樹影、言影、幻影

かげ、影、陰

 かげという言葉が好きです。「かげ、カゲ、影、陰、蔭、翳、景」という字面をみているだけで、気が遠くなりそうになります。

 呼びさまされるイメージに圧倒されるのでしょうか、息が苦しくなり収拾がつかなくなるので、深呼吸をして心を静めます。

 寝入り際に、かげについて思いをめぐらすことがあるのですが、そんなときには幸せな気分になります。

 昨夜は、影と陰にについて考えていました。

 大きな木の下を夢想しながら、かげについて考えていたのです。それを思いだしながら、文字にしてみます。

言葉のかたち

 木の陰で木の影について思いをめぐらしていたのです。夢うつつの中での話です。

 まず影と陰の違いを見てみましょう。影と陰の使い分けは、例文で見るのがいちばんです。以下の例文は私が作文したものです。

 葉の落ちた地面に、木が影を落としている。

 庭の池に木の影が映っている。

 散歩の途中に木の陰で一休みした。

 犬が木陰で身を横たえている。

 影は光をさえぎってできる、あるいは水や鏡に映った形や姿です。一方の陰は、日の当たっていない場所です。

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 かげが影と陰という言葉で分かれているというよりも、かげの使い分けが漢字の使い分けにあらわれている気がします。

 まず現実での体験があって、言葉は後という意味です。言葉から現実に入る人は、まずいないでしょう。

 言葉、とりわけ文字は後付けです。理屈なのです。分けなくてもいいものを分けているのか、分けるべきだから分かれているのか。分かりません。

 私は研究者でも探求者でもありません。ただ言葉が好きなだけです。言葉の不思議さに取り憑かれているだけです。

 こうやって言葉に付きあってもらっているだけで満足しています。

記憶の風景、記憶のかたち

 昨夜の寝入り際の夢うつつの中で浮かんだ景色を、いま思いえがいています。

 言葉にしてみます。

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 草原を歩いていると、遠くに大きな木が見えた。近づいてみると、木のそばには池がある。草の生えた地面に木がくっきりとした影を落としている。

 池には、その大きな木の先端の影が映っている。草で被われた地面に落ちている木の影が伸びて、水面に映る木の影につながっているように見えなくもない。

 どうなっているのだろうと興味を覚え、歩を進めて木の陰の中に入った。地面に映った木の影が池に映った影と重なっている。

 不思議な気持ちでそのさまに見入っていると、そばで何かが動いた気配がしてぎくりとした。

 木の陰で身をひそめていたのか、猫がこちらを見ている。灰色っぽい毛の痩せた猫だ。

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 この後に、寝入った記憶があります。昨夜と今朝の夢では影も陰も出てこなかった気がします。

写生と描写

 以上の作文は、昨夜の寝際に浮かんだ風景を思いだしながら作ったものですが、読みかえしてみると、その嘘っぽさに恥ずかしくなります。

 記憶を頼りに何かを思いえがいたり、ましてやそれを言葉にすることの困難を実感しただけでなく、そこまでして言葉にしようとする自分の執念にたじろいでしまったのです。

 影と陰について意識的になっているために取って付けたような作文になっています。いかにも作りものっぽいのです。

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 文章を書くという行為は、ふつう室内でおこなわれます。私の場合には自宅の居間でパソコンを使って書くのが習慣になっています。

 何かを、あるいは何らかの風景を見ながら、その場でノートやメモ帳にペンで書くとか、スマホに文字を入力して書くというのは想像しにくいです。

 書くことを職業としている人なら、現場で取材メモを取るでしょう。いわば言葉によるデッサンでしょう。でも、清書するのは帰ってからの屋内だと思います。

 俳句や短歌や短い詩の場合には、その場で言葉を口にして、何かに書きとめたりすることは十分に考えられます。俳句だとそのまま、作品になるのかもしれません。

 写生という言葉が、明治になって俳句の関係者たちの間で口にされるようになったのは、分かりやすい展開だと言えるでしょう。

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 絵画と文章を同列に扱うことはできませんが、デッサン、素描、写生、描写という共通の言葉で論じることは多いです。私もやっています。

 文章の場合に話を限れば、その場で文字にして、以後手を加えないという写生は、きわめて稀な出来事だと思います。俳句くらいのものでしょうか。

 デッサン、素描はあるでしょうが、後で清書することになります。さらには推敲もあるでしょう。

 小説、エッセイ、新聞や雑誌の記事、ブログという形で、私たちが読む文章は、現場で撮られた写真とは異なり、現場から持ち帰ったメモや記憶を元にして描かれた絵に近いと言えます。

描写、なぞる

 描写は、写す、映す、移す、撮すと言うより、事物や風景そのものではなく、その影をなぞっているのです。見て写す、つまり写生とは、次元が異なっているとも言えます。

 描写は事物を描き写すのではなく、むしろ事物の影をなぞることではないでしょうか。見なくても描写できます。現場にいなくても描写は可能だし、じっさいにそういう創作がおこなわれています。

