文字や文章や書物を眺める

 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。

 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。

 人には見えないものを人は真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。知らないものを真似ている。

 真似ている。似ている。

線や帯を巻く

 レコード、カセットテープ、映画、ビデオテープ、蚊取り線香、トイレットペーパー――どれもが細い線や幅のある帯を巻いたものです。

 レコードは、よく見ると、ぎざぎざした溝である細い線が渦を巻いています。私が初めてカセットレコーダーを買ってもらったのは、むき出しの磁気テープである帯を巻いた、オープンリールという方式からカセットテープに移行する時期でした。帯が細くなり、小さな箱に収められるようになったのです。

 そういえば、初期のコンピューターにはガラスの窓がついていて磁気テープが回っているのが見えた記憶があります。ずずっずずっという具合に、なんだか生き物じみた動きをしていました。ときどき戸惑うように見えたのです。映画は、巻いた帯状のフィルムを映写機で銀幕に映す形で公開されていました。フィルムはしゃーっという感じで流れます。綺麗な模様の蛇の動きを連想した記憶があります。

 ビデオテープは音と像の両方を磁気テープに記憶させた画期的な発明だったらしい。映画のフィルムにサウンドトラックという細い帯が伴走していたものの進化形なのでしょうか。

 以上述べた知識を私は言葉で知っているだけで、仕組みについてはぜんぜん分かっていません。ただ、いま挙げたアナログ的な仕組みのもののほうが、そうした知識を体感しやすいような気がします。錯覚なのでしょうが。

 デジタルは情報処理となると、私にはまったく体感できません。体感するとっかかりがないのです。

巻物、綴じた本

 トイレットペーパーといえば、トイレで目にするたびに昔の巻物を連想します。絵や文字が書かれていた巻物のことです。

 そうした絵と文字からなる文には、流れがあります。その流れは無限ではなく限りのある線や帯や面として存在しています。「限りがある」というのは始まりと終りがあるという意味であり、「存在している」というのは物だという意味です。

 巻物の始まりと終りのあいだには、ある順序や秩序に沿った流れがあり、その流れは筋とも言えるでしょう。筋道を立てて話すという言い回しに見られる筋のことです。

 巻物といえば、巻物を裁断すると紙切れになります。その紙切れを流れにしたがって束ねて綴じていくと本になります。巻物と同じく本にも絵があり、文字からなる文が載っているものがあります。

 ページという二次元の枠に収められた絵や写真と、やはり二次元の枠で区切られた文字の列が印刷されている本にも始めと終りがあります。

 人の作った線や帯や面や連続した面や流れや筋には、必ず枠――たとえばページやコマ(コマ送りのコマ)やコマ数や場面(シーン)や段落や章――と、始まりと終り(これも枠ですが)があるのではないでしょうか。

読む、見る、眺める

 本といえば、いまは綴じた紙のページからなる本よりも、インターネットに接続されたさまざま端末機の画面を読んだり見ている人が増えているそうです。私もその一人です。

 人は液晶の画面をスクロールしたりスライドして、文字からなる文を読んだり見たり、静止画像や動画をじっと見たりぼんやりと眺めているわけですが、そのさまは巻物を見たり読むに似ています。スクロールには巻物の意味があり、なるほどと納得します。

 右から左へ流れるか、上から下へ流れるかの違いはあっても、巻物と同じようにある方向に目を走らせていると言えそうです。ある点から流れるように線状に目を走らせているのでしょう。

 点が移動して線になるという、例の話です。

 走らせるといえば、速度を上げて動画や番組を見るケースが増えていると聞きますが、そうやって映像と同時に文字も読んでいるようです。忙しかったり、せっかちな人が多くなっていると思われますが、倍速で文字を読むとすれば、もはや読むと言うよりも見ているのではないでしょうか。

