【エッセイ】ごみと意味は似ている

ごみは人工物

 ごみとは人工物であり、ごみは人にとってごみとして存在する。

 赤瀬川原平さんがそんな意味のことを言ったそうです。以前に誰かのツイートで読んだことでよく覚えていないのですが、赤瀬川さん自身も誰かから聞いた話として語っていた記憶があります。

 又聞きの又聞きみたいになって恐縮ですが、私なりに個人の意見として述べてみます。

出す、残す

 私に言わせると、言葉とその意味に取り憑かれた人間が、消えていく言葉とその意味を物体化、あるいは実体化しようとする行為が「残す」であり、人の残す行為と人の残した物を、保存とか継承とか伝統とか文明とか文化とか遺跡とか遺産とか財産と、人は呼んでいるわけですけど、これらは要するに「ごみ」なのです。

 語弊のある言い方になりましたが、いわゆる持続可能な開発目標(SDGs)とは、とどのつまり、地球上で人の出したごみをどうするかをめぐっての議論から出た目標だと私は理解しています。

 事態はきわめて深刻であり差し迫っているのです。

逸脱と無駄

 本能にしたがって生きているかぎり、生きものには無駄がないそうです。

 人がこれだけ多種多様なごみを大量に出し、そのごみを処理しきれないことが地球的な規模の大問題になっているからには、ヒトは生きものとして逸脱しているにちがいありません。

 ヒトは生きものとしての筋から途方もなくずれてしまったと言うべきでしょう。人の逸脱した行為が生みだした物がごみだという意味です。不要が生んだ不用であり無駄なのです。

 しなくてもいいのにしてしまう。してはいけないのにしないではいられない。逸脱とは、簡単に言えば、そういうことではないでしょうか。これは言葉とその意味に深くかかわっていると私は考えています。

ごみと意味は似ている

 意味とごみは似ています。いみ、ごみ。一音違いです。

 冗談はさておき、どう似ているのかを見てみましょう。

 意味、いみ、ごみ、ゴミ、芥、塵、護美――。

 こうやって並べてみると似ているどころか、そっくりに思えてなりません。

 話は飛躍しますが、自然界には名詞(名前・名称・言葉)とその意味に相当するものがありません。名詞は人がつくったものだから当然なのですが、これを実感するためには「ごみ」について考えるといいと思います。

 記事の冒頭で述べたように、ごみは人工物だという考え方があるそうですが、名詞とその意味もまた、ごみと同様に人工物にほかなりません。ごみも名詞(その意味も)も人がつくったものであり、発見したものではないのです。

新聞、新聞紙、古新聞

 新聞を例に取りましょう。

 朝配達されたものは新聞、読み終わると新聞紙になり、新聞紙はさらに古新聞と呼ばれるようになります。新聞紙も、古新聞になれば晴れてごみ扱いされます。

 日本語が読めない人にとっては、日本のコンビニで売られている新聞は新聞紙に感じられるかもしれません。また英語が得意ではない人にとっては、コンビニで日本語の新聞と並べられている英字新聞はたぶん新聞紙でしょう。

 コンビニで買ってきた英字新聞を読みもせず、コラージュ作品の素材として使った人がいたのを思いだします。私の目の前でジョキジョキとはさみでさまざまな形に切り抜いてみせたのです。

 配達されたばかりの新聞をびりびり破って犬のトイレ用にケージ内にばらまく人も知っています。その人は毎朝郵便受けに新聞が入るの心待ちにしているようです。

 また、新聞を読む習慣のない人にとっては、たとえそれが母語で書かれていても、新聞は新聞紙だと考えられます。

何と呼ばれるかは時と場合と人による

 まだ目を通してもいない新聞が新聞紙として扱われ、読む以外の目的で使われることも意外と多いのではないでしょうか。

 たとえば、まちがって同じ新聞が二部配達されたり、手違いにより売店で二部買ってしまった場合には、一方は新聞紙として扱われるにちがいありません。

 新聞、新聞紙、古新聞、古紙――。

 同じものであっても、時、場所、場合、都合、そして人によって見方が異なり、異なった名で呼ばれる。それが名詞(名前・名称)、ひいては言葉の本質です。

 いま二人の人がいて、その二人の前に新聞を印刷する工場で印刷された紙があるとすれば、その時点でその紙は新聞であったり新聞紙であったりするでしょう。どちらであるかは、各自が「決める」のです。

