「似ている」の魅惑

「ワンパターン」は褒め言葉

 語弊はありますが「ワンパターン」は褒め言葉だと思います。いま頭にあるのは、水戸黄門笑点ではありません。

 ユーミン、みゆき、サザン、陽水、小室の楽曲は聞いて何となく分かるとか、スティーヴン・キング 、みゆき、漱石、龍 、春樹の小説には同じような場面や人物が繰り返し出てくるとか、ニナガワ演出のお芝居は見てすぐに分かったとか、スピルバーグ節とかヒッチコック調とか、マイコーの踊りはワンパターンだったとかいう言葉をよく見聞きします。

 これらは最高の褒め言葉ではないでしょうか。ファンはアーティスト固有のスタイルに惚れ込んでいます。イメージチェンジや急激な進化はリスクを負うのです。

 多くの人に長く愛される作品やその作り手には、パターンとか文体とか文法とか流儀とか芸風、あるいは刻印がある。そう言えるような気がします。そういうパターンがファンに見過ごされる場合もある一方で、熱狂的なファンでなければ分からない場合もあるとも言えそうです。

 たとえば、ユーミン、みゆき、サザン、陽水、小室の曲は雰囲気が似ているから聴いて何となく分かるといった現象は、どちらかと言うとそのアーティストに興味や関心のない人によって感知される気がします。一方、ファンはどれも微妙に違うとかぜんぜん違うと主張します。好きなアーティストの曲を聞き込んでいるので細部に詳しいからでしょう。

 それに対し、スティーヴン・キング 、みゆき、漱石、龍 、春樹の小説には同じような場面や人物が繰り返し出てくるといった言葉は、同じ作家による作品をかなり読み込んだ人でなければ、吐けないセリフかもしれません。以上は、あくまでも個人の意見です。

作家が書くときの癖

 私は音楽には詳しくないので、小説に話を絞ります。

 作家には書く時の癖があるようです。とくに小説の場合なのですが、ある作家の作品を読むと同じような場所が出てくるとか、似た登場人物が繰り返し出てくると感じることがよくあります。また、ある種の物とか、登場人物の仕草が特定の作家の小説に頻出することがあります。

 たとえば、宮部みゆきの小説の中では、実によく雨が降ります。短編でも長編でもです。水浸し、川の氾濫、暴風雨、台風――といった形で、頻繁に雨や水が出てきます。大雪の中で事件が起きる長編もあります。ファンの方は、ああ、あれだと心当たりがあるにちがいありません。火や炎も、よく登場しますね。

 宮部みゆきスティーヴン・キングの熱狂的なファンを自称していますが、キングと宮部の作品には共通点が見られます。雨や雪や液体(もちろん水と血液も含みます)と、火と、少年( あるいは「少女」とされながら説話的な要素としては「少年」の機能を果たしている登場人物)です。キングの場合には、子ども、特に男児にいたずらをする性的虐待者がよく出てきます。

 宮部とキングにおいては、雨や雪や液体(水や血)が降ると物語が始動する、つまり物語のスイッチが入るのです。またキングにおいては、性的虐待者や不審者が現われることでストーリーの展開が促される、あれっと声を上げるほど急に調子が出てきたのを感じる場合があります。嬉々として書いているのではないかと思うほどです。

 あとキングの作品では、「眠る」または「横たわる」(睡眠や不眠だけでなく、仮死や拉致監禁や意識不明を含みます)という身ぶりが、ストーリー・テリングを始動し促す重要な触媒になっているものがあります。

 宮部みゆきスティーヴン・キングの古い作品は、いまも書棚や押し入れ内の段ボール箱に入っています。かつてはよく読みました。元気があったからです。未読の作品も積ん読になっています。何しろ長いものが多いので、もう読むことはないと思います。

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 宮部やキングはページターナー、つまりページをめくるのがもどかしいほどの面白い読み物の書き手ですが、似通った場面や状況や登場人物を繰り返し書きながらも、次作を心待ちにする読者が多数いるのは興味深いことです。ワンパターンと非難する人もいるでしょうが、これだけ広く愛されているのですから、決まったパターンには中毒性があるのかもしれません。

 似たようなものが繰り返されることに安心感を覚えるという心理は分かる気がします。音楽には詳しくないのですが、楽曲においては反復と変奏が大きな役割を果たし、同じ旋律やテーマが繰り返されたり、形を少し変えて出ることによって、聴く人が快感を覚えるという話を聞いた覚えがあります。

