ガラスをめぐる連想と思い出

 簡単に言うと、「Aだから、Bだから、Cだから、Dだから……」という論理っぽいつながりではなく、また「Aして、次にBして、それでもってCして、それからDして……」という物語っぽい流れでもなく、「Aといえば、Bといえば、Cといえば、Dといえば……」という連想っぽい運ばれ方に惹かれます。
 そんなわけで、私の書く文章は、脱線と矛盾と破綻だらけになります。申し訳ありません。
(拙文「「消える」と「残る」が並行して起きている」より)

硝子戸の中

 言葉はガラス。
 言葉は硝子。

 まったく違った「物」に見えます。ガラスのすべすべとした無機的な字面。硝子の異物性。言葉が物に見えてくる瞬間です。

 夏目漱石の『硝子戸の中(がらすどのうち)』が好きです。タイトルの字面が気に入っています。硝子戸から外の世界を眺める漱石の眼と寝そべっている姿が浮かんでくるようです。「ガラス戸の内」では、何だか気分が乗りません。『硝子戸の中』に慣れ親しんでいるからでしょう。

 白いレースのカーテンのあるガラス窓から外を覗き見る人。反射のせいで、外からは中が見えない。一方的に見るという一種の暴力。見る側にとっては、密かな喜び。窃視。要するに覗き。

 家の中から外を覗くのは、けっこう誰でもやっていますよね。外から家の中を覗くのは犯罪です。これは許されません。

 パソコンの画面でいろいろな文章や画像を閲覧していると、窓から外を覗き見ているのではなく、これは「内」を見ているのではないかと錯覚しそうになるコンテンツがあります。誰かの住まいの「内」、誰かの心の「内」を覗き見ている後ろめたい感覚なのですけど、あなたにも心当たりがありませんか。

 私なんか思わず赤面していたり、あたりを見まわすことがあります。

 言葉は硝子戸。言葉は硝子窓。言葉は白いレースのカーテン。言葉は液晶パネル。

ウィンドウ

 ショーウィンドーは飾り窓ともいいます。大きなガラスが嵌め込まれているものをいうわけですが、その大きさを考えると大したものだと思わないではいられません。店にとっては相当な投資ではないでしょうか。

 ガラスを通して陳列された商品が見えるだけでなく、ガラスに映る自分の姿を見たり、つまり鏡代わりにしたり、まわりの人を観察するのにも使えます。誰かに後をつけられている。そんなふうに感じたときにも使えそうです。そうしたシーンをテレビドラマや映画で何度も見た記憶があります。

 言葉は飾り窓。言葉はショーウィンドー。言葉はショーウィンドウ。

 同じものを指すはずなのに、カタカナだとイメージががらりと違います。ウィンドーとウィンドウも違って感じられますが、個人的なイメージの問題でしょう。自分だけのものですから、イメージは大切にしたいと思います。

 字面も音の響きもいい言葉なのですが、「飾り窓」というと別の意味にもなりますね。詳しくは、ウィキペディアなどの解説をご覧ください。苦手な話題なのです。

ガラス張り、鏡張り

 以下の映画の冒頭でも、ショーウィンドーが出てきます。片足をあげて靴をガラスに映すジョン・トラボルタの身ぶり(0:56あたり)。さらにはダンスに出かける前に鏡に向かうトラボルタ。鏡が似合う人です。

 


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 ディスコの壁には大きな鏡が張られています。ダンスのスタジオやジムもそうですが、体を動かすという行為と鏡には親和性があるにちがいありません。

 ナルキッソスナルシシズム、水面、鏡、鏡の国。鏡の中にいる自分は自分なのでしょうか。いまだに確信が持てないでいます。

     *

 映画「ティファニーで朝食を」では、以下のシーンにも窓が出てきます。

 


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 トルーマン・カポーティの原作を読むと、主人公ホリーという女性の生い立ちや、そもそもなぜ「旅行中(Traveling)」なのかが分かります。

 Moon River を歌う気だるい歌声に、ホリーの暗い背景を重ねないではいられません。ヘビーで悲しい物語が裏にあるのですが、これは映画ではぼかしてあるので原作を読まないと分からないかもしれません。

覗く

 裏と言えば、アルフレッド・ヒッチコックが監督した映画「裏窓(Rear Window)」を思い出します。

 


