ジャンルを壊す、ジャンルが壊れる

ジャンル嫌い、ストーリー嫌い

 ジャンルぎらい。これはあるように思います。私のことです。あるレッテルでくくられるのが好きではありません。くくるのも苦手です。

 これまでの人生においても、くくられるのが嫌で、はみ出し、ずっと端っこにいました。隅っこ暮らしが長いのですが、このまま終わりそうです。

 ストーリーぎらい。というよりも、ストーリーが苦手なんだと思います。童話にしろ漫画にしろテレビドラマにしろ映画にしろ小説にしろ、そのストーリーを語れるものがひとつもないのです。誇張やレトリックではありません。

 ですから、小説なんか一度まばらに読んだものを、まだらにながめています。ところどころに好きな文字や文字列があるので、順不同でそこだけを見ているのです。いい気持ちになります。読むというより見ているのですから、こうなるともう顔をながめているのと同じです。文章は字面が命。

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 小説を書こうとしているのですけど、悩むのがジャンルとストーリーです。何でも書いていいのが小説だという言い方があります。勇気づけられる言葉ですが、それでもジャンルとストーリーが要求されそうで腰がひけます。

 いま「腰がひける」と書きました。これは一種の熟語のようです。決まり文句や紋切り型ともいいます。「および腰」「尻込み」もそんな感じがする言い方です。「気後れ」はニュートラルなほうでしょうか。よく分かりません。

 型や定型やパターンというのは言葉をつかう以上、避けられません。絵や音楽でもそうでしょう。ある型やジャンルがあって、初めて創作が成立するのかもしれません。先行する作品を真似ることで、そのジャンルが熟していくのでしょう。

 ほら、読まないと詠めないというじゃありませんか。話が飛んで、ごめんなさい。

「らしさ」「っぽさ」がジャンルを成立させている

 春が来た。水が来た。そして少女はきれいになった。

 でたらめに並べた言葉ですが、どこかで見聞きしたような気がしませんか。たしかにそうなんです。寄せ集めなのです。引用ともいいます。これを詩だと言えば、詩に見えてきます。エッセイだと言えばそんな気もします。小説の一節だと言えば、なるほどと思ってしまいそうです。

 詩っぽい、エッセイっぽい、小説っぽいの「っぽい」、これが大切ですね。「〇〇らしさ」の「らしさ」や「〇〇っぽさ」の「っぽさ」がそのジャンルを成立させているのではないか、なんて最近よく考えます。じっさい、「〇〇」はそっちのけで、「らしさ」と「っぽさ」ばかりが議論されているじゃありませんか。化粧法をめぐっての議論に似ています。

 春が来た。水が来た。そして少女はきれいになった。

 詩であれば、現代詩、自由詩、自由律なんとか、散文詩、ポエムなんてレッテルや自称がありますが、上の三つのセンテンスを並べて、これがいま挙げた自称他称のどれだと言っても、なるほどと思ってしまう自分がいます。

 さらに言うと、小説であれば、ミステリー、本格探偵小説、ラノベ、純文学、私小説メタフィクションというふうに、いろいろ自称他称なさっていますが、上の三つのセンテンスが、そのジャンルの小説の一部であると言われると、「ははあ」と納得してしまいそうです。

雑誌に連載された小説、新聞に連載された小説

 川端康成の長編ではゆるやかな連作めいたつながりで書かれたものが多いと言われます。いまでこそ一つの本にまとめられていますが、各章の発表された時期に隔たりがあったり、最初に掲載された文芸誌に異同があったりします。

 新聞に毎日掲載される形で章を積みあげていく長編の書き方をしていた夏目漱石とは異なりますが、この違いは大きいでしょう。両作家がそれぞれいだいていたテーマや資質や、経済的事情(意外とこれのせいらしいです)の違いとも大いに関係がありそうですね。

 川端の「長編」を読んでみると、たしかにそれぞれの章が独立した小説として読める気がしないでもありません。登場人物が同じで、前に発表された章のストーリーを読んでいなくてもなんとなく読めてしまうのです。

 いいなあ、と思います。

パソコンで執筆してネットで公開される作品

 小説の場合には、第一稿がどんな媒体で書かれたかによって作品全体の形式と文体が異なる気がします。

 現在はパソコンに向かって執筆したり、ネット上で公開する形態の小説――私がいちばん多様性を感じるのは小説ではなく詩ですけど――が多いようです。

 具体的に言うと、作品を公開する場が、小説投稿サイトか、ブログか、noteか、Twitterかによって、言葉遣いだけでなく、約物の使い方やレイアウトの自由度という形で顕著な差異と多様性が認められます。

