他人の家に入る

 他人の家に入るとぞくぞくします。こんなことをしていいのだろうかという後ろめたさも覚えます。こういう気持ちが特殊なものかどうかは知りません。話せる友達がいないので聞いたことがないからです。

 私は他人の家に入った経験が人よりずっと少ないのではないかと思います。人との交際が極端に薄いのです。最近だと、他人の家に入ったのは五年前でした。ほんの三十分くらいの体験でしたがどきどきしました。思い出しただけでも息が苦しくなります。

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 アパートかマンションに住んでいる夫婦の話――。廊下を隔てた隣人である別の夫婦が長期の旅行に出ることになり、その留守中にペットと室内の植木の世話を頼まれる。鍵を預かり数部屋から成る住まいに入って、言われた通りに猫に餌をやり植木に水をやる。

 それだけならいいのですが、それだけでは済まないのです。妙な心理におちいります。魔が差したという感じなのです。おそらくふだんは自覚していなかった深層の心理が、旅行に出かけた隣人夫婦の住まいの管理を頼まれたことをきっかけに突如として出てくるのですけど、不気味で読んでいてわくわくします。

 以上は、レイモンド・カーヴァーの『隣人』(村上春樹訳)という掌編の要約です。この小説を再読したのがきっかけになって、このところ他人の家に入るという行為について考え続けています。

 そうした行為が夢にまで出てくるのですが、行為の主体は自分であったり他人であったりします。物の場合もあります。夢の主体は動詞あるいは用言ではないかと思うことがあります。体言的な要素がことごとく曖昧になる世界が夢なのです。私にとっては。

 夢の中では自他とか彼我とかあっちとこっちといった線引きは不明になります。見るのは筋らしきもののない、とりとめのない夢ばかりなのですが、今夜も見られないかなあと毎日楽しみにしています。

 夢の中では反復と変奏だけが景色となって流れているような気がします。すべてが肯定されるという意味で、そこには差異はないのです。それは本を読む行為にも似ています。

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 本にどんなに物珍しいことや初めて知る情報が書かれていても、言葉は親しげな表情をまとってそこにある。そこにいる。新しいことはない。いつか見た記憶のある言葉たちの顔と身振りの数々。懐かしい。心安らぐ。

 その言葉が異形を呈する瞬間がある。それは言葉が形として立ち現れる時だ。言葉が文字となり形となって意味を失う時。心が騒ぐ。

 夢の中で目を覚まされる時。そこには反復はない。似たものたちの微笑みもない。しかし、これもまた夢になっていく。そうやって人は不安と恐怖を飼い慣らす。それも一瞬のうちに。

 たぶん、それが書物を読むという行為。だから本は決して読めない。書物を読んだ者はいない。現実が見えない人に現実を見た人がいないのと同じく。

 書物は夜に読むべきもの。いや、そうしなくても、きっと誰もが夢の中で読んでいるもの。

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 私は吉田修一の小説が好きで、一時期には『元職員』を除く全作品に目を通していました。『元職員』を残したのには深い意味はありません。なぜか、ある時からぱたりと読まなくなったのです。

 でも、好きな作家であることは変わりません。むしろ大好きな作家といえます。いまは吉田修一の気になる作品の気になる部分を読みかえしています。この辺のことは拙文「書き手の癖、読み手の癖」で書きました。

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 吉田修一の作品には「他人の家に入る」という身振りがよく出てきます。その身振りに関して、上で挙げたレイモンド・カーヴァーの『隣人』と似たストーリーというか設定と場面が出てくる小説がいくつかあります。

 そっくりなのはパーク・ライフです。

 ラガーフェルドの世話という名目で、誰もいない宇田川夫妻宅に毎晩やってくるようになって二週間になる。「泊まっていってもいいよ」と和博さんが言ってくれたので、ここ数日はその言葉に甘え、広い2LDKのマンションを独り占めしている。歩いて三分しかかからない自分のアパートに戻らないのは、三日前に上京した母がそこのベッドを占拠しているからで、ここ数年、彼女は、春と秋、季節がいいところを見計らって上京してくる。
吉田修一著『パーク・ライフ』文春文庫・p40)