 これもまた詳しくないというかまったく経験がないことなのですけど、幼い子どもに本を読み聞かせる際に、親や保育士さんが子どものためを思って話を変えると、子どもが不機嫌になったり、眠りそうになっていたのに目をぱっちり開けて「ちがうよ」と抗議すると聞いたこともあります。

繰り返し出てくる光景や身振り

 夜寝入る時や夜中に目が覚めた時に、頭に浮かぶ断片的な心象にも反復と変奏を感じます。宮部みゆきの小説に何度も出てきた覚えのある公園や、川と堤防のある風景。キングの小説に繰り返し出てくる豪雨と洪水に見舞われた街の様子。

 角田光代の小説に頻出する、引越しの前後の雑然と物や段ボール箱やゴミ袋が散らばって置かれた部屋。吉田修一の小説でしょっちゅう流れる汗。やはり吉田修一の小説にやたら出てくる、上階の窓やベランダから車の流れる通りを見下ろす仕草。病室のベッドに身動きが取れない状態でいて、音を頼りに病院内外の様子にあれこれ想像をめぐらすという、古井由吉の諸作品におけるオブセッションじみた描写。

 こうした繰り返し訪れてくる風景やイメージは毎回微妙に変化しているように感じられます。見る見るうちに様相が変化する場合も珍しくありません。

 そんなシーンや状況の出所を作家名を挙げてたどっているのは、この文章を昼間に書いているからに他なりません。夜中にあっては、こうした心象はいわば匿名的なシーンや風景として断片的に浮かんできます。ああ、これは誰々のあの小説のシーンだなんて考えません。そういう無名ともいえる視覚的なイメージが浮かんでは消えるのです。

 テーマに文章が擬態して(私にはよくあるのです)、似たような記述が増えてきたので(このままでは収拾がつかなくなりそうです)、話を吉田修一の小説に絞ります。

他人の家に入る

 吉田修一の小説では、他人の家に入るという身振りが繰り返し出てきます(それにつられて私も連日その身振りについて書いています)。反復というよりも変奏というのがふさわしい気がします。他人の家に入るという行為は、レイモンド・カーヴァーの掌編および短編でも頻出する設定でありシチュエーションだといえるでしょう。

 吉田修一の長編小説『パレード』は、小説を書く習慣のある人にとっては興味深い作品ではないかと思います。内容はもちろんですが、その形式が面白いのです。登場人物の書き分けも見事で勉強になります。実は、この小説には驚愕の結末があるのですが、他人の家に入るという行為に的を絞っている限りはネタバレを恐れる必要はなさそうなので解説してみますね。

『パレード』は五話に分かれていて、それぞれの話で異なった語り手が一人称で語るという形式を取っています。第一話では「ぼく」、第二話では「私」、第三話では「私」、第四話では「おれ」、第五話では「俺」が語るという具合です。あっさり書きましたが、文体のレベルでも個性という意味でのキャラクターのレベルでも、異なる話者を書き分けるのは至難の業です。

 この五話の舞台は同じで(マンションで共同生活を送っているのです)、語り手の違うそれぞれの話に同じ人物たちが登場して全体のストーリーを形成します。五人の心の内を覗いているような気分になりぞくぞくするのは、かなり赤裸々に一人称で語られているからでしょう。

 そう、「覗いている感」がこの小説の魅力だと思います。また、ある人物を別の人物の視点で語るという構成は人間が多面的な存在であることを思い出させてくれます。はっとする箇所が多々あります。その「はっとする」のMAXが小説全体のクライマックス(驚愕の結末)になりますが、ネタバレになるので詳しくは書けません。

 吉田修一は小説の作りが巧みだし、語りがうまいですね。

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『パレード』では第三話がいちばん好きです。「小窪サトル(18歳)自称「夜のお仕事」に勤務」が「おれ」という一人称代名詞で語るのですが、このサトルには特定の寝泊まりする場所がありません。いわゆる住所不定無職なのです。吉田修一の作品では、こうした居所が定まらない人物が頻出します。