 何らかの縁や機会が与えられ文芸誌に掲載され、のちに単行本や文庫という形で印刷される作品と、ネットだけで公開されている(電子書籍だけという出版形態も含めていいでしょう)作品とのあいだに違いがあるとすれば、その違いは編集者や校正者――編集ソフトや校正ソフトではありません(これはきわめて大切な点です)――の目や手を経たか経ていないかから来ていると私には感じられます。

 この違い――違いだけでなく対立に発展する可能性もあるでしょう――はこれからますます顕在化していくようにも思えてなりません。小説や詩、およびさらに細分化された――ミステリーやエンターテインメントや純文学、現代詩やポエムや自由律なんとかというふうに――ジャンルの名称がそのまま存続しながら、中身と外見が多様化したり変質していくという意味です。紙の本系の編集者や校正者が不在の形で、ネット上での創作活動が盛んになっているからにほかなりません。

 話を変えます。

小説を壊す、小説が壊れる

 古井由吉藤枝静男は小説というジャンルを壊そうとした書き手だったと私は受けとめています。

 古井由吉は律儀に壊し、藤枝静男は恩師に遠慮しながら書いているうちに壊れていったという気がします。とにかく壊したのです。だから、両作家の作品に惹かれるのだと思います。

崩壊

 古井由吉の場合には、作家となるまでに大学でドイツ文学とドイツ語を教えていた経歴がその後の作家活動を左右したように思われます。

 とりわけヘルマン・ブロッホとロベルト・ムージルについての論考(『日常の"変身"』(作品社)所収)を読むと、古井がなぜあのような読みにくくて不思議な小説を書いていったのが自分なりに納得できる気がするのです。

 いわば小説を「壊した」、ドイツ語で書いた二人の作家の軌跡を律儀になぞるような小説を書いていったという印象を受けるという意味です。

 言い換えると、古井の出発点には、ドイツ語で書かれた「崩壊」をはらむ一連の小説の読解(そして、おそらくその翻訳にかかわったこと)があったと考えられます。

 論理体系の崩壊は、人が事物をあらたな眼で眺めるときに起るのではない。むしろ、論理体系が崩れ去ったそのとき、人ははじめて事物をあらたな眼で眺めるようになる。つまり、論理体系の崩壊はあたらしい現実との触れあいによって惹き起こされるのではなくて、論理独自の領域のうちにおいて、論理が無限性の問題にゆきあたるとき始まるのである。これは論理体系の崩壊という現象に関するブロッポの基本的な考えであった。
 すなわち、それは自己分解でなくてはならない。

古井由吉ヘルマン・ブロッホウェルギリウスの死」」pp.165-166『日常の"変身"』(作品社)所収)

 以上の文章の最後のセンテンスには注の番号が振ってあり、この箇所はヘルマン・ブロッホによる「価値の崩壊」という文書を参照したもようです。

 私は古井の小説を読んでいて行きづまると、この「「ヘルマン・ブロッホウェルギリウスの死」」によく目を通しますが、古井の作品(たとえば『杳子』や『仮往生伝試文』や『野川』)への良いガイドになってくれる気がします。

崩れ

 藤枝静男は、作品の中でやたらとその作品について言い訳をするのですが、そこにたいてい瀧井孝作の名が出てくるので――たとえば『虚懐』『空気頭』『風景小説』――、思わずにっこりしてしまう自分がいます。

「また叱られそうですが、こんなのを書いてしまったのです……」と言いたげな、恩師に対する気兼ねなのでしょうか。なかなか可愛い面があるのです。

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 さきほどは、藤枝静男は恩師に遠慮しながら書いているうちに壊れていったという気がすると書きましたが、その一方で私小説を次第に崩していった果敢な作家という相反するイメージも持っています。

 自他と時空が錯綜した世界を描く『田紳有楽』を読み、それ以前の藤枝の諸作品に出て来る事物や風景のコラージュのような作りに「なるほど」と得心した記憶があります。藤枝静男という作家の内的な必然を感じたのです。

『田紳有楽』では、「私」という一人称の語り手――池の底に住むグイ呑みであったり、弥勒菩薩の化身であったり、柿の蔕と呼ばれている抹茶茶碗であったり、本名は滓見白という丼鉢であったりします――が、あたかも目だけ、あるいは意識だけになって、懐かしい藤枝的風土を漂い、さまよいます。