 たしかに現在は文字はしだいに読まれなくなり、見る対象になっている気が私にはします。熟読とか精読とか丹念に文字を追うという言い回しが、最近ぴんと来ないのです。誰もがせわしく文字を追っている。読むと言うよりも見ている感じがしてなりません。

視線の動き

 本のページや、端末の画面を目にして、人はどうやって見たり読んだりしているのでしょう。

 視線という、おそらく点のようなものをページや画面に当てることで――レーザー光線を面にピンポイントで当てるさまをイメージしています――、点を移動させて線で、面を読んだり見たりしているのではないでしょうか。

 点と言っても、ある程度の面積が視野に入っているようなので、面に近い大きめの点なのかもしれません。そうなると点を移動させた線というより、ある程度の幅を持った帯と考えたほうがよさそうです。

 この帯の幅は、その時々の気分や集中度によって大きさが変わるでしょう。また帯にも濃淡がありそうです。濃ければきちんと読んだり見ていて、薄ければぼーっと、あるいはうわの空で眺めているだけだという意味です。

 まだらであったり、まばらに見ているとか読んでいるという状態が、人には意外とあるのではないでしょうか。年を取ったせいか、ぼーっとしていることの多い私には、まばらやまだらというのが、とてもリアルな感覚なのです。

 私は自分がまだら状とか、まばら状だという気がします。意識だけでなく存在として、です。

薄っぺらい、ぺらぺら

 巻物、本、レコード、カセットテープ、映画、ビデオテープ、蚊取り線香、トイレットペーパー――こうした広い意味での巻いた物はある部分が薄っぺらで、ぺらぺらしています。巻物だから当然と言えば当然なのですけど。

 細い溝や線を巻いたレコードや蚊取り線香のようが平べったい円盤状(ディスク)であったり、薄いぺらぺらしたもの――紙、羊皮紙、フィルム、磁気テープ――を巻き取ってあるという意味です。

 CD、MDのDはディスクで円盤です。そういえば、レーザーディスクなんてありました。ハードディスクも円盤ですが、これはパソコンを壊して解体したときに見たことがあります。

 ICカードやICチップは薄いです。ポテトチップスも薄い。ICのCはサーキットですから、円環とか輪っかのイメージを感じますが、これも薄そうです。

 ひょっとすると、こうしたぺらぺらしたものに載っていたり内蔵されているらしい文字や絵や映像は、薄っぺらいのではないでしょうか。厚みがあるとは考えにくいのです。

 でも、人はその薄いものから、量や厚みがありそうなものを読み取っているみたいに思えます。量や厚みがあるだけでなく、深みや奥行きさえ読み取っているかのよう。情報とか知識のことです。

Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでする

 そんなふうに考えると不思議です。まさに深そうな話に思えてきます。深いではなく、深そうです。

 薄いと厚い、浅いと深い、細いと太い、小さいと大きい、軽いと重い、短いと長い、近いと遠い。

 こうしたものは同居しているのではないでしょうか。私にはそうとしか考えられません。

 たぶん、いま挙げた、「と」で結ばれたペアたちが反対に見えるのは、そうした言葉が反対語みたいに扱われているからであり、つまり言葉の世界でそうなっているだけであって、言葉で現実や思いや印象の辻褄合わせや帳尻合わせをするから、矛盾しているように感じられるだけ――そんな気がします。

 言葉と現実と思いや印象はそれぞれが別個のものですから、それぞれのあいだで一対一に対応しているわけはないのでしょう。Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでするのには無理がありそうです。

Aの代わりにAとは別のもので済ませる

 そもそも人は矛盾することをしています。

 厚いものの代わりに薄いもので済ます。
 深いものの代わりに浅いもので済ます。
 太いものの代わりに細いもので済ます。
 大きいもののかわりに小さいもので済ます。
 重いものの代わりに軽いもので済ます。
 長いものの代わりに短いもので済ます。
 人間の代わりに人間でないもので済ます。
 人間でないものに代わりに人間のようなもので済ます。
 遠いものの代わりに近いもので済ます。

