目まいのする読書
目まいのする読書
目の前に三冊の本を置いて、同時には無理ですから、それぞれをつまみ食いするようにして読んでいるのですが、さすがに目がまわってきます。あちこち視線を移動させるせいか、読んでいて頭の中がこんがらがるせいか、目まいに似た感覚に襲われます。
本物の目まいは不快だし苦しいですが、目まいに似た感覚はときとして快感である気がします。
現在読んでいるのは小説で、次のような場面で始まります。
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主人公であるトムがあとをつけられていると感じる。相手はさっきまでいた酒場にいた男だ。トムは通りを小走りに進み、少し考えたのちに通りを横断して馴染みの飲み屋に入る。バーテンダーにジントニックを注文し、様子をうかがうトム。彼は警察を恐れている。そこに例の男が現われる。
さあ、来たぞ。男は見まわし見まわして、彼を見ると、すぐに目をそらせた。むぎわら帽を脱ぐと、カウンターの隅をまわったところに腰をおろした。
いったいなんのつもりなんだろう? まさか変質者じゃあるまいが。トムはもう一度考えなおした。考えあぐんだ彼の頭は、やっとこの言葉を探り当てたのだ。この言葉が彼を守ってくれるような気がした。なぜならば、変質者なら警官よりもまだましだからだ。変質者だったらあっさり「ノー・サンキュー」と言って、ちょっとほほえんで、立ち去ればそれですむ。トムはスツールにすわりなおして、身体をひきしめた。
(p.4・太文字は引用者による)
変な話ですよね。酒場にいるんですから、このトムという男性は成人でしょうね。それが警察に追われているのではないかと不安になっている。ここまでは理解できます。でも、「変質者」にあとをつけられているほうが、「警官」よりまだましだ、とは。「変質者」ですよ。いったい、トムはどんな人なのでしょう。
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読んでいる三冊のうちの、別の一冊から引用します。上で紹介したのと同じ場面なのですが、実はある小説の二種類の翻訳を原文といっしょに読み比べていたのです。
そのもう一冊の訳文を見てみましょう。
さあ、やってきた。男は店内を見まわし、彼の姿を認めると、すぐに視線をそらした。カンカン帽をぬぎ、カウンターがカーブしているむこう側に席をとった。
一体、どういうつもりなんだ? まさかゲイじゃないだろうな、とトムはもう一度考えた。さんざん考えた末に、言葉で身が守れるかのように、この言葉を思いついたのだった。彼としては、警官よりもゲイであってほしかったのだ。ゲイなら、「いや、結構」とひとこと言って、笑みをうかべ、立ちさることができるだろう。トムは気を引きしめ、腰かけている尻をうしろにずらせた。
(p.6・太文字は引用者による)
なるほど、ですよね。これなら、トムの心理がすんなり理解できるのではないでしょうか。あとをつけてきた男がゲイであれば、断ればいい。警察官ならやっかいなことになる。というわけです。
ちょっと整理しますね。
私はこの作品をかなり前に読んだのですが、詳細を忘れているので読みかえそうと考え、書棚に二種類の邦訳とその原著があったので(翻訳家を志していた頃の名残です)読み比べていた。その三冊を交互に読んでいるうちに頭がくらくらしてしまった。そういう次第なのです。
Here he came. The man looked around, saw him and immediately looked away. He removed his straw hat, and took a place around the curve of the bar.
My God, what did he want? He certainly wasn't a pervert, Tom thought for the second time, though now his tortured brain groped and produced the actual word, as if the word could protect him, because he would rather the man be a pervert than a policeman. To a pervert, he could simply say, 'No, thank you,' and smile walk away. Tom slid back on the stool, bracing himself.