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 一方的に見るという一種の暴力。見る側にとっては、密かな喜び。窃視。要するに覗き――。

 テレビの映画劇場で見た記憶があります。私は閉所が苦手なので、映画は劇場での鑑賞は無理です。三十分以上じっとしていることができないので、劇場でもトイレやロビーや売店の近くででうろうろしていて、最後まで通して見た映画は少ないです。

 じっとしていられないのはテレビの前でも同じなので、映画をビデオで見る習慣もありません。それでも予告編は大好きです。あれよあれよという間に終わってしまうところが好きです。予告編は宣伝ですから、いい場面を選んで編集してあり、なかなかよくできたものが多い気がします。

イマージュ

 イメージ、イマージュ、幻想、鏡像。

 共同幻想は幻想。個人間の差異を無視した、誰かの粗雑な私的イメージ。誰かの幻想やイメージに付き合う気持ちはない。

 イメージは愛おしい。おそらく死ぬまでついてきてくれる、きわめて個人的なもの。たとえば、ガラスについてのイメージは、あなたと私では異なる。それがあなたと私との差異。

 誰かのイメージや幻想に付き合うことで、主従関係が生まれる。ひいてはファシズムに至る。他人の幻想に頼ったり、共同幻想を求める願望は誰にもある。

 幻想や幻影やイメージへの人の偏愛は、おそらく言語と関係がある。言葉はシステム。幻想やイメージもシステムだからだ。

 イマージュ――この言葉を見聞きすると、くすぐったくなります。なんだか、こう、この辺がこそばくなるというか……。いまああぁじゅぅうっ、という感じ。それが、この言葉についての私の個人的で愛おしいイメージなのです。

 変なことを言ってごめんなさい。というか、個人的なことって変じゃありませんか? ひとさまの前で披露するものではなさそうです。

ガラス、グラス

 ガラスはオランダ語glas から来ていると辞書にあり、英語の glass でもあります。glass はグラスでもあることが思い出されます。glass を英和辞典で見ると、面白い発見に満ちていて楽しくてたまりません。

 言葉はグラス。
 言葉は半分だけ水の入ったグラス。
 言葉は満たしても満たしてもいっぱいにならないグラス。

 このように書くと何か深い意味がありそうなフレーズに見えるから不思議です。隠喩や寓意(アレゴリー)ではないかと思ってしまうわけです。自分で書いたにもかかわらず、そう思ってしまいます。もし、これが他人の書いたものなら、よけいにそう見えるかもしれません。

 このところとくに、「真理」(「でたらめ」でもいいです)とか「真実」(「フェイク」でもいいです)とか、真理っぽさ(または「でたらめっぽさ」)とか「真実らしさ」(あるいは「フェイクらしさ」)というのは、とどのつまりはレトリックの問題ではないかとよく考えます。

 言い方次第、書き方次第、口調次第、プレゼン次第で、本当っぽくも嘘っぽくも、意味ありげにも、深遠そうにも見えるという意味です。言葉は空っぽなのに、です。

 言葉は空っぽ。言葉は「らしさ」。言葉は「っぽさ」。言葉は魔法。

 人が求めるのは、詩ではなく詩のようなもの、小説ではなく小説っぽさ、哲学ではなく哲学っぽさ。いかにも芸術らしい、いかにも文学らしい、いかにも真実らしい。

 まるで透けたガラスみたい、いや向こうのない鏡みたいかも。glassはglass。見えるようで見た者はいない。そもそもガラスはそのものを見るために用いるのではない。誰がって、人が。それではない何かを、あるいは向こうや彼方を見るためのもの。やっぱり言葉に似ている。

時計、眼鏡、宝石

 hourglassという言葉を思い出しました。砂時計のことですね。hourglassというと、以下の映画を連想します。

 


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  YouTubeで、この動画を見つけた時には歓喜したものです。懐かしい。いっしょに見た人を思い出します。いっしょに行った映画館も覚えています。その人の服装も覚えています。場所は東京、渋谷。あの時は最後まで見たような記憶があります。

 あの人はいまどうしているのでしょう。この映画は後にレンタルで借りて見たこともあります。私としては珍しいことです。忘れられない映画です。

 映画は「ジェレミー(Jeremy)」、主題歌は主役を演じたロビー・ベンソンが歌っています。この映画の内容というかストーリーは、主役の少年がユダヤ系だと考えるとよく分かります。その意味では時代を反映している気もします。