 巻物、本、レコード、カセットテープ、映画、ビデオテープ、蚊取り線香、トイレットペーパー。

 絵、遠近法、地図、世界地図、地球儀、年表、言葉(音、文字、表情、身振り、しるし)、放送、報道、写真、レントゲン、顕微鏡、望遠鏡、電話、電報、放送、孫の手、糸電話、人生ゲーム、人形、キャラクター、小説、演劇、漫画、アニメ、ロボット、仮想現実、人工知能、生成AI、MRI、CT、遠隔操作、遠隔医療。

 Aの代わりにAとは別のもので済ませる。
 Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでする。

 遠くを近くする。
 遠くを知覚する。

 やっているじゃありませんか。要するに、Aの代わりにAとは別のもので済ませて澄ましている。しらっと澄ました顔をしてやっているのです。知覚と錯覚をうまく利用しているわけです。

 それを言葉、とくに文字にすると、矛盾や、辻褄合わせや帳尻合わせをやっていることがもろに出る、つまり目立つ。とはいうものの、深くは受けとめずに、あれれーっと思うだけ。

 反意語とか対義語というのは、やらせというか、自作自演の狂言というか、人だけに受けるギャグに見えてなりません。勘違いとか、なにかの間違いではないのでしょうか。

 そんなふうに私には見えます。たぶん私にだけそう見えるのかもしれませんけど。

抽象と具象の同居

 遠くを近くする。
 遠くを知覚する。
 遠くを近いと錯覚する仕組みをうまく利用している。

 手で触ったり直接目にできないものを抽象と呼び、手で触ったり肉眼で見たりできるものを具象と呼んでみます。

 抽象の代わりに具象で済ませて澄ましている――。

 こういうことをしていると、抽象と具象が同居してあらわれる、見えることになります。

     *

 いちばん分かりやすいのが言葉だと思います。言葉では抽象と具象が同居しています。

 同居しているというか、抽象と具象のあいだを行き来しているというのが正確な言い方かもしれません。

 遠くを近くする。遠くが近くなる。
 近くを遠くする。近くが遠くなる。

 たとえば、「猫が眠っている。」という文字を読んでいると、猫が眠っている光景が頭に浮かびますが(または人によってはそれとは別の光景が浮かびますが)、それはいまここにはない光景です。

 頭に浮かぶ猫は肉眼で見ているわけでなく、その猫に触ることもできません。それが抽象です。抽象は人ぞれぞれが勝手にいだくものでもあります。

「猫が眠っている。」という文字に意識を集中してじっと見ていると、文字だけが感じられてきます。これが具象です。

     *

 以下の太文字の文をじっと見つめてください。

 猫が眠っている。

 書体、フォント、漢字、ひらがな、濁点、句点と呼ばれる「。」、促音を表わす「っ」という小さな「つ」、漢字の偏旁(へんとつくり)、太文字であること――つまり、文字や形や模様(これが具象です)としての「猫が眠っている。」に意識が行って、頭に浮かんでいた「猫が眠っている姿」が消える。

猫が眠っている。」と口にして出た音(音声)でも同じです。

 その声を聞いて姿や光景(抽象です)を思いうかべる。聞こえている音としての声(つまり、声の質や高さや響きという体感できるものが具象です)に意識を集中する。

 抽象と具象が同居している言葉を、人は抽象(そこにはない像)としてとらえたり、具象(そこにある文字やいま聞いている音)として体感しているわけです。両者のあいだを行ったり来たりします。

 こうしたとりとめのない話をしていると、眠くなります。おそらく、ふちとか、ほとりとか、きわにいるからでしょう。ゆめうつつ、ゆめとうつつのふちにいる。

文字や文章や書物を眺める

 文字や文章や書物を読む(意味や内容やメッセージといった抽象としてとらえる)だけでなく、つまりその遠くを見るだけでなく、文字や文章や書物そのものを眺めてもいいのではないでしょうか。