 不謹慎な発言になるのを覚悟で書きますが、私にはそういう居場所が不安定な人間に対する憧れがあります。実生活では引きこもっているからでしょう。居場所に関していえば、引きこもりは究極の絶対「安定」なのです。だから、吉田修一の作品に出てくる「ふらふらした身振り」に惹かれるのかもしれません。

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「小窪サトル(18歳)自称「夜のお仕事」に勤務」が語る話には、すべてとは言いませんが、吉田修一の諸作品に頻出するテーマや身振りや物や風景や状況が詰まっているという気がしてなりません。そう感じさせるこの話の細部を列挙してみます。

・実家を出ている。

・他人家に入る。不法侵入であったり、主の酔った勢いでそこへ連れて行かれたり、公園で拾われて「お仕事」をするために部屋に連れて行かれたり、ほぼ居候として居着いたりする。

・公園へ行く。ぶらぶらしたり、客(男)を取るためだったりする。
・他人の家の窓から外を眺める。窓から渋滞した道路を見下ろす。
・他人の部屋の中にある物を無断でいじる。部屋の中で飲み食いする。部屋の主に食べ物や飲み物をもらう場合もあれば、留守宅で勝手にそこにある物を口にしたり、外で買ってきた物を食べることもある。

 こう並べてみると、殺伐としていますね。でも、それが吉田修一ワールドの一部なのです。こうした仕草や身振りが頻出するのが、吉田の作品群で時折見られる風景なのです。危ういし物悲しい風景ですが、その風景に引きこまれる私がいます。

 吉田修一の小説で繰り返される「他人の家に入る」は、呼ばれて遊びに行くだけでなく、いきなり訪ねるとか、間借り、居候、留守番、不法侵入という形を取ります(こう書いていて、やっぱりカーヴァーを連想します)。そうした行為が頻出する『パレード』を書いた吉田が後にミステリーや犯罪小説を書くようになったのは理解しやすい展開だといえるでしょう。初期の作品を読むと、その素地は十分にあるということですね。

 吉田修一の犯罪小説で私がいちばん好きな『怒り』の冒頭では「他人の家に入る」行為が犯罪、しかも凶悪犯罪として描かれます。また全編を通して上に列挙した身振りが頻出し、汗も随所で吹き出します。ああ、あれだ、ああ、これだという具合に既視感の氾濫に見舞われると言えば、言い過ぎかもしれませんが、私にはそう感じられます。

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 他人の家に足を踏み入れた瞬間に、その家独特の匂いがしたり、自分の住まいとは違う湿度を感じたり、何か見てはいけないものと出会う予感がしてどぎまぎすることがないでしょうか。

 私の場合には、思わず身構えている自分がいます。緊張するのです。なぜか、後ろめたい気もします。店や公共の施設に入るのとは違った気持ちがするとすれば、それは私たちの遠い祖先が感じていたであろう、他人のテリトリーを侵犯する際のスリルに似た感覚が呼び覚まされ、刺激されるからではないでしょうか。こうなると、スリルと言うよりも、恐れや警戒心と言うほうが適切かもしれません。

 もちろん、人それぞれですから、今お話ししているのはあくまでも私個人の意見です。

 恐れや警戒心というのは、まず皮膚的な感覚として生じる気がします。気配というやつです。さきほど侵犯という言葉を使いましたが、侵も犯も「おかす」という大和言葉に当てた漢字です。「おかす」は「侵す、犯す、冒す」と書き分けることができます。

 一方、「他人の家に入る」の「入る・はいる」では、次のような連想が頭のなかを駆けめぐります。

 はいる、入る、這入る、はいいる、這い入る。はう、這う、延う、匍う、はらばう、腹這う。匍匐。いる、入る。要る。射る。煎る、炒る、熬る。率る、将る。鋳る。熟る。

共振する身振り

『パレード』に話を戻しましょう。

 なるべく皺がつかないように、ユウコのベッドに寝転がった。(後略)
吉田修一『パレード』幻冬舎文庫p.197)

 この場面で、「小窪サトル(18歳)自称「夜のお仕事」に勤務」は、見知らぬ女性の後をつけ、その女性が出かけた住まいに不法侵入し、ベッドに寝転がり、そこで何と自慰行為におよぶのです。おかす、侵す、犯す、冒すという言葉の分光が、頭の中で起こります。

 サトルが語る『パレード』の第四話は、不気味で興味深い細部に満ちています(何しろ、お客だった「ある男」からの又聞きという形で、ピエール・リヴィエールとおぼしき人物の話が出てくるのです)。

