このところ吉田修一の小説を読みかえしているのですが、再読するのはぞくぞくするからです。わくわくよりぞくぞくです。
どんなところにぞくぞくするのかと言うと、吉田の諸作品に繰りかえし出てくる動作とか場面なのです。複数の作品に共通して見られる身振りや風景があるのです。
そこに差しかかるとため息が出ます。
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同じような、似たようなことをあれだけ何度も何度も書いているのは、書き手側に何かこだわりがあるにちがいありません。意味や意図があると言うよりも、それはほぼ無意識の癖だという気がします。
書き手が書くときの癖に惹かれて、そこが読みたいから読んでいるというのは、読み手側にも似たような何かがあるにちがいありません。
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人は「何か」に「何か」を見る――。この場合、後者の「何か」は、模様、形、光景、イメージ、意味、ストーリー、ドラマだったりすると考えられますが、そうであれば、人は「何か」に「何か」を読むとも言えそうです。
さらに言うなら、人は「何か」に自分が見たいものや読みたいものを見たり読む気がします。
「人は」だなんて人類を語るような言い方をして、ごめんなさい。こういうことについて観察したり話せる人類は自分しかいないのです。
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ところで、私はストーリーを追うのが苦手です。筋よりも細部に目が行くようです。読書のさいには筋を追わないので、途中から読むことがよくあります。
あと、読むのを中断して放置している小説がけっこうあるのですが、気が向くと手に取ってぱらぱらめくり、面白そうなところだけを少し読みます。
全体を読みとおしたという記憶のある小説はありません。断片的な記憶しかないのです。エッセイや学術書でも、そんな感じで読んできました。
意識が散漫なのです。この文章の書き方をご覧になると分かると思いますが、話がやたらと飛びます(重複も多いです)。
自分のなかでは連想という形でつながってはいるのですが、ひとさまから見ると飛躍に感じられるだろうと思いつつ書いています。
話を戻します。
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吉田修一の小説で頻出し、いい意味で私が気になる動作や仕草や口調を挙げます。
・汗が流れるように出る。汗が吹き出る。汗でびしょ濡れになる。これはいちばん目につくシーンでしょう。吉田の作品では、水と火(火はとくに初期の作品です)も特別な意味を持っている気がします。「ひ」(火や日)と水があるから汗が出るわけです。
・他人の家に入る。留守番もあれば、居候もあるし、不法侵入もあります。ほとんどの作品にこの「テーマ」が出てくるのです。エロチックな意味も感じます。
・階上の窓やベランダから下を見る。眼下に道路を眺める動作が多いです。建物の一階にあるフロアから伸びる階段の上から見おろすというバリエーションもあります。この身振りを吉田が書くと、じつにチャーミングなのです。
・「あっ」という間投詞。これをタイミングよく口にするときの登場人物が、またチャーミングなのです。
・「りょ、良介くん、な、泣いてる?」(『パレード』)とか、「ど、どうなさったの?」(『横道世之介』)とか、「も、戻ってくるよ。」(『怒り』)といった口調も好物で、そういう会話を読みたいだけのために吉田の本をめくることがあります。
・誰かが誰かの背中を押す。背中を押しながら、前に進むようにうながすという行為も頻出します。同性同士だけでなく、男性が女性を、女性が男性の背を押す場合があります。不思議なくらいよく出てくる仕草です。
・ビデオカメラや写真のカメラで、目の前のものを撮影するシーンもよくあります。ファインダーで覗いた映像と、撮影された対象である現場が同時に描写されることもあり、その対比を楽しんでいるような筆致を感じます。こういう場面を読んでいると軽い目まいを感じて好きです。
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似たようなシーンや動作が出てくるから興味を惹かれるのか、そもそもそういう身振りや場面が好きだから何度も読んでいるのか。よく分からないのですが、吉田修一の作品を繰りかえし読んでいます。
寝入り際の夢うつつや夢で見ることもあります。それを楽しみにしてもいます。
自分の読書を振りかえると、私はその時々に読みたいものだけを読んでいるし、読みたいものの読みたい部分だけを読んでいる気がします。さらには、かつて読んでぞくそくしたところを、何度も読みかえしているのです。
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どうやら、書かれているものをまんべんなく読むのではなく、まばらに、そしてまだらに読み、結果としてすかすかな読書をしてきたようです。
結果として、そうしたまだらな読み方――細部を断片的に繰りかえし読むという意味です――に適した作家の作品を読んできたのかもしれません。
書棚や段ボール箱には、スティーヴン・キング、宮部みゆき、古井由吉の本がたくさん残っています。その中には、まだ読んでいないものもたくさんあります。
スティーヴン・キングの作品がホラー、宮部みゆきの作品がミステリー、古井由吉の作品が純文学だと思ったことは一度もありません。