 とてもセンチメンタルな物語なのですが、懐かしくて、その感傷に浸らずにはいられません。主題歌には正式はタイトルはなく、Hourglass Songと呼ばれているようです。

 余談になりますが――連想がテーマの記事に余談なんて変ですけど――、上の動画では主人公の男の子の部屋にある本棚が映しだされます。あそこに並んでいる本が気になってなりません。画質が悪いので、一時停止にして目を細めてにらむことがあります。背表紙に Emily Dickinson なんて見えたりしますね……。

     *

 glassesと複数形になると、二つのレンズから成る眼鏡の意味にもなりますね。

 言葉は眼鏡。
 言葉は虫眼鏡。虫眼鏡とは、よく考えると不思議なネーミングです。
 言葉はルーペ。

 言えてますね。

ジャズ、アドリブ

 言葉はレンズ。言葉はレンズ豆。言葉は豆。言葉は大豆。言葉は畑の肉。言葉は畑。言葉は肉。

 こういう連想が好きです。「なるほど」と、うなる連想もいいですけど、ときには荒唐無稽な連想を楽しみたいと思います。

 言葉はジャズ。言葉はアドリブ。
 言葉は即興。言葉は自動筆記。

ぎやまん

 ビードロという言葉を思い出しました。あれもたしかガラスじゃないか――と辞書で調べるとポルトガル語から来ているとのことでした。日本に渡来する言葉の順では、ポルトガル語が先でオランダ語が次と学校で習った記憶があります。

 葡萄牙ポルトガル)、和蘭陀(オランダ)。いい感じ。漢字のもたらす不透明感が心地よいです。こういう表記をまだ使ってもいい気のはないでしょうか。

 西班牙、白耳義、独逸、丁抹瑞典、諾威、波蘭……と、国名をカタカナで入力すると漢字の表記が出てきます。便利ですね。

 言葉はビードロ。言葉はぎやまん。言葉は硝子。

 ぎやまんは、ダイヤモンドから転じたらしい。ガラスを切ったり削ったりするのにダイアモンドを使ったことから、そうなったという。この「転じて」(要するに、間違って、ずれたために変わった)が好きです。

 人と言葉が生きていると感じからです。転石苔を生ぜず。人は常に辞書を持って話したり書いているわけではありません。規則は後付け。辞書は死亡診断書。言葉はいま生きている人の中でしか生きません。

 いまも起こりつつある、言葉のずれや変化。私はこれを「国語の乱れ」だとは思いません。言葉は生きているから揺らぐし変わるのです。

アリス

 言葉はレンズ。言葉は顕微鏡。あ、鏡が出た。言葉は実験室。言葉は望遠鏡。言葉は天文台

 やはり、ガラスはそのものを見るためではなく、向こうや彼方を見るものだと痛感します。それどころか、ひょっとすると別世界や異世界を見るためのものではないでしょうか。

 考えれば考えるほど、言葉に似ています。言葉は目の前にあってそれが見えないときにだけ、人に何かを見せてくれるからです。人が言葉を見ることは稀で、その向こうにある意味やイメージを見るという意味です。

 さて、glass の続きです。

 looking glass で鏡の意味になりますが、ルイス・キャロル作の Through the Looking-Glass, and What Alice Found There、つまり邦訳で『鏡の国のアリス』を思い出さずにはいられません。よく分からない小説です。いや、いまでもさっぱり分からない小説というべきでしょう。

     *

 言葉は鏡。言葉は鏡の国。言葉は不思議の国。

 鏡、ガラス、眼鏡、虫眼鏡、望遠鏡、顕微鏡、写真機。ルイス・キャロルはこうした「もの」と、こうした「ものの彼方」をつねに行き来する瞬間に生きていた気がします。

 向こうと彼方だけに目を向けていたのではない。

 見えるのに見過ごされるものたち、人が世界を見るためにもちいられるものたち。こうしたものたちの象徴が言葉です。

結婚

 たしか顕微鏡は鏡とレンズを組み合わせた器機だと記憶しています。カメラもそうであったような……。

 詳しいことは知りません。知らないまま、不思議なままでいいものがあると信じています。

 鏡とガラスの結婚。映し、写り、移る。なんだか猟奇的でエロチックに思えてきました。