 吉田の他の作品、そして吉田が読んだり観たと思われる他の作家の文学作品や映画作品との共振度もすぐれて高いといえます。つまり、ああ、あれだ、ああ、これだの連続であり、ぞくぞくするのです。息切れがするほどです。

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 話がきわどくなってきたので変えますね。

 吉田修一の複数の小説から、食べるという差し障りのない身振りの出てくる箇所を見てみましょう。場所はもちろん、他人の住まいです。

 おそらく各部屋の物色後、男は台所で時間を過ごしている。里佳子がこの日スーパーで買って来たライ麦の食パンを四枚食べ、冷蔵庫にあったハム、カップ入りのとうふそうめん、マンゴー三個をたいらげており、リビングのソファで横になったと推測される。
吉田修一『怒り』上・中央公論社p.6)

 閻魔ちゃんは、それからもシチューを煮込んでいるが、もう鼻唄は歌っていない。
 リビングのソファで、シチューができるのを待っていると、急に熱い風呂に入りたくなった。ぼくはビデオを置いて浴室へ行った。風呂蓋を開けると、きのうの夜の残り湯が、冷たくなっていた。(後略)
吉田修一最後の息子』文春文庫p.23)

 リビングのソファで毛布に包まり、琴ちゃんが焼いてくれたワッフルに苺ジャムを塗っていると、いつもより少し遅く起き出してきた直輝が、「サトル、お前、きょう、俺の会社でバイトする気ないか?」と訊いてきた。
 もちろんなかったので、「ない」と答えて、熱いワッフルに齧りついた。(後略)
吉田修一『パレード』幻冬舎文庫p.200)

 肝臓やら心臓やらグロテスクな素描ばかり見ていたせいか、味の濃いものを食べたくなり、台所へ向かって開けた冷蔵庫にローマイヤのスモークサーモンがあって、欲していた味ではなかったが、フランスパンに挟み黒胡椒をかけて食べた。
吉田修一パーク・ライフ』文春文庫p.39)

 人が生きていれば必ずどこかで何かを食べるのですから、そういう場面が小説に出てくるのは別に珍しくもないと言われれば、その通りであり、返す言葉もないのですけど、私には目についてならないのです。

書いてあることを読まずに、書かれていないことを読んでしまう

 大学生の時に、ある先生がしきりに「書かれていないことを読む」と「書かれていることを読む」と口にしていました。小説を読む時の話です。書かれていないこととは、たとえば作者の生い立ちとか人生観とか死生観とか世界観とか思想だとか、そういうものです。

 要するに、そこに書いていないことをどこかから持ってくるのです。そこに書いてあることを別のものに置き換えるともいえます。

 よく小説の文庫本の解説にはそういうことが書いてありますね。大学の授業なんかでも、ある文学作品を読んでいると、学生はその作品の解説書や批評の類を見つけてきて、そこに書いてあったことを授業で発表したりするんです。

 すると、その先生は「それは、この作品のどこに書いてあるのですか?」と優しい口調ながら澄ました表情で尋ねます。褒められると期待していた学生は言葉に詰まります。そんな学生を相手に、蓮實重彦というその先生は作品に書かれていることだけについて次々と質問をしていくのです。

 そういえば前後は忘れましたが、ある日学生の一人が見当違いな発言をして、教室内が白けた空気に包まれたことがありました。その時、ヘビースモーカーだった先生が煙草を吸い終え、「ここにこんなことが書いてありますけど」とよく響く低音で口を切り、室内がにわかに活気づいた瞬間もありました。この一瞬を今でも夢に見ることがあります。

 私は読むというきわめて具体的な作業を非常勤講師として教えていたその先生から学びました。その際につくづく感じたのは、「書かれていることを読む」のがとても難しいということです。誰もがつい書かれていないことを読んでしまうのです。

 私がここで述べている連想もそこに書かれていないことであるのは言うまでもありませんが、どこかに書かれてはいるわけです。大切なのはその「どこか」が文学作品だということでしょう。解説書や批評や作家の経歴でありません。

