人に動物を感じるとき

動物、生物、宇宙人

 動物園に人はいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それは人が自分たちを動物と見なしてないからでしょう。

 生き物や生物やいきものはどうでしょう。人は自分たちを生き物や生物やいきものと考えているのでしょうか。もちろん、これは日本語の語感の問題ですけど。

 宇宙人はどうでしょう。人は自分たちを宇宙人と考えているでしょうか。地球も宇宙の一部であるはずです。

知覚、五感、距離

 目を向ける・見入る、耳を傾ける、嗅ぐ、ふれる・なでる、味わう・食感を楽しむ――この中で私がいちばん動物を感じるのは「嗅ぐ」です。人のことです。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚・触感、味覚・食感のうち、視覚、聴覚、嗅覚では対象との間に距離が必要です。

 触覚・触感と味覚・食感では、相手と接触していなければなりません。「する」側にも「される」側にも、「する」と「される」が同時に起きています。つまり、双方向的なのです。

痛みを推しはかる

 一方的に、相手に知られずに、見る、聞く、嗅ぐ場合は多々あります。

【※あとで触れますが、この辺のことにとても意識的だった作家は川端康成だと思います。とりわけ『雪国』(ソフトでマイルドです)と『眠れる美女』『片腕』(ハードでワイルドです)です。】

 「触れる・撫でる」と「味わう・食感を楽しむ」最中となると、もし相手に意識や意思があれば、されている相手は「されている」と感じているでしょう。

 「撫でる・撫でられる」は想像しやすいですが、「食べる・食べられる」を想像するには心の痛みを感じます。たとえ、その行為の前に「いただきます」と手を合わせたとしてもです。

 あれは相手の魂を鎮めるためではなく、自分の気持ちを鎮めるための儀式だと私は受けとめています。

 相手が自分に「うつってくる(入ってくる)」と感じているからです。だから、二つの手を胸の前で合わせるという象徴的な動作をするのです。

 亡くなった人を送ったり、亡くなった人と日々挨拶をするのと同じ仕草をしていますが、その意味あいは異なります。なにしろ、この場合には相手はこれから自分に「入ってくる」のです。(※諸説あり)

 いただきます。合掌。

 もっとも相手の身になれば、そんな言葉や動作は慰めにもならないでしょう。相手が人の場合です。

 相手が人以外の動物や生き物や宇宙人の場合だと、「食べる」側の人には心の痛みはあるのでしょうか。ただ相手の「痛み」(苦痛)だけがある気がします。

 こればっかりは、自分がされてみないと分からないでしょう。思いやる、おもんぱかる、忖度する、推しはかる、しかなさそうです。

身びいき、擬人

 思いやる、おもんぱかる、忖度する、推しはかる――これが得意なのは人かもしれません(人の思いこみである可能性が濃厚ですけど)。ただし、対象は人に限られるようです。

 正確に言うと、対象は人というよりも、各人にとっての仲間や肉親でしょう。自分を含めた周りを見ているとそう思えます。どうしても人は身びいきします。

 人は自分以外の動物や生き物だけでなく、無生物にまで「思いやる、おもんぱかる、忖度する、推しはかる」心を向けることがあります。

 人形、キャラクター、物語や小説や映画の登場人物(人物とは限りません)、アイドル(本人や実物ではなく映像や音声として立ちあらわれます)といった生きていないものにも、人は「思いやる、おもんぱかる、忖度する、推しはかる」という行為でのぞむ場合が多々あります。

 いわゆる擬人、つまり人以外のものを人に擬すわけです。

作意、作為

 生き物の生態を撮影や録音したテレビ番組やネット上の動画や写真を見るのが好きです。好きなのですが、手放しで楽しめない自分もいます。

 撮影する側の視点や撮影者たちの存在を、つい考えてしまうのです。

 これだけ接近した映像はどうやって撮ったのだろう。望遠だろうか、それとも接写か。この場面は長時間どころか長期間にわたってカメラを向けないと撮れないはずだ。どこで宿泊していたのだろう。お金もかかっているにちがいない。

 そもそも、どういう意図があってつくられた映像であり企画であり番組なのだろう――。

 こういうことを考えたり疑うようになると切りがありません。「疑心暗鬼を生ず」なのでしょうが、オブセッションになります。被害妄想に似て、しつこくてなかなか去りません。

