がいるところは常に辺境。

        *

『書物漫遊記 』、『食物漫遊記』、『贋物漫遊記』、『書国探検記』、『好物漫遊記』、『遊読記』、『徘徊老人の夏』、『雨の日はソファで散歩』――。

 種村季弘の書物のタイトルを見ていると――たとえ種村自身のネーミングではないにしろ――、古今東西の文献を渉猟した種村が書物と事物の間を歩き回る人であったことがうかがわれます。海外に出なくても、あるいは書斎の中にいても、世界中をそして日本中を歩き回り、過去と現在の間を行き来できるのです。

 澁澤龍彦のヨーロッパ旅行記のタイトルが『ヨーロッパの乳房』であることは象徴的に感じられます。澁澤が初めてヨーロッパを旅したのは、1970年ですから42歳の時でした。乳房はボードレールの詩から取られたらしいのですが、中年になってようやく憧れの欧州という母親に抱かれた澁澤を想像しないではいられません。

『世界悪女物語』、『夢の宇宙誌 コスモグラフィア・ファンタスティカ』、『秘密結社の手帖』、『異端の肖像』、『人形愛序説』、『東西不思議物語』、『幻想博物誌』――。

 種村季弘と同様に古今東西の文献を渉猟した澁澤龍彦もまた、書物と事物の間を歩き回る人であったことが分かります。

 由良君美の著作で印象に残っているのは、『椿説泰西浪曼派文学談義』、『言語文化のフロンティア』、『メタフィクション脱構築』です。また、由良がかかわった訳書では、ジョージ・スタイナー著『言語と沈黙』、ジョージ・スタイナー著『脱領域の知性-文学言語革命論集』、コリン・ウィルソン著『至高体験』が忘れられません。

 このように澁澤、種村、由良は、フランス文学、ドイツ文学、英文学という枠に収まりきらない、脱領域的な執筆活動をした人物として記憶されるに違いありません。

 三人の中で自分が辺境にいることに最も自覚的だったのは由良である気がします。澁澤と種村は、その個性からあっけらかんと脱領域的活動を具現し、由良は脱領域性を戦略とした、という見方が可能かもしれません。

 その意味で、由良は辺境にいる人物たちに惹かれたのであり、自分自身で創作するよりも、コーディネートやプロデュースに長けていた(一例を挙げると、ジョージ・スタイナー著『言語と沈黙』に参加した当時新進気鋭だった研究者たちの顔ぶれを見れば明らかでしょう)ような印象を持ちます。

 スタイナーは類のない批評家であると言われる。なるほど、現代批評のさまざまな潮流――新批評、ヌーベル・クリティック、神話原型批評、精神分析的批評、マルキシズム批評等々――の、どれにも彼は入りきらない。これは当然のことだろう。<あとに>きた者の自覚を出発点として、現代になお可能なコスモポリタンの在り方をユダヤ人の誇りを原動力として歩もうとするとき、特定のアプローチの枠組、特定の地域アウタルキーへの忠誠は無意味のものにならざるをえない。残るのは、<あとに>きた者の自覚の地図を、あらゆるアプローチの枠組、あらゆる地域の文学を駆使して、探求し、描き出すことであろうから。(後略)

(ジョージ・スタイナー著『言語と沈黙』由良君美他訳・せりか書房所収、由良君美による「批評はアウシュヴィッツのあとに――解説に代えて」より引用)

 この由良の言葉にある「<あとに>きた」という、生き残ったユダヤ人であるスタイナーの自覚は、自分が絶対的な「よそ者」であるという意識に近いと思われます。このスタイナーのコスモポリタン性、そして移動する民の末裔という意識に、由良は深い共感を覚えていたに違いありません。

由良君美(1929 -1990):英語・ドイツ語。1949年学習院大学文政学部哲学科に入学。1952年に卒業し学習院大学英文学科に学士入学。1954年に英文学科を卒業し、慶應義塾大学大学院に進学し、教授だった西脇順三郎の指導でコールリッジを専攻。1963年、慶應義塾大学経済学部助教授に就任。1965年、高橋康也の推薦で東京大学教養学部英語科の助教授。英文科等で教えることはなかったが、教養課程の学生を対象とする一般教養ゼミの由良ゼミを担当。1976年に教授。

 ウィキペディアの解説に基づいて作成した由良の経歴を見ると、境界にいた人物であることがうかがわれます。縦割りとか蛸壺と言われることの多かった当時の日本の社会では十分に「よそ者」であったと推測できます。