 だから、見たことがない事物でも描写できるのです。

(意外に思われるかもしれませんが、『夢十夜』を書いたときの夏目漱石は、このことにきわめて意識的であった節があります。夢日記の形を取りながらも、あの作品が夢の再現では断じてないからです。細部に見られる優れた描写に目を注げば一目瞭然なのです。)

 その意味で、なぞるという行為は、必ずしも対象を見ているわけではありません。

 むしろ、影(言葉のことです)そのものの世界に入ってのいとなみなのです。影には影の文法があるようです。現実とは異なる文法にしたがって描かれるし書かれるのです。

 絵を描いているとき、もはや対象から離れて、絵を成りたたせている素材と細部、そして絵を描くための道具の「論理」と「文法」にしたがって描かれるのと似ています。

 影は自立しているとも言えます。

 影には影の論理と文法があるのです。影をよく見てください。その現物とされているものとの類似は驚くほど少ないのです。「似ている」はあくまでも印象なのです。

 類似や対応や関係性は、想像力と空想力の産物です。

言葉の影、言葉というまぼろし

 木の影と似た言い方に樹影があります。木の影と木の陰だけでなく、木の姿という意味もあるようです。

 樹齢二百年という、そのいちょうの樹影がピラミッドに見えた。

 即席に作った文ですが、こんな使い方ができそうです。

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 木という生き物、その木の姿である樹影、その木に日の光が当たって地面に移る影、その木にさえぎられてできる陰。そうした「かげ」たちは、木そのものではありません。

 言葉は、それが指ししめしたり、名指す事物そのものではありません。その意味で、かげに似ている気がします。いわば言影です。勝手に作った言葉ですが、ことかげとか、ことえいとでも読みましょうか。

 言葉には姿があります。文字のことです。文字は形であり姿ですが、文字には音(おん)も、語義も意味もイメージもあります。

 音と意味とイメージは目に見えません。それなのに、音と意味とイメージには大きな存在感があります。

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 音と意味とイメージは、まるで文字の影のようですが、そんなことはなく、むしろ音が先で、文字は後付けなのです。まず話し言葉があって、書き言葉が出てきたのはずっと後のことだと言われています。

 それなのに、目に見える形としてある文字はいかにも偉そうに見えます。人は目に見えるものに信を置きます。一方で、目に見えないものに畏怖の念をいだくことがあります。

 言葉は目に見えるものでありながら、目に見えないものでもあります。具象と抽象を兼ねそなえているという言い方もできるでしょう。

 だから、人の外にあって、人の中に入ったり出たりできるのです。

 不思議ですね。謎です。考えれば考えるほど不思議でなりません。

複写、複製、印影、拡散

 まるでまぼろしのようです。幻影のようです。見ているようで見えていない。見えていないようで見える。

 まぼろしは見るものではなく、なぞるものではないでしょうか。なぞるのであれば、目をつむってもできそうです。

 なぞることなら、日向もなく陰もない、したがって影もない闇の中でもできそうです。

 なぞることなら、生きていない物でもできるのです。

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 見ていなくても、闇の中でも、描写はできます。無生物も、描写ができます。

 まぼろしまぼろしも描けるのです。まぼろしまぼろしを描くこともできるのです。

  まぼろしをなぞる。さらに言うなら、なぞるをなぞる。要するに、なぞをなぞる。

 これは、人の外にある出来事であって、人の中に入ったり出たりすることがあっても、つまり人がなぞることはあっても、外そのものなのです。

「外にある外である」とはニュートラルで非人称的なものとも言えるでしょう。

 だから、機械やAIにも文章が書けるのです。書いていると、書いているように見えるのさかいはないのです。さかいがあるのは人においてだけであり、さかいは外にはないのです。

 たぶん、あらゆるさかいがそうなのでしょう。さかいは人が決めるものです。だから、線引きをめぐっての争いが跡を絶ちません。

 さかいはありません。少なくとも外にはありません。分類、名前、国境、階層、序列といったものは人の頭のなかにしかないという意味です。

外にある線をなぞる

 人は自分で勝手に引いた線をなぞっているだけだとも言えそうです。自分が引いたはずの線が「外にある外である」のは皮肉ではないでしょうか。これは線が自立しているからに他なりません。

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「外にある外である」とはニュートラルで非人称的なものとも言えるでしょう。

 これは、いま始まったことではありません。写本、写経、印刷の時代から起きている出来事なのです。

(人が文字をなぞり写すのは、線からなる文字が外にあるからです。内にあれば、わざわざ苦労して写しません。)

 そして、複写。コピー(印影と呼びたいです)、複製。さらには、現在のコピーのコピー、複製=拡散が起きているのは、同じ理由でそうなっていると言えそうです。

 いまや、「写す」と「なぞる」は人の手に負えないものになり、人は振りまわされています。いや、これもいま始まったことではないでしょう。

 影が外にある外であるという話は、人が言葉を持ったときに始まったにちがいありません。