一人でいるべき場所

 このところ、夜になるとやって来る女性がいます。枕元に立つのです。顔はよく見えないのですけど。というのは、半分冗談です。神仏のたぐいは信じていませんし、超常現象とか神秘体験みたいなことはほとんど無縁で生きてきました。でも、半分冗談ですから、半分は本当なのです。

 夜な夜なやって来るのは、書きかけで放置してある小説の登場人物です。長い間温めているにもかかわらず、なかなか完成できない小説がいくつかありますが、そのうちの一編の主人公さんなのです。その人とはそれほど長い付き合いではありません。お付き合いを始めて二年くらいになります。

 いい人です。何しろ分身みたいな存在ですから。いろいろ知ってはいるのですが、不明な部分も多いです。書きかけの作品中の人物は、そんなものです。私の場合には。生い立ちや性格や生活ぶりまで詳しく知っているわけではありません。書きながら発見していくみたいな部分もあります。

レイモンド・カーヴァー作『隣人』

 アパートかマンションに住んでいる夫婦の話。廊下を隔てた隣人である夫婦が長期の旅行に出ることになり、その留守中にペットと室内の植木の世話を頼まれる。鍵を預かり数部屋から成る住まいに入って、言われた通りに猫に餌をやり植木に水をやる。それだけならいい。それだけでは済まないのだ――。

 何が妙なのかというと、隣人夫婦から留守番を頼まれたこの夫婦ときたら、やたらと性的な興奮を覚えるようになる、つまり催すのです。お隣の夫婦の住まいでですよ。変といえば変、分かるような気がするといえば分かるような気がするのですが、いずれにせよ妙な話であることは変わりません。

 レイモンド・カーヴァーの『隣人』(村上春樹訳)という掌編はかなり切り詰めた文章でつづってあります。あれだけ削ぎ落とした文章にすると、読者は自分で補って読むようになります。行間を読んだり、イメージを勝手に膨らませるわけです。

 噂話や人づてに聞く簡潔な話でもそうです。聞く側は補って話を膨らます傾向があります。尾ひれとは、そんなふうにしてついていきます。「書く」と「読む」、「話す」と「聞く」は共同作業なのです。それが次の「書く」と「読む」、「話す」と「聞く」につながっていくのです。

        *

 カーヴァーの『隣人』は短いながら読む度に何らかの発見があります。私なんか、それが楽しみで読んでいるくらいです。先日読んでおやっと思ったのは、向かいの住まいの留守番を頼まれた夫婦が、その隣人宅に入る時には別々に入り、二人で一緒に入ったり、明らかにその中に居ることはない――あるいは書かれていない――ことでした。

 一箇所だけ、微妙なシーンがあります。

「あなたもう一時間以上もここにいるのよ」
「そんなに?」
「そんなによ」
(※引用はすべて『頼むから静かにしてくれ (THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 1) 』村上春樹訳(中央公論社刊)による。)

 いま引用した部分で「ここに」と妻が言うのですが、この会話がどこで行われているかは明確には書かれていません。何しろこの作品には省略が多いのです。後の展開や表現からして、私には「ここ」は隣人宅の中ではなく玄関の外のドアの前に思えます(原文に当たらず、あくまでも翻訳を対象にしていることをお断りします)。

(……)彼は新聞を読み、テレビをつけた。それからもう我慢できなくなって廊下の向かい側に行ってみた。ドアには鍵がかかっていた。
「俺だけど、まだそこにいるの?」と彼は呼んでみた。
 少し間を置いてドアが開き、アーリーンが外に出てきてドアを閉めた。「そんなに長くここにいたかしら?」
「うん、ずいぶん」

 上の場面でも、夫ビルと妻アーリーンの二人はドアの前で会話し、まもなく廊下を隔てた自宅に入ります。向かいの住まいのドアの前に二人がいる場面はあっても一緒には入らないし、最後まで二人一緒には入れないのです。あ、ネタバレしそうになりました。

        *

 この作品において、ビルとアーリーンそれぞれが一人で向かいの家に入り、そこで内部をあちこち物色したり他人の私物をいじっているうちに性的な興奮を覚え催してくる。それから、そそくさと我が家に帰ってパートナーと交わる。そんな一連の行動を一度ではなく何度も取っていることに初めて気づいたのです。

 私が連想したのはトイレです。私はこの夫婦が隣人宅に入る行為がトイレに入る行為に見えてならないのです。一般論として、トイレとお風呂が一緒になったバスルームでさえ、用を足すさいには一人で入るのが普通ではないでしょうか。そもそも排泄は通常一人でする行為です。