 近くは意外と遠いのです。薄くて軽くてぺらぺらしたものが意外と深淵であり深遠であったりもします。ふちに立つと体感できます。

 


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  上の動画は、杉浦康平さんのブックデザインなのですが、文字と文章と書物が眺める対象になるさまをよく見せてくれている映像だと思います。大ざっぱに言うなら、私はそんな感じで文章を見ていることがあります。

 そのときの私はひょっとするとまだらでまばらなのかもしれません。それでいいのだと思います。

 

「ない」ものに気づく、「ある」ものに目を向ける

「 」「・」「 」

 たとえば、私が持っている新潮文庫古井由吉の『杳子・妻隠』(1979年刊)に見える「・」ですが、河出書房新社の単行本では『杳子 妻隠』(1971年刊)らしいのです。らしいと書いたのは、現物を見たことがないからです。ネットで検索して写真で見ただけです。

 私は「・」がなかったり、あったりする、または「 」のように半角開いている、つまり間が開いて、そこには何もないことがあると、つい目が行ってしまいます。

     *

「・」は中黒と呼ばれ、私の使っているパソコンの入力ソフトでは「中黒」と入力すると出てきます。

 「 
 ・
 」
 。
 、
 ……

 ご存じのように、上のいずれもが約物と呼ばれるものであり、まだまだ他にもたくさんありますね。

 蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房)では、約物の使われ方を楽しむのが醍醐味だと私は思います。約物と文字の遭遇とからみ合いが目まいを覚えるほど刺激的なのです。

 ちなみに、蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』にある言葉と文章を眺めていて気になって仕方がないのは、漢字やかなではなく、「」、『』、「、(読点)」、「。(句点)」、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点・傍点(圏点)」、そしてルビです。
仮、
死、
の、
祭、
典、
 古文と呼ばれる日本語の文章にはなかったものばかりです。約物とは読みやすくするためにつくられた一種の約束事であり制度とも言えるでしょう。『批評 あるいは仮死の祭典』では、ときにはタマネギをむき続けるようなもどかしを覚えながら、まだまだかとつぶやいていると「、」が来ます。一息入れて次の「、」あるいは「。」が来るまで読み進みます。「」でくくられた文字で立ちどまり、『』でくくられた文字に思いを馳せ、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点・傍点)」が施された文字を凝視する。読みやすさを促すはずの約物が、その役目とは隔たった異物に見えてきます。
(拙文「2/3『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』その2」より)

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     *

『批評 あるいは仮死の祭典』の「 」のように一文字分が開いているとやはり気になってなりません。

「ない」ものに気づく、「ある」ものに目を向ける

 上で「(一文字分が)開いている」と書きましたが、古井由吉は「明いている」とか「あいている」と表記することがよくあります。そういうことに気づくと、古井の作品を読むとき、そうした表記の箇所に差しかかるとやはり私は目が行きます。

 例を挙げると、「扉をゆっくり明けると」(『杳子』p.153(新潮文庫『杳子・妻隠』所収))「道を明けて」(『妻隠』p.174(新潮文庫『杳子・妻隠』所収))です。

 いま述べているのは、たとえば実用書の出版における、表記が標準である標準ではないとか、正しい正しくないとか、校正の対象であるとかないとか、編集者や出版社の意向と作者とのせめぎ合いとか、「大家」の表記だからまたはそうではない、あるいは謎解きといった話ではなく、文学の話をしています。

 私の考える文学では、「ない」ものに気づき(気配かもしれません)、「ある」ものに目を向ける(これは体感です)ことも含まれます。「ない」も「ある」も「ある」からに他なりません。文学とは、文字として「ある」ものと「ない」ものに等しく目を向けることではないかと考えています。