("The Talented Mr. Ripley" by Patricia Highsmith (Vintage) pp.5-6・太文字は引用者による)
原著「The Talented Mr. Ripley」(1955年)では、「変質者」と「ゲイ」に当たる単語は pervert となっていて、最初の pervert は斜体字で表記されています。英語では何らかの理由で強調や注意をうながす場合に斜体字になるので、日本語の感覚では「 」でくくる感じではないでしょうか。
日本語だと「変質者」のほかに「変態」という訳語が複数の英和辞典に載っている単語です。いずれにせよ、変質者とは 、まさに「一体、どういうつもりなんだ?」ですよね。
20年で変わる社会と言葉遣い
でも、必ずしも訳者が悪いわけではありません。訳者の責任とは言いがたい事情があるのです。
*原著:
「The Talented Mr. Ripley」(1955年)
*一番目の邦訳:
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』青田勝訳・角川文庫 1971年、 のち「リプリー」と改題。
*二番目の邦訳:
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』佐宗鈴夫訳・河出文庫 1993年、のち「リプリー」と改題。
このように日本語訳が出版された年に開きがあります。1971年と1993年では、言葉遣いが変わって当然なのです。さすがに現在では、上のような小説の文脈で「変質者」という訳語は許されないでしょう。
なお、新訳を手掛けた佐宗鈴夫さんは英仏両語からの邦訳で優れたお仕事をなさっている方で、エルヴェ・ギベールの『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(集英社)の訳者でもあります。
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なお、一番目の邦訳では、p.130に「同性愛者」という言葉も使われています。これは原著p.86のfairiesに対する訳語ですが、冒頭での「変質者」を「同性愛者」とすれば、読みはじめたばかりの読者も首を傾げることはなかったにちがいありません。残念です。
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別の作品を挙げてみます。
1985年に出版されたウィリアム・S・バロウズ(William S. Burroughs)著の"Queer"という小説がありますが、1988年に邦訳(山形浩生・柳下毅一郎訳)が出たさいには『おかま』というタイトルでした。
queerを「おかま」と訳したわけです。残念ながら、この原著と邦訳を読み比べたことはありません。
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なお、パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい(リプリー)』の続編である『リプリーをまねた少年』を柿沼瑛子さんが訳していらっしゃるのですが、そこに興味深い箇所があるので引用させてください。
「ねえ、ベン」マルクをポケットに突っ込みながらトムは少年にいった。「ここで、もう一日過ごしたら、そろそろ考えた方がいいよ――家に戻ることを」トムは駅の内部を一瞥した。ここは詐欺師、盗品売買者、同性愛者、ポン引き、薬物常用者等々、得体の知れない連中の集まる格好の場所だった。彼は話しながらも足を止めずに、早くここから出ようとした。この、ぶらついている連中の誰かが何らかの拍子に、彼と少年に関心を抱かないとも限らない。
(『リプリーをまねた少年』柿沼瑛子訳・河出文庫・1996年 p.198・太字は引用者による)
この原作の初版が出版されたのは1980年で、作品の舞台はドイツなのですが、「同性愛者」といっしょに並べられている言葉を見ると、この作品が執筆された当時の社会が浮き彫りにされている気がします。文字を眺めているとおどろおどろしいですね。
原著では「同性愛者」は「gay(s)」となっています。
'You know, Ben,' Tom said as he pocketed his marks, 'one more day here, and you have to think about - home, maybe?' Tom had cast an eye about the Bahnhof interior, meeting place for hustlers, fences, gays, pimps, drug addicts and God knew what. He walked as he spoke, wanting to get out of the place, in case one of the loitering people, for some reason, might be interested in him and the boy.
(”The Boy Who Followed Ripley” by Patricia Highsmith (Vintage Crime/Black Lizard) 1993 p.117・太字は引用者による)
言葉はつねに過渡期にある
あちこち参照して目がまわってきたかもしれません。申し訳ありません。
ここまでを、まとめますね。
日本語の推移を見たいので、日本での邦訳の出版の順に並べてあります。
*原著(1985年出版):queer
*邦訳(1988年出版):おかま
*原著(1955年出版): pervert、fairy
*邦訳(1971年出版):変質者、同性愛者
*邦訳(1993年出版):ゲイ
*原著(1980年出版):gay(s)
*邦訳(1996年出版):同性愛者
こういうのは、本来ならたくさんの資料に基づいて言語学的なリサーチをおこなうべきなのでしょう。ここではただ「目まいのする読書」のついでにやっていることなので、まことに粗雑で安易なやり方をしていますが、ご勘弁ください。
ちなみに上で紹介した柿沼瑛子さんが共著者として名前を連ねている『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』(白夜書房)が出版されたのが1993年です。タイトルに「ゲイ」が使われています。とてもいい本なのですが現在は入手困難みたいです。
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もう一冊(正確には二冊ですが)から引用させてください。比較対照するだけですので。
参照するのは以下の二冊で、日本語で書かれた小説とその英訳です。
*『コインロッカー・ベイビーズ』村上龍著・1980年出版・講談社
*『(新装版)英文版 コインロッカー・ベイビーズ』(講談社インターナショナル)Stephen Snyder訳・1995年出版
1980年は、上で見たパトリシア・ハイスミス作の『リプリーをまねた少年』の原著が出版された年であり、1995年はその邦訳が日本で出た年の前年に当たります。英日と日英で翻訳は真逆ですが、時期的にほぼ同じです。
(前略)早熟な友人に、ホモが子供を作れるやろか? と質問した。友人はこう答えた。ホモだって精液はあるんだし、自分がホモだってことを世間に隠すために結婚してどんどん子供を作る場合があるって何かで読んだな、(後略)
(村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』上・講談社文庫(旧版)p.170)
"Can homos have children?" he asked.