 さまよいながら、藤枝ワールドに出てきたさまざまな物や生き物や想像物と交流を重ねるのですが、そもそも藤枝の諸作品では常に語り手や登場人物がさまよい歩きます。さまようことこそが藤枝静男における「私」の身振りなのです。

 荒唐無稽だと言われることの多い『田紳有楽』ですが、むしろ藤枝静男の「私小説」群にしっくり収まっていると言えるでしょう。

 生と死、彼我(自他)、物と心、世界と自分、空想と現実、こことかなた、現在と過去――そうした対となる要素の境を取り払った上での、「私」の小説という意味での私小説であり心境小説なのです。

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 短編集『欣求浄土』の最後の掌編である『一家団欒』には、登場人物が意識だけの存在になってふわふわと漂いながら一族の墓場に赴く記述があるのですが、『田紳有楽』の前奏だったように思えてなりません。

 また、藤枝が『空気頭』で試みた飛躍は、私小説作家を自認し自称していた藤枝にとっては内的必然であったと私は理解しています。

「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う。」と藤枝は『空気頭』の冒頭で述べ、続けて次のように書いています。

 私は、ひとりで考えて、私小説にはふたとおりあると思っている。そのひとつは、瀧井氏が云われたとおり、自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、(中略) もうひとつの私小説というのは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちのうえでも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組み立てて、(中略)
 私自身は、今までこの後者の方を書いてきた、しかし無論ほんとうは前のようなものを書きたい慾望のほうが強いから、これからそれを試みてみたいと思うのである。(後略)

藤枝静男『田紳有楽 空気頭』講談社学芸文庫 pp.143-144)

 そう書きながら、藤枝は『空気頭』において従来の私小説から逸脱し、その型を壊していくでのです。あっけらかんと。

 この引用部分で、藤枝が逆説を述べているとか、まして冗談を言っているのだとは思いません。藤枝は小説に対して律儀なのです。内的必然を言葉にしただけです。たぶん。

とりとめのないものにこだわる

 古井の場合も藤枝の場合も、自分の書いてきたジャンルを壊すというのは、私にはいさぎよい行為に感じられてなりません。尊敬します。

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 要するに、私はとりとめのないものが好きで、たとえとりとめがあったとしても、そこにとりとめのなさを勝手に感じたり、勝手に求めてしまう、そういうことだと理解しています。

 こういうのは思いこみとか自己暗示なのでしょうが、ジャンルや型を成立させている根っこにも、これと似た心理がある気がします。そう思う、そう信じる、そう決める。ひとりでは無理ですが、同調する人が集まると、幻想は社会的な運動になります。

 いずれにせよ、とりとめのないものにこだわっているかぎり、ジャンルやストーリーには近づけないみたいです。

ゆるやかに章がつながっている連作

 ゆるやかにつながる長めの小説を書いてみたいという気持が私には根強くあります。

 長編とまではいかなくても、そこそこの長さのある小説を構築するだけの構想力すらないと見限ったころに、川端康成のいわば連歌形式(比喩です)の連作を見習おうとしたことがありました(そういえば初めて書いた小説もこの形式でした)。とりとめなさを勝手に感じたからです。

 いきなり新作を書くのもしんどいので、そうやってできた長めの旧作を加筆してみようなどと姑息なことを考えています。

 一編一編が独立した掌編として読めて、それを合わせるとそこそこの長さの小説になる。欲を言うと、どこで終わってもいいし、どこから読んでもいい――。そんなのあるわけがないのは承知のうえで、やってみます。

 そう思う、そう信じる、そう決める。ひとりでやっています。

「らしさ」と「っぽさ」はビクともしない

 じつは、以上は、だいぶ前に書いた文章なのです。

 いまは考えが変わっていまして、小説というジャンルを自分なりに壊してみたいなんて身の程知らずな(これまでに何も達成していないくせに、という意味です)ことを考えています。

 ゆるやかにつながる長めの小説とか、一編一編が独立した掌編として読めて、それを合わせるとそこそこの長さの小説なんて自分には無理だと分かってきたのです。

 年も年ですし、持病もいい方向にむかっていないので、構成とかジャンルは気にしないで、好きなように書いていくつもりです。ここで書いている文章が、そうなのです。

 ひとりでやっています。ひとりで壊していきます(同時にというか並行して自分も壊れていきますけど)。隅っこで。とはいえ、ジャンル(もちろん「らしさ」と「っぽさ」のことです)はビクともしません。崩れ壊れていくのは自分だけなのです。