 ただし、ここで述べている「ない」ものとは、「ある」ものの向こうに見える、意図とか思想とか伝記的事実ではないことは言うまでもありません。とはいえ、「文字として「ある」ものと「ない」ものに等しく目を向ける」は、私がそうありたいと思っている読みのスタンスであって、現実には私は「ある」ものの向こうに、そこには書かれていない「何か」を見てしまいます。これは、人であるかぎり当然でしょう。

「ない」ために目立つ

 ないからかえって目立つ。英語では conspicuous by one's absence という慣用句があります。

 いま私の頭にあるのは、古井由吉の小説『水』と『杳子』です。

『水』という短編では、「私が省かれている」、つまり「ない」という書き方がなされています。

renrenhoshino.hatenablog.com

 一方、『杳子』では、杳子をタイトルにし、杳子という文字で始まる小説であり、あれほど杳子という名前が何度も出てくるにもかかわらず、視点的な人物である「彼」の名前が「ない」ままにかなり長く引きずられる形で作品が成立しています。

renrenhoshino.hatenablog.com

     *

 先日、似たような経験をしました。ある小説を読みはじめたのですが、冒頭からしばらく読みすすんだところで(三人称で書かれていのではなく、一人称の語りだと思いはじめたころ)、語り手の人称代名詞が省かれているのに気づき(語り手の名前もなかなか出てきません)、ないなあと思いながら読みつづけていたところ、p.35になってようやく一人称の代名詞が出てきたという経験をしたのです。

 吉田修一の『元職員』(講談社という小説です。

 上で述べた古井由吉の作品のような書かれ方をしているとは想像もしていなかったので驚きました。うれしくもありました。私はそういう書き方が好きなのです。

「ない」とか「欠けている」ことが「ある」とビビッと感じてしまうと言えば、お分かりいただけるでしょうか。

一人称の代名詞が省かれている

 吉田修一の『元職員』では、始まりがp.3で、おしまいがp.166なのですが、p.35になって「俺」が初めて出てきます。二番目の「俺」はp.39に、三番目はp.41に、四番目はp.42に出ます。

 順を追って説明しましょう。

 この小説の冒頭では、語り手がタイのバンコクの空港に到着して、夜の街に出て行く場面から始まります。目立つのは、一人称の代名詞が省かれていることです。

 一人称の代名詞があってもいいセンテンスでそれが省かれたまま、作品が進行していくという意味です。目だけが移動したり浮遊する感覚にあふれた文章とも言えます。私が大好きな書き方です。

 目だけの人物というか、視点的人物のような語り手は、到着の翌日に通りにある屋台で昼食を取ります(p.10)。そこで、「てっきり現地の若者だとばかり思っていた青年」と知りあいます。

目が合ったので、「親切なんだね」と声をかけた。(p.14)

 これが青年との初めての接触なのですが、「目が合う」という記述が、この視点的人物である語り手にふさわしいと私は感じます。

「(視点的人物の)視線に気づいた青年が」(p.15)という描写にも興味を引かれます。語り手の存在感が希薄で、まるで視点が語っているような書かれ方がなされているために、ここで視点が「視線」という言葉を呼び寄せたような印象を私はいだきます。

 もぬけの殻と言ったら言いすぎでしょうが、この語り手はひたすら「見る」人として描写されているように私には感じられます。海外や日本全国の街や町や村を、人の目の高さに構えたカメラで撮影する番組がありますが、ああいう視点的な臨場感が、この小説の冒頭に漂っているのです。

「 」から「こちら」へ

 続くp.16で、この視点的人物はある人物と出会います。

青年は津田武志と名乗った。(5行目)

 このすぐ後で、「こちらが気ままな一人旅だということを伝えると」(8行目)と書かれています。私の見落としがなければ、この「こちら」が、初めて語り手である視点的人物を指す主語になる瞬間であり、私なんか「あっ」――この感動詞吉田修一の作品に頻出するものです――と言いそうになります。