 その印刷工場で、万が一何らかの事情で記事の差し替えが指示されたとします。すると、その紙はたちまち新聞紙どころか、ただちに廃棄すべき紙になるにちがいありません。それが出回っては困るのです。

 ものや生きものが自分たちにとって都合が悪くなると、ただちに処分したり駆除したり排除するのは人の常です。すなわち人の性(さが)と言っていいでしょう。

名詞の本質

 大切なことなので繰りかえします。

 同じものであっても、時、場所、場合、都合、そして人によって見方が異なり、異なった名で呼ばれる。それが名詞(名前・名称)、ひいては言葉の本質です。

 新聞(新聞紙・古新聞)やごみ(護美・塵・芥)に似ていませんか? 「処分・駆除・排除・抹殺」にも似ていませんか?

 人工物である言葉の本質とは、言葉が指し示すと言われる実体も、言葉の意味と呼ばれているものも、そしてそもそも言葉と呼ばれているもの自体が不明であることではないでしょうか。

 自分のつくったものでありながら正体不明なものに、人は囲まれて生きているかのようです。

意味とごみは似ている

 自分のつくったものでありながら正体不明なもの――。たとえば「ごみ」と呼ばれているものがそうだと思います。

 ごみとは人にとってごみであったりなかったりする物であり、あるごみが別の人にとってはごみではなかったり、時の経過やそれが置かれた場所や状況によっても、ごみと呼ばれたり、ごみ以外の呼び名で指されたりすることなど、ざらにあるでしょう。

 その意味で、意味とごみは似ています。というか、ごみは意味なのです。ごみは言葉なのです。

 意味、いみ、ごみ、ゴミ、芥、塵、護美――。

 こうやって並べてみると似ているどころか、私にはそっくりに思えてなりません。その違いが認められないのです。

何に貼っているのか分からない

 ごみはレッテルであり、名詞の本質はぺたぺた貼ることにある。何に貼っているのかは人には分らない。

 実体は正体が不明、意味は意味不明、言葉は素性も実態も不明、言葉を持ってしまったヒトはある意味意識不明。

 こんな事態になっているのは、人はまず〇〇という言葉をつくり(分ける)、次に「〇〇とは何か?」と考える(分かろうとする)からかもしれません(分けると分かるは別なのに)。

 そもそも人工物で自然や万物やひいては宇宙の辻褄合わせをしようとするところに無理があるとしか考えられません。土台無理な話なのです。

ごみ学

 この星とこの星に住む生きものたち、そしてたぶん宇宙にとっては、人が残している物は、廃棄物どころか、不用物であり生きものとこの星に害をおよぼす危険物であるにちがいありません。

 生きものとしての筋から逸脱したヒトという種のやっていることは、不自然どころか反自然なのです。そこがただのおサルさんとの決定的な違いだと思います。

「ごみ学」というものがあれば(おそらくあるでしょう)、ヒトがこれまでやってきたことといまもやっていることの総決算になるでしょう。とはいえ、ごみを見るヒトの目には死角があります。

 ヒトは宇宙にも自分たちと同じような「知性(知性とは何でしょう?)を持った」生命体がいると信じ、コンタクトを取ろうとしてごみを宇宙に放出したり発信しているらしいのですが、それは宇宙にヒト以外の「ごみ」(わざわざごみを出して宇宙空間に出かける意味があるでしょうか、それに意味があると言う生命体がいるとすれば、その生きものは生きものとしての筋を逸脱しているにちがいありません、辞書を引くと書いてありますが「ごみ」には人類にとって戒めとなる大切な意味があります)がいると信じているからにほかなりません。

 しかも自分たちは例外であり、そのごみによってごみ扱いされないだろうという楽観に立っています。きわめて人間(ホモ・サピエンス)的な発想ではないでしょうか。

 ごみとはヒトにしか見えないものでありながら、ごみにはごみが見えない。ごみが言っているのですから間違いありません。

 半分冗談はさておき(半分は本気です)、ごみと言葉と言葉の意味についてもっと考えてみるつもりです。

 というか、今回の記事は無駄に長くなったので、もっと短い「小話」として近日投稿したいと思っています。