 隣人宅のベッドルームに入り込んだビルの行動を見てみましょう。

 彼はクローゼットを開けてアロハ・シャツを選んだ。(……)彼は自分の服を脱ぎ捨て、そのシャツとショーツを着込んだ。
(……)彼は一番上の引き出しを物色してパンティーとブラジャーをみつけた。彼はパンティーをはき、ブラジャーのホックをとめ、それからクローゼットを開けて上に着るものを探した。(……)

 次に、隣人宅のドアの前にいる――隣人宅内ではなくマンションにある二つの住まいを隔てる廊下(境目)にいるということです――二人の会話と行動です。

「ねえ、変なものよね、こんな風に他人の家に入るのって」と彼女は言った。
 彼は肯いてノブの上の彼女の手を取り、自分たちの家の方に導いた。そして二人で中に入った。
「変なもんだ」と彼が言った。
 彼は妻のセーターの背中に白い糸屑がついているのを目にとめた。そしてその頬は赤く染まっていた。彼は彼女の首筋にくちづけし、彼女も振り向いてキスを返した。

 ビルとアーリーンは、向かいの夫婦の家に「侵入」しておきながら、夫婦の間の一線(暗黙の一線ともいえるでしょう)は越えないのです。私にはとても興味深い心理であり行動に思えます。

 思いをめぐらしていますが、その行為を二人の間の「愛」とか「思いやり」という紋切り型で片づけたくはありません。そんなほんわかしたものではない気がします。あえていうなら官能的であり、どす黒いのです。

一人でいるべき場所

 性的関係を持つ夫婦であっても一人でいたい時があるでしょうし、夫婦や恋人同士でも家族間でも言いたくないことや見られて恥ずかしい行為はあるし、まして他人には絶対に見られたくない仕草や行為があるのではないでしょうか。たとえそれが誰もがやっている行為であっても、です。

 たとえば、トイレは一人になれる数少ない場所の一つではないでしょうか。排泄だけの場とは言えません。家庭、学校、職場、施設、公共施設といったところで、唯一ほっとできる場としてそこに逃れている人が多いと思われます。

 排泄に話を限ると、介助してもらわないと排泄ができない場合がありますね。母の晩年を思い出します。想像するだけですが、恥ずかしさはもちろん、申し訳なさ、悔しさ、わびしさ、悲しみ、屈辱、向ける対象のない怒り……そんな感情をいだいていたにちがいありません。胸がいっぱいになります。

     *

 話を戻します。

 二人であるいは複数で入ってはいけない場所がある。

 基本的に一人でいるべき場所がある。

 タブー。禁忌。サンクチュアリ。聖域。プライベートパーツ。プラーベートな場所。

 そうした場所に二人で、あるいは複数で入ろうとする、つまり一線を越える(または越えようとすると)と罰が当たる――。

『隣人』は短編というよりも掌編と呼ぶにふさわしい、ごく短い小説なのですが、いろいろな読みができる希有な作品だといえそうです。少なくとも私にはそうです。

 小説を書く習慣のある者には、汲めど尽きせぬ泉のような小説といっても過言ではありません。あれだけ短いのに、です。あれだけ、愛想のないぶっきらぼうな文体なのに、です。

 いや、短くて、ぶっきらぼうだからこそ、なのかもしれません。削ぎ落としてあるゆえに、読む者は書かれていないことを読み取ろうとするのです。これがカーヴァーの最大の魅力の一つだと私は思います。私みたいな妄想大好き人間にはたまらない作品なのです。

 ミニマリズムとかいう抽象的な用語で片づけたくありません。あくまでも具体的な読書体験として作品の細部に触れたいのです。その方がずっと気持ちがいいからに他なりません。

 素っ気なくぶっきらぼうな記述が、謎めいて感じられたり隠喩に思えてきたりすることがありますが、そういう現象を「象徴性を帯びる」というもっともらしい言い方でもてはやす場合もあります。

 しゃべりすぎる人よりも寡黙であったり朴訥な印象を与える人のほうが、「何か」があるように思えるのと似ていますね。

 書く側から言うと、書くことは可能だがあえて書かなくてもいいと思う部分を削ぎ落としてしまうと、果たして読む人が分かってくれるだろうかと不安になります。そんな心理が働いてついつい付け足してしまい、その結果収拾がつかなくなって未完のまま作品を放り出すことも珍しくありません。