 出たあという感じ。やっと主語が出ました。

 p.18では、場面と時が変わり、「片桐さん! 片桐さんって!」と視点的人物が名前で呼ばれます。語り手の名前がここで初めて出るのです。

 しかも、その次の行で「こちらも相当酔っていたが」とありますが、まだ「私」とも「俺」とも書かれていないのです。そう書かれてもいいセンテンスで、主語が依然として省かれているという意味です。

 その後は、「こちら」が続きます(p.25、p.29、p.30、p.34)。もっとも、英語に訳せば、I ではなく here となりそうな、方向を示す「こちら」もあります(p.29、p.30)。

「 」と「こちら」から「俺」へ

 場所はホテルの部屋で、時は朝――。

「帰られないでほしい」と、俺はベッドの傍らを叩いた。(p.35)

 出たあ。ようやく「俺」が出ました。

 p.35になって、一人称の代名詞である「俺」が初めて出てくるのですが、これは上で述べた津田武志という青年に紹介されて、ホテルで一夜を過ごした相手であるミントという現地の女性に対する懇願の言葉なのです。

 一人称の代名詞が省かれたり、一人称の代名詞として「こちら」と記述されることもあった視点的人物がようやくここで「俺」になることによって、津田とミントという三人の関係が描写されやすい環境が整ったかのような印象を私は持ちます。

 しかも、まだ視点的人物を引きずっている「俺」が、方向と場所を示す「傍ら」を「叩いた」という描写が意味ありげで、私は目を引かれます。

「ねえ、こっち(こちら)においでよ」、ぽんぽんという具合に、このシーンが目に浮かぶようです。この仕草が、視点的人物である自分を語り手が捨てる儀式に見えると言ったら言いすぎでしょうけど。

車中、運転手はこちらの関係に気づいているのか、ひどく不機嫌で乱暴だった。(p.36)

 ホテルの部屋の場面に続く文章ですが、目にした瞬間に私は唸ってしまいました。吉田修一さんはうまいなあ――。

「こちら」が視点的人物だけではなく、彼とミントという女性の二人を指しているからです。

 こういうところに私はぞくぞくしないではいられません。これまで書かれてきた語り手を指す「こちら」が、ここになって男女二人を指すことにより、二人の関係を見事に言いあわらしているのです。第三者である運転手の視線があるからです。

     *

 p.39になって、二番目の「俺」が出てくるのですが、そばにはミントがいます。二人がホテルの部屋で朝食を取るシーンです。

 この場面が続くp.40での言葉の身振りがスリリングな展開を見せます。

珍しそうにジャムを選ぶミントの姿が、ふと妻の麻衣子の姿に重なったのは、ブルーベリーのジャムを勧めた時だった。(P.40)

 ここから立て続けに「麻衣子」という妻の名前が四回(pp.40-41)出てくるのです。

 語り手、ミント、日本に残した妻。その三角関係を描くために、同じ場面のp.41で三番目の「俺」、そしてp.42で四番目の「俺」が書かれます。

 いきなり人間関係が錯綜し、それに合わせて「 」(省かれた一人称代名詞)と「こちら」が「俺」に変わるとも言えます。

 もぬけの殻のような、どこかうわの空でぼーっとした視点的人物――放心しているのには理由があるのですが、これはある意味で伏線と言えるかもしれません――が、このあたりから、ようやく人間関係に投げこまれて活気づく感じ。

 なお、p.54で、武志の「バンコクで暮らすようになった経緯」を聞き、内省的になった「俺」が、初めて「自分」という言葉を使います。しかも、三行で三回も用いるのですから、なかなか興味深い言葉の使用です。ここでも私は唸ってしまいました。

