視覚は体感を裏切り、裏切るという形で体を導いている

 パソコンではマウスやフラットポイントを手や指や腕をつかって動かし、スマホでは指を画面にすべらせる。基本的には円を描く動きが多い気がします。というか、指を走らせて何かをえんえんと回しているのです。

 ゲームでは指でコントローラーをいじっているようですが(これも基本的に回していませんか?)、自分ではやったことがありません。ゲームは人生だけで十分なのです。

 人の手のひらや指は脳と直結した神経や「センサー」が集まっている場所だと言われています。そう考えると機械や機器をコントールする装置を操作するために、手と指がつかわれるのは理にかなった選択だと感心します。

 なるべくしてそうなっているのでしょう。

 手や腕の微妙な動きが機械の動きに連なるという点では、車の運転にも似ている気がします。自動車では車輪の形をしたハンドル(wheel)を操作して四つの車輪(wheel)が動くようです。

 長方形の車の前面に円柱状のローラーを付けたなら、道路にそってとてつもなく長く伸びた長方形が描けそうです。しかもその長い長方形には緩急さまざまなカーブもあるのです。

     *

 円、円柱、球、長方形、直方体、直線、曲線、点、線、面。

 図形や図形を成りたたせている要素がつぎつぎと変換され、それに応じて動きの有り様が移りかわるさまを想像すると、目まいを覚えます。時間の経過にともなう、形と動きの反復と変容と変奏は、映画に似ています。

 映画は図形や図形を成りたたせている要素を体感させる魔法です。人はたぶんこの体感に嗜癖(依存)しています。めちゃくちゃ気持ちがいいからやめられないという意味です。

 長方形の車体が、長方形の組み合わせである道路を前方へとすべっていく。前方に進みながら、ときにはかなり急なカーブを進む。ヘアピンカーブでは数秒前と逆の方向に走ることもある。

 曲線を細かく見ていくと直線になるとかいう学校で習った話を思いだします。円もそうでしたっけ? 地球の地平線や水平線を考えるとそうかもしれません。体感ではそんな気がします。

 体感と知識の食いちがいに唖然としないではいられません。とくに図形や図形を成りたたせている要素は、体感を裏切って自然界や宇宙に存在している気がします。その意味では抽象なのかもしれません。

 図形は体感できるものではなく頭で理解するものなのではないか、という意味です。その意味で、視覚は体感を裏切り、裏切るという形で体を導いている気がします。「ちがう、そうじゃないよ」というふうに。

 視覚が抽象への扉に思えてきました。

     *

 抽象は頭で理解するものでさえない気がしてきました。たぶん、頭でも体でも分けられない、つまり分からないのです。その有り様をイメージするしかないというか。イメージとは隔靴掻痒な遠隔操作にほかなりません。ままならず、もどかしいけど、これしか、なぞり描く方法はないという意味です。

 抽象を、算数や数学で出てくる図形や図形を成りたたせている要素に代表させて考えてみます。たとえば、自然界ではめったに肉眼では見られない、整然とした形の、円、円柱、球、正方形、立方体、長方形、直方体、直線、曲線、点、線、面のことです。

 人のつくる、つまり人工の産物である整然とは、不自然であり反不自然ではないかと思えるくらいです。無駄なく切りそがれ整いすぎているのです。

 人のつくるもの(たとえばスーパーに並ぶ商品やパソコンや車)や、つくったものをつかっての動き(たとえばスーパーに並ぶ商品やパソコンや車をもちいての身振りや動き)は、上記の整然とした図形や図形を成りたたせている要素に満ちていますが、ふつうそれは意識されません。

 抽象とは、人の目をすり抜けるもので、見ているのにそれだとは気づかなかったり、何か分けられない、つまり分からないままに見ているものである気がします。

 いま書いた文を読みかえすと、当たり前のことを言っています。目に見えないはずのものである抽象が、見えないし分からないと言っているのです。見えないものが見えない、なんてがっかりするしかない、身も蓋もない話をしているわけです。

 とはいうものの、見えないもの、つまり抽象が見えないということを、頭で理解するのではなく、体感できるのかどうかというと、話は別です。ややこしい話になります。

     *

 上で述べた「当たり前のことを言っています」とは、頭で理解した上での、理屈というか論理というか、言葉での辻褄合わせの話なのです。私には「当り前」と「なぞ」が同義に思えてなりません。

「当り前」とは「分からない」の言い換えなのかもしれません。 どちらも大差が無いという意味です。途方にくれて手をこまねき、婉曲に「分からない」と言っているのです。少なくとも私の場合にはそうです。

 現実界(そんなものがあればの話ですけど)と言葉の世界(そんなものがあればの話ですけど)に食い違いがないという前提に立っていれば、「見えないもの、つまり抽象が見えない」は当然であり、見方を変えれば騙り、つまりペテンということになります。

 一方で、言葉は現実と食い違っていて対応していないというのもまた、誰が語ってても騙りになるという理屈になります。言葉は人が想定しているよりも欠陥品であるからです。欠陥品に完璧を望むほうが、土台無理な話であり不合理だという意味です。

     *

 パソコンではマウスやフラットポイントを手や指や腕をつかって動かし、スマホでは指を画面にすべらせる。ゲームでは指でコントローラーをいじっているようです。

 手や腕の微妙な動きが機械の動きに連なるという点では、車の運転にも似ている気がします。自動車では車輪の形をしたハンドル(wheel)を操作して四つの車輪(wheel)が動くようです。