意識的な擬人、無意識の擬人、深層的な擬人

 生き物の生態を撮した番組では、ときどきショッキングな映像が流れます。前もって断りのテロップが出ることもあります。

 「食べる・食べられる」は、たしかに見ていて気持ちのいいものではありません。

 「食べる・食べられる」の場面を見ているとき、私はきまってヒトを連想します。

 そうした行為がヒトの行為と重なるのです。雑食性のヒトは驚くほどいろいろな生き物を食べています。飼育や栽培までしています。

 おそらく無意識のうちに、ヒトの行為と重ねようとして撮っているのではないでしょうか。これは私の妄想でしょうけど。

 直接、ヒトの行為を撮れないから、代わりにヒト以外の生き物たちのそうした行為を写しているとしか思えないのです。私の妄想でしょうけど。

 鏡の前の体験のようです。ヒト以外の生き物の生態という鏡に、ヒトが自分の生態を「撮し・写し・映し・移し」見ているという意味です。

 これもまた、生き物に自分たちを見る、つまり擬人なのでしょう。私は、意識的な擬人、無意識の擬人、深層的な擬人があるのではないかと考えています。

鏡の中の話だと意識する、意識しない

 人は森羅万象に自分を見ているのではないか、意識的または無意識に擬人をしている、つまり自分自身を映しているのではないかと私は考えています。

 たとえば、人形、キャラクター、物語や小説や映画の登場人物(人物とは限りません)、アイドル(映像や音声として立ちあらわれます)といった生きていないものを、人は人に擬します。

 いま挙げた例は、どれもが人のつくったものであることに注目したいです。そもそも自分に似せてつくったのですから、一種のやらせなのです。

 この場合には、人はある程度自分の擬人行為を意識しています。

 ところが、自分のつくったのではないもの、たとえば生き物の生態を撮るとなると、とたんに自分が自分の視線で見ていることを忘れてしまいます。

 まるで「ひとごと」のように見ているのですが――自分のことは棚に上げているとか、メタな視座に立ったつもりなのでしょう――、じつはそこに見ているのは自分自身だということに気づかないのです。

     *

 どういうことかと言いますと、現実や世界をそのまま写し取ることなどは不可能なのです。

 言葉による描写であれ、映像をつかっての撮影であれ、必ずそこには枠があり――空間的なフレームと、始まり終りという時間的な枠――、視点があり、色づけがあり、意味付けがあり、人工的な音響効果があり、筋書きがあり、テーマやメッセージがある、つまり写し取ったようで、じつは演出された作りものだという意味です。

 描写や写生ではなく作画や創作だとも言えるでしょう。それなのに現実を裸眼で直接見て、それを写していると錯覚しているのです。

 自分の見ているのは枠のある鏡の中の像であり、そもそも自分が鏡の中を覗きこんでいること自体を忘れてしまっているとも言えます。

 言語――言語の基本は「Aの代わりにAとは別のもの見る」です――を持ってしまったために、不自然と反自然という生き方を選んでしまった人間は、自然を自然に見る術(すべ)を失ってしまったのです。

ひと休み

 この辺でひと休みしましょう。

 小説と映画と本を紹介します。共通するテーマは、嗅覚と「におい・匂い・臭い・欲求・欲望」です。 

・『香水―ある人殺しの物語』(パトリック・ジュースキント著・池内紀訳・文春文庫)
・映画「香水 ある人殺しの物語」
・『においの歴史―嗅覚と社会的想像力』(アラン・コルバン著・山田登世子/鹿島茂訳・藤原書店

 私は映画が苦手なので、映画は予告編しか見たことがないのですが、小説と本はぞくぞくしながら読んだ記憶があります。

 お薦めします。

恥ずかしさ

 「動物」園に人はいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それは人が自分たちを動物と見なしてないからでしょう。

 目を向ける・見入る、耳を傾ける、嗅ぐ、ふれる・なでる、味わう・食感を楽しむ――この中で私がいちばん動物を感じるのは「嗅ぐ」です。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚・触感、味覚・食感のうち、視覚、聴覚、嗅覚では対象との間に距離が必要です。

     *

 人は自分が見たり聞いたりしている場面を恥ずかしがることはあまりないでしょう。何を見たり聞いているかにもよりますけど。

 さわったり撫でたりするとなると、その対象次第では恥ずかしがるにちがいありません。

 味覚・食感については会食という習慣がある以上、個人差はあってもあまり恥ずかしがるだろうとは思えません。でも、私みたいに恥ずかしがる人間が少数ながらいます。

 恥ずかしいと感じる行為が私にはわりと多いようです。

プライベートな行為、プライベートな仕草

 においを嗅ぐ行為はどうでしょう。

 「におい・匂い・臭い」「くさい・臭い」

 においは生理現象と深く結びついていますね。汗、唾、腋臭、ガス、排泄物、体液……。(私はこういう文字を書いたり見ているだけで汗が出てくるタイプです。)

 においを嗅ぐとき、人はその対象から目をそらして宙や空(くう)に、または斜め下に眼差しを向けることがあります。目を閉じることもあります。

 私はそうした仕草にきわめてプライベートな「なにか」を感じてしまいます。そういう仕草をしている相手を凝視できないという意味です。見てはいけないものと言えばいいのでしょうか。

 そんなとき、私はその人に動物を感じます。同時に自分にも動物を感じます。

 なぜなのかは、あまり考えたことがありません。考えないようにしているみたいです。

においを嗅ぐ、鏡を覗きこむ

 とはいうものの、もう少し「におい」と「嗅ぐ」について話してみます。

 思い出したことがあるのです。

 川端康成の『雪国』の最初のほうに出てくる、ある仕草なのです。

 透明ではなく透明感のある文体として、川端康成作『雪国』の冒頭近くの文章を挙げてみます。特に取り上げたい例は、主人公の島村が、曇った汽車の窓ガラスに指で線を引く場面なのです(……)