ストーリーでも内容でもなく、書かれてそこにある言葉の身振り

 まとめます。

 私の印象では、この小説においては、「 」(省かれた一人称の代名詞)と「こちら」(一人称の代名詞)と「俺」の登場によって雰囲気が徐々に変わっていくのです。

 1)冒頭での、主語が省かれて目だけが世界を見ているという放心を連想させる書き方。I=eye。
 2)「こちら」という自分を方向で指す語でもある一人称の代名詞の登場が、二人の主要な登場人物たちを「視線」のからみ合いへと転じる。視点的人物だった語り手が自分を相対化する身振りとも言える。
 3)一人称の代名詞の出現。一人称の代名詞としては限定的な使い方しかできない「こちら」ではなく、「俺」という一人称の代名詞が選ばれることによって、錯綜した人間関係――「俺」(片桐)と津田武志とミントと日本にいる妻の麻衣子――を記述する語りの文体へと移行していく。

「 」が「こちら」、そして「俺」となるにつれて、限定的な描写の文体が語りの文体に転じていく。いまとここだけという雰囲気の「現在」が、過去と祖国日本を含む時空を背景とした人間関係の渦巻く「現在」へと転じていく。そんな印象を私は持ちました。途中まで、ですけど。最後のほうで、この印象が裏切られるのです。

 冒頭の主語を省いた限定的な書き方(文体)では、厚みと奥行きのある人間関係は描けないとまとめることもできます。

     *

「ない」「欠けている」が「ある」「備わっている」へと移行していく言葉のさまは、読んでいてきわめてスリリングなのですが、私にとってスリリングなのは、ストーリーでも内容でもなく、書かれてそこにある言葉の身振りだということを書き添えておきます。

タイトル、title、肩書き、カタギリ

”私は吉田修一の小説が好きで、一時期には『元職員』を除く全作品に目を通していました。『元職員』を残したのには深い意味はありません。なぜか、ある時からぱたりと読まなくなったのです。でも、好きな作家であることは変わりません。むしろ大好きな作家といえます。”
(拙文「他人の家に入る」より)

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『元職員』は面白く読みました。以下に、この小説を読みながら取っていたメモ――この作品について何か書こうと思っていたのです――から気になる文字やフレーズを抜き書きします。

 冒頭、空港、観光客、観察、傍観、目、視点、浮遊感
 一人称? 三人称? ハードボイルド private eye 目
 話者、語り手、視点的人物

 お金、嘘、鏡(P.111、p.116)、仮面、犯罪
「俺」(片桐)が津田武志に染まっていく、うつっていく、演じていく。分身。
 パトリシア・ハイスミス太陽がいっぱい』、タイ、ヨーロッパ、異国、母国、太陽、分身、鏡。

 タイトル、title、肩書き、カタギリ、KATAGIRI、KATAGAKI、肩書(「犯人・容疑者などの前科」(広辞苑))
「元職員」(p.158)、報道
 元職員 片桐、元職員・片桐、元職員 片桐、元職員・カタギリ氏

消える「俺」、再び出てくる「俺」

 この作品では最後のほうになって、一人称の代名詞が省かれた文体に戻ります。私の見たところでは、とつぜん「俺」が消えるのです。P.130以降、そうした書き方で小説はラストに向かっていきます。

 ハードボイルドという言葉が連想される文体です。描写だけでなく、回想や伝聞をまじえて複雑な人間関係も語られるのですが、目だけになった感のある語り手が一人称の代名詞なしで語っていきます。

「俺」が省略されているため、読む私はよけいに緊張感を覚えます。この文体を維持する吉田のテクニックの冴えを感じます。

「自分」(これは人称代名詞的には使われていません)p.136、「こちら」p.140、「自分」(これは相手と自分をはっきりと分ける記号として使っています)。次の「自分」はじつに効果的に使われていると思い、唸りました。

殴られた顎はズキズキと痛んだが、どこかすっきりとしている自分がいた。(p.164)

今まで通り、仮面をかぶって働けばいい。(p.165)

  この直後にp.166――このページでこの小説は終わります――になって「俺」が再び出てきます。この段落を引用したいところですが、ネタバレになりそうなので引用できないのが残念です。

 ない、現れる、消える、再び現れる――この密やかで華麗な身振りに気づき目を向けるだけで私にとっては十分なのです。