 話を変えます。以下は拙作の草稿からの引用です。

草稿A

     〇

 トイレの水の流れる音が止まった。台所で隔てられた寝室の気配に耳を澄ます。何度か利用したホテルのトイレの様子がちらつく。どれも似たような作りだった。早くおうちに帰りたい、といつも思ったものだ。ここは自宅で帰る必要などないのに、トイレに閉じこもる癖は直らない。
 私はラブホテルを利用したことがない。人の話に出てくるラブホテルのトイレにはプライバシーというものがまるでない。ガラス張りであったり、音が丸聞こえであったり、鍵がなかったりする。信じられないどころか、いきどおりすら覚える。そんなことが許される世界が許せない。
 だから、誘われるたびに「普通のホテルじゃなきゃ嫌だ」と言い張り、決して譲らなかった。二十九歳で、付き合った男の数が五人。多いのか少ないのかわからない。一番長く続いたのが二週間。これは極端に短いにちがいない。
 男を家に入れたのは、これが初めてだ。寝室から出るときに見た彼は、背を向けて寝ていた。布団は別々に敷いてある。私が窓側、彼は押し入れの前。思った通り、何もしない人だ。いまのところは。午前一時になるのに。
 彼と歩きながら、私から肩を寄せたり体を接触することがある。こっちから手をつないでみたこともある。嫌がる様子は見られない。ただされるがまま。噂通りの人だった。
 私はそれでかまわない。話が合わないわけではないし、ご飯を食べる前にはちゃんと合掌する人だ。変人同士とか変態同士なんて人は言うけど、私に不満はない。

 ドアの通気口から冷たい空気が入ってくるのを感じて、私はトイレから飛び出した。ベランダに続く寝室の窓を開けられるのが大嫌いなのだ。外から入る埃とにおいが我慢できない。私が台所にいる間に裸足でベランダに出た友達を怒鳴りつけて大喧嘩になったことがあった。玄関の靴脱ぎに裸足で降りる人にも殺意を覚える。
 さいわい彼はベランダには出ていなかった。窓際にしゃがみ込んで、三分の一ほど開けた窓から外を眺めている。道端でプランターや鉢に植わった植物を見ながら、彼はよくこんな格好をする。めったに笑わない人だけど、そういう時には笑みを見せる。
「汚いベランダでしょ。洗濯物を干すこともないし、いつも締めっきりだから」
 彼の背中に向かって声をかける。
「こっちが南側だよね」
「そうよ、花でも育てようかな」
 思いもしない言葉が自分の口から出て驚く。
「これだけ広いんだもん、もったいなあって思って」
 彼は振り向かず、いつもの聞き取りにくい小さな声で言う。
「わたし、虫が大の苦手なんだけど、育てるの手伝ってくれる?」
 ああ、言ってしまった。はしゃいでいる自分を意識したとたん、顔が赤くなるのを感じる。
「もちろん手伝うけど……」
 よく手入れされた草木のある彼の家の庭を思い出す。
「けど?」
 彼の隣で同じようにしゃがみ込む。
「本当にいいの?」
「どうして聞くの?」
 いいよと素直に返事をしない自分の性格がいやらしい。
「何でもない」
 追求しないところが、この人らしいと思う。
「なんか目がさえちゃった。ベランダのお掃除でもしようか? もう遅いから、そっとね」
 もう私は歯止めがきかなくなっている。横を見ると、月明かりを浴びた彼の笑顔がある。

     〇

 以上は、夜になるとやって来る例の女性を語り手とした小説の草稿です。草稿ですから文章もストーリーの展開も流動的で、最終稿がどうなるかは分かりません。ただ短いものになるという予感はあります。

 余談ですが、私は「便所」という言葉が使えません。話し言葉でも、書き言葉でもです。この草稿でも「トイレ」と書いています。上で触れた村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーの『隣人』に、「「便所に行きたくなってさ」と彼は言った。」という文があるのですが、「便所」という訳語にどきりとする自分がいます。

「俺」が使えないのと似ています。小学生になっても、自分のことを「僕」と言えなくて、家では「Jちゃん」と言い、学校ではなるべく一人称単数の代名詞を使わなかったのとも似ている気がします。一人称を使うのをためらう傾向は、年老いた現在でも続いています。

 恐ろしいものです。いや、ひとさまから見ればきっと滑稽なのでしょう。友達がいないので聞いたことはありません。

 上の草稿の語り手である「私」にはモデルがいます。かつて母の仲の良かった女性の娘さんです。何度か会って話をしたことがありますが、好感の持てる素敵な女性でした。いま思い出すと「ひょっとして、あれだったのかな」と思うことがあります。