――汽車の中で主人公の島村が左手の人差し指をいろいろ動かしたり、その指にまつわる記憶にふけったり、指を鼻につけてその匂いを嗅いでみるという、かなりエロティックな描写(猥褻な感じさえする)の後に、向かい側の座席の女(娘)が窓ガラス(手で押し上げて開ける窓)に映る。窓ガラスが鏡になるのだ。その窓ガラスの向こうに夕闇の中の景色が流れていく。窓という鏡に映った娘。窓の向こうに流れる風景。娘の顔に、野山のともし火がともる。映画の二重写しのように。

 ガラスが透明であることとガラスが鏡でもあることをこれほどまでに、美しく象徴的に描いた文章はほかにない気がします。エロチックで濃密な筆致の直後に、こうした透明感のある描写を持ってくるところが、川端の凄さです。(……)
(拙文「「うつる」でも「映る」でもなく「写る」」より)

 この場面では、主人公の島村が汽車の窓にうつった少女を盗み見している、つまり少女は見られていることを知らないという点が決定的に大切だと思います。

 盗み見している人物の行為を、私たち読者が「盗み見する」という構造になっているのです。

 この小説の面白さはストーリーだけでなく「する」「される」の関係性だと私は理解しています。

 『雪国』という作品は鏡、いやむしろ二重写しになっている汽車の窓なのです。ストーリーだけに還元するにはもったいない細部に満ちています。

     *

 このように、においを嗅ぐ行為をしている人が、きわめてプライベートな空間にいるのを感じさせる場面と仕草だと思います。

 そもそも、においを嗅ぐときには、人はたった一人で自分の世界に入りこんでいるようです。視覚や聴覚にくらべると、他人と同じ感覚を共有するという感じではない気がします。

 鏡と重なるのです。鏡の前にいて鏡を覗きこむ人もまたきわめてプライベートな空間にいると私は感じています。

 あまり他人に見せる姿ではないのです。その姿を見た他人もそのまま見つづけるのを遠慮すべきなのです。

テリトリーをおかす

 こんな記事を書いているのですから、もっと踏みこんでみます。

 誰かがにおいを嗅いでいる気配を感じるとき、私は相手のテリトリーをおかした気分になるのかもしれません。

 テリトリーで思いだしましたが、私は他人の家に入ることに特別な思いをいだきます。

 そもそもふだんから他人の家に入ることがめったにないためか、私は他人の家に入ると恥ずかしさと戸惑いを覚えるのです。

 このこだわりは、発汗、口の渇き、動悸、息切れ、過度の緊張、沈黙という形であらわれます。こういう言葉を書いただけで、もうそうなっています。

 私が他人の家に入ってまっ先に感じたり意識するのは、その家のにおいです。湿度をともなった、においなのです。

 家の中の様子にはぜんぜん目が行きません。においが私を襲ってきます。

近さ、親しみ

 誰かの姿や仕草を見てその人に同化する。

 誰かの声や話を聞いていて、その人が自分に入りこんでくるような気分になる。

 誰かと肌で接していて、その人を皮膚で感じてうっとりする。

 誰かのにおいを嗅いで、その人に近さや親しみや切なさを覚える。

     *

 視覚・像、聴覚・音声、触覚・触感、嗅覚・におい――視覚がいちばん抽象度が高く、触感とにおいがいちばん動物的(悪い意味ではなく文字どおりに取ってください)だと私には感じられます。

 いま述べたのは相手が人の場合ですから、味覚と食感はさておきの話ですが、あえて言わせてもらいますと、「食べてしまいたいほど」誰かを愛しているという言い回しは意味深というか、きわめて「深い」と思います。

 人の深層と真相を突いた表現ではないかという意味です。

 においに対する人の思い入れは、食感に至れないための代償だと言えば、言いすぎでしょうか。

 ひょっとすると自分の中に入れてしまいたいのかもしれません。美味しそうではなくて、愛していればの話です。

 でも、においだけで我慢するのです。もしそうであれば、そこで踏みとどまっているのは、人間だからでしょうか、ヒトという名の動物だからでしょうか。

食う、喰う、食べる

 ところで、宇宙人の目からは、この星に棲むヒトという動物同士は共食いしているように見える気がしてなりません。

 地球規模で考えると、たぶん人は人を食っているようです。とほうもないアンバラスとか格差とか搾取のことです。

 少数が飽食し多数が飢えていると言えば分かりやすいと思います。

 人は人を食う。喰らう。食す。いただく。食べる。

 食べちゃいたい。

 人は人を食う。「食べてしまいたいほど」相手を愛していなくてもです。それは比喩ではなく、人の現実なのかもしれません。

 人を食った話に聞こえたら、ごめんなさい。