パーク・ライフ』では、語りである「ぼく」が知人らしい夫婦宅マンションで、彼らの愛猿ラガーフェルドと遊びながらテレビで映画を観ていたりします。夫妻が住まいにいない理由は割愛しますが、とにかく語り手は留守宅を任されているわけです。

(この小説ではタイトルにあるパーク(公園)が主要で重要な場所になるのですけど、他人の家に入るというテーマとは関係がないので公園での出来事は触れずに話を進めます。吉田修一の諸作品において公園という場所はきわめて興味深い役割と機能を果たしている、と指摘するだけにとどめておきます。)

 語り手の「ぼく」は、知人夫妻宅でシャワーを浴びたり、リビングの書棚から本を取り出してめくったり、かかってきた電話の留守録の内容を聞いたりします(盗み聞きとも言えます)。台所に行って冷蔵庫を開けて好きなものを作って食べたりもします。

 こう書いていると既視感の洪水がやってきました。

「ぼく」は「歩いて三分しかかからない」ところに自分のアパートがあるのです(そこには家族の一員である母親がいる)。それなのに他人の家に入る。他人の住まいをあちこち物色する。そこにはペットがいる。その世話を頼まれている。やっぱり似ています。

 似ているというより懐かしいのです。寝入り際の夢うつつや夢の中でよく出会う風景のように懐かしいのです。

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 長くて恐縮ですが、反復と変奏がテーマになってきたので、以下に拙文「プライベートな場所、プライベートな部分」から、以下に引用させていただきます。

 カーヴァーの短編や掌編では、住まいに他人がまるで「異物」のように入りこむ話が目立ちます。「異物」というのは、その住まいと住人(多くは夫婦なのですが)にとって不気味で異質な存在であり、何か不穏な事態を招く存在だという意味です。『隣人』では、留守中の猫と植木の世話を頼まれたとはいえ、ストーン夫妻の住まいに入りこんで物色したり私物をいじるビルとアーリーンは他人の住居に侵入する「異物」と見なしていいと思います。

 他人のテリトリーを、おかす、侵す、犯す、冒す――というわけです。

『大聖堂』という短編では、「私」という語り手の妻の友人である「盲人」ロバートが家に泊まりに来ます。このロバートが語り手の心や感覚を揺さぶるのですが、その揺さぶり方が奇妙なのです。盲人に大聖堂がどんなものかを言葉と絵で描写するという思いがけない展開に戸惑う読者が多いでしょう。しかもその記述がじつに触覚的で、読者はあれよあれよという間にカーヴァーの術中にはまるにちがいありません。

『ファインダー』は、「両手のない男がやって来て、私の家を写した写真を売りつけようとした」という具合に始ます。この一文だけでもカーヴァーはうまいと思います(持論なのですが、ほのめかしの多い淡々とした筆致のカーヴァーは、意外とサディスティックなのです)。男はトイレを使わせてくれと頼みます。トイレもカーヴァー特有の小道具です。語り手の「私」は、赤の他人であるこの男に自宅で、いわば「こき使われる」はめになります。

『ささやかだけど、役にたつこと』とそのショート・バージョンである『風呂』では、交通事故で意識不明になった息子の入院中に、何度も自宅にかかってくる電話が「異物」となります。ところで、それほど重要な要素だとは思えない風呂(bath)がタイトルになっているのは興味深いうえに不可解で、何か読み落としたのかと気になるほどです。父親か母親のどちらか一方がいったん病院から帰宅して風呂に入っている間が、親子三人がばらばらになり、各人が一人になる時であるという意味で重要なのでしょうか。ここでは、風呂が基本的に一人になる場であると指摘するだけにとどめ、その象徴的な意味については別の機会に譲りたいと思います。