 母親同士が仲良しで、独身の子どもである男女をさかんに会わせたのだから「ひょっとして、あれは一種のお見合いではなかったのか」と、鈍い息子は母が亡くなっていない、いまになって想像するのですが困ったものです。

 私がその女性に会っていたころに母から聞いたのですが、その女性には離婚歴があって結婚してまもなく別れたというのです。「まもなく」がどれだけまもなくだったのか、正確には思い出せないのですが、数日だったような気がします。

 短すぎるとびっくりしたことだけが記憶にあるのです。母はその原因についても話してくれたのですが、それが頭の中に残っていて、上の小説の草稿に反映されていることは確かです。

 ここで、上の草稿とは別のバージョンを引用します。

草稿B

     〇

 午後十一時すぎ、里沙は団地の一室である自宅のトイレにいた。タンクの水が流れる音がようやくやみ、台所で隔てられた寝室の気配に耳を澄ました。
 頭の中でこれまでに利用したホテルのトイレの様子がカードをめくるようにパラパラと重なった。それぞれの場の細部はぼやけているが、共通するのは一つの感情だ。早くうちに帰りたい――。
 里沙はラブホテルを利用したことがない。排泄に対して強い羞恥心をいだいているからだ。人の話に出てくるラブホテルのトイレにはプライバシーがまるでない。ガラス張りであったり、音が丸聞こえだったり、鍵がなかったりするらしい。信じられないし、いきどおりすら覚える。だから、どんなに好きな男に誘われても、普通のホテルでなければ絶対に行かないと主張し、その点で譲ることは決してなかった。
 二十八歳までには恋愛も遊びもあったが、長く続いた関係はなかった。どの場合にも、ネックになったのはトイレ問題だった。
 里沙にとって排泄は人間の尊厳にかかわるきわめて私的な行為である。できれば、トイレに行くところを誰にも見られなくなかった。トイレにいることを誰にも悟られたくなかった。
 人間には一人でいるべき空間がある、と彼女はよく考える。寝床、風呂、鏡の前、ストレッチャー、病床、死の床、棺、安置室、火葬炉、墓。夢の中や心の中と同様に、そうした場所には誰も入ってほしくない。できれば一人でいたい。一人でいるのがいちばん楽、一人でいる時がいちばん幸せ。家や学校や社会で、トイレこそが彼女にとって一人でいられる場所であり、安らぎを得られる空間だった。
 男とホテルに入ってことが終わるたびに、里沙はトイレに閉じこもった。便座やバスタブの縁に腰かけてスマホをいじったり、壁やドアの模様や染みを眺めながら考えごとをしたり、壁に寄りかかってうとうとしながら帰る時間を待ったものだった。
 相手の意向にかかわらず、ホテルに行くことでその関係は終わった。トイレに閉じこもらなければならないことに、うんざりした。

 ドアを隔てて音がして、里沙は息を殺した。寝室と台所の間の引き戸が開く音だ。トイレのドアがノックされないことをひたすら祈る。さいわいなことに、床を踏む音もしないし近づいてくる気配もなかった。咳払いをしようと思ったところで、戸が閉まる音がした。ここはうちなのに――。彼女はため息を漏らした。
 その日、里沙は初めて男を家に入れたのだった。………

        〇

 引用したのは、さきほど紹介した「私」を語り手とする草稿とは別の、「里沙」を主人公とする草稿です。こちらのほうが説明が多いですね。もし書き上げたとすれば「私」バージョンよりもずっと長くなる気がします。

 削ぎ落とした文体で簡潔に書くか、冗漫になってもいいから説明を多くするか、そんなところで迷っています。掌編にするか、それとも短編にするか、です。モデルの女性が結婚してまもなく離婚した事情(母から聞いた話であり、真偽は不明なのですけど)が、詳細に反映されています。

 現在その女性は再婚して、同じ県ですが遠くに住んでいます。女の子が生まれて、その子はもう成人式を迎えるくらいの年齢になっているはずです。女性がどう暮らしているのかまでは知らないのですが、そうした経緯があるために小説が書き終えられないのかもしれません。

 それなのに、夜になると例の女性がやって来るのはどういうことなのでしょう。問題は私にあるにちがいありません。この記事を書くことで草稿の文供養をするつもりでしたが、気が変わりました。精進します。