 たとえば、『最後の息子』を文學界新人賞、『パレード』を山本周五郎賞、『パーク・ライフ』を芥川龍之介賞という手垢のついた言葉で評したり、その作風を純文学や大衆文学というジャンル分けで論じたり、その雰囲気をいわゆる「洒落た都会生活」という思考停止的な言葉で語ってお茶を濁したり、吉田修一を長崎や東京や台湾や、スイミングスクールのインストラクターという経歴や、愛猫家という側面などと置き換えたとして、それが吉田修一の作品に書かれていることを読んだことになるのでしょうか。

 そうした読み方を否定しているわけではありません。私もときにはしますし――一例を挙げると吉田が愛読したというジャン・ジュネと吉田を比較してみたい誘惑にも駆られます、きっとわくわくするに違いありません――、読みは人それぞれですし、そうした読み方の楽しさに激しく共感するほど、私は根がミーハーな人間です。読みはその人にとって快いものであれば、それでいいと思います。

作品と作家を超えて共振する身振り

 レイモンド・カーヴァーの『隣人』(村上春樹訳)では、妙な夫婦が出てきます。

 アパートかマンションに住んでいる夫婦の話。廊下を隔てた隣人である夫婦が長期の旅行に出ることになり、その留守中にペットと室内の植木の世話を頼まれる。鍵を預かり数部屋から成る住まいに入って、言われた通りに猫に餌をやり植木に水をやる。それだけならいい。それだけでは済まないのだ――。

 何が妙なのかというと、隣人夫婦から留守番を頼まれたこの夫婦ときたら、やたらと性的な興奮を覚えるようになる、つまり催すのです。お隣の夫婦の住まいでですよ。変といえば変、分かるような気がするといえば分かるような気がするのですが、いずれにせよ妙な話であることは変わりません。

 カーヴァーの『隣人』を思い返す度に、上述のサトルをはじめ、吉田ワールドの登場人物たちが他人の留守宅で物をいじったり勝手に物を食べる身振りや仕草に、『隣人』で出てくる夫婦の同様の行為をどうしても重ね合わせたくなります。もちろん同じではありませんが、要するに「似ている」のです。

 彼は戸棚を全部開けて中にある缶詰やシリアル食品やらパッケージ食品やらカクテル・グラスやらワイン・グラスやら陶器やら鍋かま類を全部点検した。冷蔵庫も開けた。セロリの匂いをちょっとかいでみて、チェダー・チーズをふたくち齧り、林檎を食べながらベッドルームに行った。ベッドはすごく大きく見えた。(中略)ナイト・スタンドの引き出しを開けると半分空になった煙草の箱がみつかったのでそれを自分のポケットに入れた。
レイモンド・カーヴァー『頼むから静かにしてくれ (THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 1) 』村上春樹訳・中央公論社p.30)

 異なる作家の書いた作品間の影響や模倣を問題しているわけではありません。ただ似ているだけです。いろいろな作家の文章を読んでいると、この種のことはざらにあります。小説だけでなく、エッセイや映画やテレビドラマや絵や楽曲や写真や動画でも、よく見られる現象です。

 みなさんにも心当たりがありませんか。

 この曲、あれに似ている。この映画の場面とそっくりなシーンを見たことがある、確かテレビドラマだ。このイラストってピカソゲルニカに似てね? あれなんだっけ、これとめっちゃ似てるんだけど、なんだっけなあ。この小説を読んでいると、〇〇の新曲のPVみたいでデジャビュを感じる――。

「似ている」に依存する

 同じ作家やクリエーターの作品間でも「似ている」は頻出します。レイモンド・カーヴァー吉田修一以外に、私がそれを強く感じる作り手の名を思いつくまま挙げてみますね。記事の冒頭と重なりますが、次の通りです。

 夏目漱石中上健次藤枝静男村上龍村上春樹松任谷由実荒井由実)、小室哲哉、Bee Gees、スティーヴン・キング宮部みゆき橋田壽賀子パトリシア・ハイスミス角田光代……。

 こうした作り手の作品群にはワンパターンとかマンネリズムという言葉で片づけたくない、「似ている」がたくさんあります。スタイルとか文体とか個性とか刻印と呼んでも、事情は同じかもしれません。

 大切なことは、その「似ている」を好み、楽しみ、また新たな「似ている」を待ち望んでいるファンが大勢いるという事実ではないでしょうか。作品間の「似ている」感が強い作り手ほどファンが多い気がします。「似ている」には依存性があり、人を安心させる何かがあるように思えてなりません。

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