 話をスタイナーに戻します。

 由良が、ジョージ・スタイナー著『言語と沈黙』の「解説に代えて」で描くスタイナー像は、常に辺境であろうとする姿勢と読めるのはないでしょうか。

 私には、これが単にユダヤ的な意識と自覚であるとは感じられません。どの民族、ひいては個人についても言える属性だと思います。さらに言うなら、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのいうノマドジーともきわめて近い指向性であり戦略だという気がします。

辺境としての自分

 人は辺境から辺境へと移動する生き物ではないでしょうか。世界各地を歩き回った人も、ある土地で生まれ育ち一生を終えた人もです。

 人は他の人と触れ合うことなしに生きることはありません。でも、それぞれの人が他人であり他者なのです。

 その他者と触れ合うことは、自分を辺境に置くことに他なりません。自分と異なる人、自分と異なる家族(親とはらから)、自分と異なるパートナー、自分と異なる土地、自分と異なる言葉、自分と異なる文化、自分と異なる性格や流儀、自分と異なる身振りや仕草や表情……。

 誰もが辺境にある。辺境にあるからこそ、関係が生まれる。

 辺境とは自分ではないでしょうか。辺境という自分の中に、外と内が混在している。個人的な思いですが、それだけが体感できる気がします。揺らいでいる限り、それが体感できる気がします。

 目を閉じれば、複数、いや多数の声が聞こえてきます。みんな外から来たものなのです。内はと言えば、死ぬまで体感できない謎のように思えます。言葉と言えない言葉だからでしょうか。内であるはずなのに。

 外から来たものたちだけが、内をあざ笑うように、明晰な風景として脳裏に映し出され、明瞭な声としてうつせみに響くばかりなのです。

夢の言葉、言葉の夢

 初めての辞書はどんなふうにして作られたのだろう。

 最近、よくそんなことを考えます。外国語と母語をつなぐ辞書。たとえば、英和辞典、和英辞典のように。あ、国語辞典を忘れてはなりません。古語辞典や漢和辞典も。

 想像するのは、外国語と母語をつなぐ辞書のない環境で、何らかの形で外国語を習得した人(習得しつつある人と言うべきでしょう)が、自分の中にあるその外国語と母語の知識を総動員して、「これはあれだ」「あれはこれとほぼ同じ」「これに似た言葉はないけど、あれで間に合わせようか」「さっき本を読んでいて思いついたけど、あれにはこの訳語をあてよう」なんて具合に、「自分の中にある辞書」(比喩です)を具体化していくというものです。

 素人の空想、いや妄想でしかないわけですが、そんなさまを勝手に思い描いていると幸せな気分になります。

 かつて翻訳家を志していたころに、変な言い方ですが「英英辞典」を使うようにと盛んに言われたことを思い出します。英文を読んでそれを日本語にするさいに、英和辞典という既成の訳語集にとらわれずに、なるべく自分の語感で訳せというのです。

 それでも訳語が浮かばなかったら、英語のネイティブスピーカーが使っている英語の辞典を引いて、それに相当する日本語を探る。専門用語や特殊な用語については、大きな英和辞典とか百科事典で調べる。大切なのはさまざまな分野の本を英語でも日本語でもたくさん読むこと。

 確かにそうです。正論だと思います。でも、大変ですよね。

 この記事を書くためにウィキペディアの解説を利用しながら、まだ〇和辞典も、和〇辞典もない時代に勉学し研究にいそしんでいた人たちのことを思いました。そういう人たちは上で述べたような方法を無意識に実践していたのかもしれません。

 二つの言語、外国語と母語、古い母語と今の母語、漢文と日本語、言葉の中にある言葉、言語の中にある言語――。異なる言葉のあいだに生きる。それは異なる言葉の境をこえた夢の言葉に身を置くような気がします。

 夢や夢うつつで何らかの言葉を話したり書いたりする。歳を取ってきたせいか、不思議な夢を見たり、日中に荒唐無稽で不可思議な夢想にふけることがありますが、そのさなかに言葉が浮かぶことがあります。

 その言葉は、私の場合だと日本語(和語と漢語と方言)であったり英語であったりフランス語であったり、あるいは何語なのか分からなかったりするのですが、そうした夢の中の言葉がひょっとして言葉の夢ではないかと思う瞬間があります。つまり、私が言葉の夢を見ているのではなく、言葉が私の中で夢を見ているのではないか、と。

 そんなときの私は縁(ふち)にいます。辺境にいるのです。きっと私自身が縁なのでしょう。

 あの夢の言葉は、言葉の夢ではないか――。