"Sure, why not? They've got sperm like everybody else, and plenty of them don't let on they're queer and get married and have children and everything.” [...]
(新装版)英文版 コインロッカー・ベイビーズ(講談社インターナショナル)Stephen Snyder訳 pp.140-141)
引用が大変なので、以下は簡単に済ませますね。
*オカマの店員は(p.182)
*the manager, an older gay man(p.150)
*あの変質者に感謝すべきなのか?(p.211)
*for which he had to thank ... a pervert?(p.177)
上の場面では、主人公の一人のハシが、かつて少年の頃に公衆トイレで男の浮浪者に性的虐待を受けたことを回想しています。ゲイを変質者と呼んでいるわけではないので、記事の冒頭で挙げたハイスミスの原文に見られる同性愛者を意味する「pervert」と邦訳の「変質者」という言葉のペアとは文脈が異なります。
まさに「時代によって言葉が変わる」の証左と言えそうですね。
言葉は常に過渡期にあるのではないでしょうか。というか、過渡期にあってこそ、言葉は生きているのです。変わらなくなった時、言葉は死んでいるのかもしれません。
*「僕、オカマやめたの」(p.215)
*"I don't do men any more,"(p.179)
上の例を見ると、英語では名詞ではなく動詞的に処理していますが、日本語の「もう男(と)はやらない」というのと似ていますね。なるほど。勉強になります。
こうやって日本語と英語を行き来していると、いい意味での目まい感を覚えます。
対訳での読書には、似ているものたち――似ているもの同士と言うべきかもしれません――のあいだで揺れる楽しみがあります。「似ている」や「そっくり」が大好きな私は、こういう目まいをともなう遊戯に憑かれているようです。
対訳で読み、日本語を鍛える
かつて日本文学の英訳を見ながら、それを日本語にする練習をしていたことがあります。翻訳家を志していた頃の話です。文章修行のつもりでやっていました。大学生の頃に東京の翻訳家養成学校にも通っていたのですが、そこで教えていらっしゃった高橋泰邦先生から習った方法なのです。
高橋先生は川端康成の『雪国』とその英訳(エドワード・G・サイデンステッカー氏の訳業です)の二冊をテキストにして、英訳を生徒に自分の力で訳させ、さらにそれを川端の原文と比べさせて、川端のすごさを知り、その文章の秘密をさぐるというユニークな勉強法を提唱なさっていたのです。
『雪国』の冒頭を暗唱なさっている人は多いでしょうが、いったんそれを忘れて、以下のサイデンステッカー訳を日本語にしてみてはいかがでしょう。それを原文と比べると、ひょっとすると日本語観が変わるかもしれませんよ。当時大学生だった私には衝撃的な経験でした。
ただし、原文はあくまでも参考であり、到達点であっても正解ではないので誤解なさらないようにお願いします。
この小説の英訳は今でも入手しやすいようなので、お買い求めになっても決して損にはならないと思います。分厚くなく値段も手頃です。海外からの(あるいは海外に住む)お友達へのプレゼントにも最適です。何しろ、世界に誇る日本文学の名作の翻訳ですから。
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.
The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his ears.
("Snow Country" by Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker, Charles E. Tuttle Company, pp.3-4)
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その学校では、高橋泰邦先生の他に、常盤新平、柳瀬尚紀、中村能三(なかむらよしみ)というそうそうたる翻訳家が講師陣として名を連ねていました。ノーゾウさん(中村能三氏の愛称)について、興味深い話を思い出しました。
たくさんのお弟子さんがいたノーゾウさんは、よくお弟子さんに下訳をさせていらっしゃいましたが、その下訳のチェックがユニークなのです。原稿には目を通さず、お弟子さんに音読させるのです。
黙って聞いているノーゾウさんが「そこ、そこはおかしいから原文で確かめてみなさい」と突然言う。するとお弟子さんが、その場で原文と自分のつくった訳文を比べて、「実はこの部分は自信がなかったのです」とか「確かに今読んでみると誤訳しています」と答える。
こういうエピソードなのですが、推測するに、日本語で辻褄が合っていなかったり日本語として変だったら、そこは誤訳の可能性が高いとノーゾウさんは経験的に知っていたに違いありません。恐ろしい人でした。
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私が名訳と言われる日本語訳の本とその原著の両方を持っていたり、日本の小説とその英訳を揃えているのは、上記の理由があるからなのです。