『ダンスしないか』においては、カーヴァー・ワールドで頻出する家具や生活用品が、ガレージセールという形で庭に出されます。庭がにわかに住まいの様相を呈するのです。売主である「彼」は結婚が破綻したらしい中年男で、その家の庭に結婚前の男女が現われるのですが、ここでは住まいがもはや住まいではなくなっています。庭に並べられた物たちが住まいを追い出された「主」で、中年男や若いカップルのほうが「異物」に見えてくるのです。カーヴァーによる自作の脱構築と評するのは、言い過ぎでしょうか。

 引用は以上です。

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パーク・ライフ』の文章が好きです。字面が綺麗なのです。癖がなくて清潔な印象を与えるのは、いわゆる「お洒落な都会生活」が描かれているからかもしれません。そうかもしれませんが、文章そのものにこだわりたいと私は思います。

 吉田は内容に応じて文体を変えます。短編集『熱帯魚』(文春文庫)と長編『長崎乱楽坂』(新潮文庫だと、もっとごつごつして生々しい性欲と暴力性を感じさせる文章を書いています。この種の文体の時には、登場人物がやたら汗をかくという特徴があります。

 安易な連想ですけど、中上健次の作品に似ていると思ったこともあります。初期には中上を意識して書いたのではないかと思われる作品がいくつもあります。上で挙げた『熱帯魚』や『長崎乱楽坂』がそうです。中上の作品のように字面も黒々としています。

 吉田修一は内容やストーリーだけでなく文章で楽しませてくれる作家です。語りで読ませる書き手だと思います。

 他人の家に居候をしたり、臨時にあるいは短期間他人宅に住んでいる人物が、吉田の作品ではよく登場するのですが、そんなところにも私は惹かれます。たぶん自分には縁遠い世界が描かれているからでしょう。

 以前に吉田修一論を書こうとしたことさえあります。出だしは決まっていて、「吉田修一の小説ではやたら人が汗をかく。いや、むしろ汗が吹き出し流れるのだ」でした。

パーク・ライフ』では、登場人物は汗をかきません。かきそうでかかないのです。性欲と暴力が少なくとも全面には出てこないからだと思われます。作家のこういう癖みたいなものが私は好きです。作家が書く時の癖を楽しみながら読んでいるところがあります。それが私の読む時の癖みたいです。

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(以下は引用です。)

 他の人に似ているとか、他人を真似るだけではなく、自分に似ているとか、自分を模倣するということがあります。

 詩、小説、造形芸術、演劇、イラスト、漫画、作曲、伝統芸能といったクリエイティブな活動にたずさわっている人たちの作品には、その作り手独自のスタイルや型があります。これはプロ・アマを問わず見られます。悪い言い方をすればワンパターンでありマンネリズムです。

 そうしたものが個性なのであり、オリジナリティーなのであり、本物なのであり、著作権によって守られる対象だと言えるでしょう。

 あ、これ、〇〇の曲でしょ? △△の映画は見始めて三分でだいたい分かるね。確かに、このドラマは、いかにも□□さんの脚本ぽいストーリーね。これって、あの人の作でしょ? まただ! 「なんでレンブラントだって分かったの?」「背景の色、そして筆さばきかな」

 創作活動とは自分を真似ることではないか、自分の複製をつくることではないか、と思えるほどです。

(以上は、拙作「私たちはドン・キホーテボヴァリー夫人を笑えるでしょうか?」からの引用でした。)

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 吉田修一作の別の作品を見てみましょう。

 閻魔ちゃんの部屋でのぼくの暮らしぶりは、「体調の良い病人」という言葉がピッタリだと思う。毎日昼近くに起き出して、夕方まで本を読んだり、散歩したりして過ごす。五時頃になると、閻魔ちゃんが近くの丸正へ買物に行くので、ぼくはゆっくり風呂に入る。風呂から上がった頃には、閻魔ちゃんの料理が完成しているというわけだ。
吉田修一著『最後の息子』文春文庫・p.20)