 長方形の車体が、長方形の組み合わせである道路を前方へとすべっていく。前方に進みながら、ときにはかなり急なカーブを進む。ヘアピンカーブでは数秒前と逆の方向に走ることもある。

 長方形の車の前面に円柱状のローラーを付けたなら、道路にそってとてつもなく長く伸びた長方形が描けそうです。しかもその長い長方形には緩急さまざまなカーブもあるのです。

 円、円柱、球、長方形、直方体、直線、曲線、点、線、面。

 図形や図形を成りたたせている要素がつぎつぎと変換され、それに応じて動きの有り様が移りかわるさまを想像すると、目まいを覚えます。

     *

 人の手のひらや指は脳と直結した神経や「センサー」が集まっている場所だと言われています。そう考えると機械や機器をコントールする装置を操作するために、手と指がつかわれるのは理にかなった選択だと感心します。

 筆やペンだけでなく、パソコンやスマホで文字を書くさいに、手と指がつかわれているのは興味深いですが、書いているときに、文字の形を意識するでしょうか。たぶん、ほぼ無意識に書いていると思いますが、これは学習の結果です。

 文字は具象である点や線から成りたっているのに、それを意識していると邪魔になります。文字が形に見える状態で、文字を書くことはできても、文は書けないという意味です。文字と文は異なる次元にあるからです。数字と数(すう・かず)も同じでしょう。

 文字を文として(言葉として)書いているときには、人は具象と抽象のさかい目にいるのではないでしょうか。それは読んでいるときにもそうだという気がします。

 文書を書くだけに限らず、パソコンやスマホを操作しているとき、ゲームをしているとき、車の運転をしているとき、映画を見ているとき、テレビを見ているとき、スポーツをしているとき……。

 そういうときの人は、具象と抽象の境目、あるいは具象と抽象という分け方を中傷し愚笑するような場で動いているのかもしれません。

     *

 たぶん、人は自分が知らずに思いの中でつくってしまった抽象を、具象としてとらえて利用しているのです。ただし、利用しているさいには、抽象対具象という分け方は意味を成しません。抽象だからです。

 そのさいには視覚が先導しています。脳と体を導いているのです。「こっちだよ、こうするんだよ」と視覚が導くと、脳と体が「え?」とか「……」というふうにわけも分からず動く。

 視覚は動けないから、指示するだけ。そんなイメージです。

 視覚は動けない代わりに抽象を察知するのに適した知覚なのです。ただし、察知された抽象は、人の脳と体においては具体的に動かなければなりません。これが具象とも言えます。言えるだけです。

※ここでは「言える」という話をしていて、「である」という物語はしていません。言葉をつかっている以上、「言える」としか言えないのは論理的な帰結かと思われます(ただし論理的が論理的であったり正しかったりする保証はありません)。

 具象とは動詞であり、抽象は名詞だ、という抽象でお話をつくることもできるでしょう。いわゆる捏造のことです。

 ここでの「動く」とは誤魔化しがきかない「物理的な」ものをイメージしています。いましているのは、あくまでもイメージの話なのです。科学とか客観とか普遍という言葉とそのイメージや物語とは無縁です。そんなたいそうな話が、この書き手にできるわけがありません。

 なにしろ、語るは騙るしかないという前提でお話をしているのです。

     *

 太古から、手や指や手のひらをもちいて、癒やすとか、治癒するとか、相手の気持ちを静めるとか、相手の気を引くとか言われているのを思いだします。具体的には、かざす、なでる、こする、あてる、おす、つねる、ひっかく、たたく、という身振りです。

 こうした身振りは、いまでも日常的に体感なさっているにちがいありません。

 目と手(たぶん足も)は体感という働きにおいて端末のような役割を果たしているのかもしれませんね。

 動くが動くではなくなる瞬間や持続した時間、これが体感だとすれば、その中では、抽象と具象とがまじりあって、絶妙な働きをしているのではないか。そんなイメージを持ちます。難しい話ではありません。歩行や自転車に乗るとか泳ぐ場合を思いだしてください。私はかなづちですけど。

 思いだす、思いうかべる、思いえがく、思いをめぐらす。

 イメージという隔靴掻痒きわまる遠隔操作でしかとらえられない話のようです。言葉という、これまた隔靴掻痒きわまる遠隔操作よりは、体感にわずかでも近いかな、なんて具合に語り騙るしかないようです。

 人は動きをとらえるのがめちゃくちゃ苦手なようです。だからこそ、それを補おうとして、ここまでいろいろな補助具をつくったとしか考えられません。皮肉ではなく、これはすごいことだと思います。

 補助具とは、たとえば、指先でこちょこちょ回したり、手でいじったり回したりして――円運動を直線や曲線に変換している気がしてなりません、その動きをえんえんと繰りかえせば、静止したまま進まなくてもえんえんと進めるからでしょう、たぶんアナログ時計の動きと時間の進み方の関係と同じです――、外部にある動きを連動させる仕組みや、見えない動きをとりあえず自分の都合に合わせて見えるようにする仕組みのことです。

 あっさり書きましたけど、すごい仕組みだと感心します。恐ろしいくらい。

 見えるは見えないでもあり、人は目に映っているものを見ているわけではない、という「当り前」のお話でした。