日本の小説の英訳を読みながら原文の日本語を再現しようとしたことがあります。翻訳家を志していたころに文章修行のつもりでやっていました。いちばんよくやったのが、『英文版 コインロッカー・ベイビーズ』を使っての逆翻訳です。
好きな部分を段落ごとに英語から日本語に訳していって原文と対照するのですが、その度に村上龍の描写力に驚嘆して自分の力不足に意気消沈したのを覚えています。この小説の文章は私にとって、いまも行き詰まった時に参照する規範であり続けています。
みなさんもお好きな日本の作家の英訳で試してみませんか。一冊まるごとやると大変なので、好きな箇所だけやるのがコツです。大げさな言い方になりますが、言語観や日本語観が変わりますよ。たとえば「村上春樹 英訳」みたいに検索すると、英語訳のリストにたどり着けます。
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一つ指摘しておきたい大切なことがあります。
文学作品における日本語から英語への翻訳は、その逆つまり英語から日本語への訳とくらべて、比較的自由におこなわれています。語弊のある言い方ですが、日本の出版界であれば意訳とか大意とか翻案と言われてもおかしくない柔軟性がみとめられます。
ですから、日本文学の英訳を自分なりに日本語の文章にする場合には、原文の日本語と照らしあわせて、その違いにがっかりする必要は必ずしもありません。比較することでいい意味で刺激になり、自分の文章を見直すきっかけになれば、それでいいと考えましょう。謙虚な気持ちが大切なことは言うまでもありませんけど。
翻訳も「似ている」を作る作業です。翻訳において「同じ」はありえません。あくまでも「似ている」のです。似ているは目まい感をもたらします。似ているがいくつもあると、目まい感どころか目まいにみまわれそうな気分になるので要注意です。
上で複数の翻訳を見くらべた、いまの私がそうです。何ごともやり過ぎは禁物ですね。
とはいうものの、翻訳という作業は、「目まい」の状態のまま――原文、数種類の辞書、たくさんの資料、そして自分の訳文のあいだを行ったり来たり――少なくとも一日数時間は過ごさなければなりません。それが数か月、場合によっては一年以上続くのです。重労働です。
翻訳の修行はしましたが、軟弱な私には無理でした。
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英語と日本語を行き来していて軽い目まいを覚え少し休んでいるうちに、武田泰淳の『目まいのする散歩』を読みたくなりました。口述筆記された作品だということが妙に頭に残っています。二階にあるので取りに行きます。
恥ずかしながら武田泰淳の作品はほとんど読んだことがありません。中公文庫版の『目まいのする散歩』の解説を担当しているのが後藤明生なので(旧版ではそうでしたが改版では作品の解説がありません)、買って以前に読んだのです。あの目まいを誘うような前衛的な作風の『夢語り』と『挟み撃ち』を書いた後藤明生です。
「似ている」→「似る・似せる・真似る」→「なりきる」→「なりかわる」
パトリシア・ハイスミスの小説 The Talented Mr. Ripley については、近いうちに記事にするつもりです。この小説を原作とした映画は邦訳と同じく二つのタイトルで二種類あります。興味を持たれた方は、小説でも映画でもいいので、ぜひお楽しみください。いい意味での目まい感のある作品です。
ここでは、アラン・ドロンがトム・リプリーを演じ、ルネ・クレマンが監督した「太陽がいっぱい(Plein Soleil)」を紹介します。
長時間じっとしていられないために映画を見るのが苦手な私は、短時間で見られる映画のトレーラー(予告編)が大好きなのですが、数種類あるトレーラーでは以下の動画がいちばん「まとめ」的で面白かったです。
「似ている」→「似る・似せる・真似る」→「なりきる」→「なりかわる」という、この作品のスリリングなテーマがよく分かる作りになっています。
とりわけ好きなのは、アラン・ドロンが鏡にへばりつき唇を寄せるシーン(動画では0:40から始まります)と、筆跡を真似る有名な場面(2:17)です。
以下は、他人に「似る・似せる・真似る」と「なりきる」を超えて「なりかわる」(偽造も出てきます)身振りに的を絞った編集の珍しい動画です。何度見てもわくわくします。
拡大された署名をアラン・ドロンがなぞるシーン(2:40)はとりわけ象徴的です。活字ではなく本人がペンでなぞった(書いた)文字を偽者がなぞる。その身振りは愛撫にも見えます。
誰を愛撫するのかといえば自分なのです。むしろ、なろうしている自分というべきでしょう。
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パトリシア・ハイスミスは、この映画の原作「The Talented Mr. Ripley (1955年):邦訳『太陽がいっぱい』」の続編として「Ripley Under Ground (1970年):邦訳『贋作』」(この邦訳のタイトルは絶妙ですね)を書くことになるのですが、それを予言しているかのようです。さらには、「The Boy Who Followed Ripley (1980年):邦訳『リプリーをまねた少年』」も書かれます。
「似ている」と「似る」という身振りに幻惑されている私には目まいを覚えるほど好きな場面です。