最後の息子』では、「ぼく」(『パーク・ライフ』とはまったく別の語り手です)が「閻魔ちゃん」の住まいで居候をしています。この小説は実にユニークな設定なのでぜひお読みいただきたいのですが、いずれにせよ、他人の住まいにいる語り手の生活が描かれていることに注目しましょう。

パーク・ライフ』と『最後の息子』――。両者を読む時、私は既視感を覚えずには読むことができません。そしてその既視感はカーヴァーの『隣人』で描かれるさまざまなシーンとも重なるのです。そうした既視感と連想は、私にとって読書の醍醐味でもあります。こういうとりとめのない思いが楽しくて仕方ありません。

 大げさな言い方になりますが、文学空間とかテキスト空間に居るような不思議な気分になります。そこにある複数の言葉たちと、そのそれぞれの言葉が喚起するどこからか来たイメージたちが、共鳴し合うような世界です。

 正視すれば目まいを起こすに違いない明視の世界なのですが、ぼうっとした眼差しを送ることで、それをやり過ごすのです。夢のように、そこに参加していながら傍観するしかない世界。

 大切なことは差異よりも類似が幅をきかせる場という点でしょう。

 お断りしなければならないことがあります。ここでは異なる作家による作品間の模倣や影響を問題にしているのではありません。私は類似に惹きつけられる人間ですが、作品間の影響や模倣について考えることはないです。ただ似ているのが面白いと思うだけなのです。

 影響や模倣という概念は、そのに在る言葉を読めなくします。在るものを何か別のものに置き換えるという、読むのとは違った作業に陥ります。

 他人の部屋に入るという行為が出てくる作品は世の中にたくさんあるにちがいありません。私が読んだことのある小説など数が知れていますし、私が似ていると思うのはごく個人的な感想であり意見でしかありません。

 一個人がその限られた読書体験の中で気づいたことを楽しんでいるだけだ、と理解していただきたいと思っています。

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 小説にしろ、詩にしろ、エッセイにしろ、ある書き手には書く際の癖みたいなものがありますね。ある特定の作家を読みこめば読みこむほど、癖やパターンが分かってきます。

 たとえば、さきほど述べたように吉田修一の作品では登場人物がやたらと汗をかきます。汗と同じ水からなる、プール、海、噴水もよく出てきます。繰り返しになりますが、他人の家に入るとか居候をする話も多いです。「あっ」(この間投詞を吉田が使うと実にチャーミングなのです)と声を上げる仕草も頻出します。あと、建物の上から、外の通りを見下ろすという身振りも目立ちます。

 一時期に私が吉田の小説を集中的に読んでいたのは、何らかの形で他人の家に入るという身振りに惹かれていたからではないか、と思うことがあります。私は小説を書くことがありますが、自分にとっての第一作にも、「他人の家に入る」という行動が出てきます。実生活では、他人の住まいを訪ねることが極端に少ないにもかかわらず、です。

 そういえば、私の小説をずっと読んでいる人から、「あなたの小説ではおしっこをする場面とお風呂の場面が多いね」と言われて、はっとしたことを思い出しました。そうかもしれません。おしっこの場面はなくても、トイレが重要な意味を持つ作品もあります。

 完成か未完成を問わず、これまでに自分の書いてきた作品たちを思いかえしてみると、他人の家に入るという身振りが繰り返されているのに驚きます。同時に、やっぱりねという思いもあります。

 たぶん、いや、きっと、私は他人の家に入りたいのです。さもなければ、「他人の家に入る」についていくつも記事を書かないだろうと思っています。まだまだ書くに決まっています。気持ちがいいから、それを繰り返すのです。すると繰り返すこと自体が気持ち良くなる。

 同じことを繰り返すことで安心するのでしょうね。子どもがブランコやシーソーやメリーゴーランドの単調な動作や風景の繰り返しが好きなように。そうしたぶらぶらゆらゆらぐるぐるとした世界では主体などなく、あるのは動きと景色ばかりなのです。

 やっぱり、創作活動と読書体験(作品の鑑賞)は夢に似ています。創作と読書と夢に耽っているとき、人は似た場所にいるという意味です。