影に先立つ【引用の織物】

 ガラスの内には典雅なニス塗りの、棺が飾られて、これも朝日を浴びていた。店の奥にはさらにいくつかの棺が、すこしずつ意匠を異にするようで、壁や椅子にやすらかに立てかけられ、楽器のようにも見えた。
古井由吉作「物に立たれて」(『仮往生伝試文』所収)より引用)

棺*

 人間には一人でいるべき空間がある、と彼女はよく考える。寝床、風呂、鏡の前、ストレッチャー、病床、死の床、棺、安置室、火葬炉、墓。夢の中や心の中と同様に、そうした場所には誰も入ってほしくない。できれば一人でいたい。
(拙文「一人でいるべき場所」より)

棺**

 たとえばどこかをスマホを見ながら歩く人たち。たとえばどこかの待合室でスマホに見入る人たち。

 スマホというモノもそっくり、その画面に映っている映像もそっくり、聞こえてくる音声もそっくり、ときどき鳴る合成音やブルブルいう振動もそっくり、そのスマホに見入っているヒトたちもそっくり、ヒトたちの身につけているモノたちもこの瞬間に地球の至るところでそっくりなものがあるはずです。

 どことは言いません。至るところでの話ですから。誰とは言いません。誰もが免れない状況なのですから。

「わたしはスマホはつかわない」ですか? テレビでもラジオでも新聞でも本でも車でも病室のベッドでも棺でもお墓でもかまいません。いま挙げたもののほとんどが、大量生産され、印刷という形で複製されたものです。あなたがつかっている、目にしている、耳にしている、皮膚にまとわりついている、横たわっているそれは他のどこかにそっくりなものがあるはずです。

(拙文「似ている、そっくり、同じ、同一」より)

棺***

*枠、タブロー、スクリーン

 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。

 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。

 見えないものを真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。知らないものを真似ている。

 なぞる。何かはわからないままになぞる。なぞっているという意識なしになぞる。

       *

 人のつくるものはどこか人に似ている。なるべくして、そうなっているのかもしれない。

 人のつくるものが人の内にある「何か」と似ていても不思議はないのではないか。

 人はなぞる。空(くう)をなぞるように見えて、枠をなぞっている。形をなぞっている。形はなぞっているうちに形となる。なぞった瞬間に形は謎となる。

 とつぜんどこかからやって来た感のある文字は、なぞるを固定化する。なぞるを暴力的に固めて居直りつづけようとする。

        *

 枠、frame、フレーム、figure、フィギュア。

 仏壇、位牌、写真、卒塔婆、墓、墓石。棺桶、棺、火葬炉。

 地獄絵、極楽絵図。

 イコン、アイコン、アバター、分身。

(拙文「人のつくるものは人に似ている/人のつくるものに人は似ていく」より)

棺****

 たとえば、人は椅子をつくったために、椅子に合わせて腰かけるようになった。

 物だけではない。たとえば、映画をつくったために、映画のような夢を見たり、空想をするようになった。

 棺桶をつくったために、棺桶に合わせて埋葬するようになった。冷蔵庫をつくったために、冷蔵庫に合うようなものを食べるようになった。パソコンをつくったために、パソコンの従者や下僕になった。スマホをつくったために、スマホ嗜癖スマホに合わせて生活するようになった。

 それだけではない。

 大量生産されたそっくりなものを使う人間は、地球のあちこちで同じ仕草同じ動作をするようになる。そっくりがそっくりを生む。そっくりをそっくりが真似る。シンクロ、同期、似ている、激似、酷似、そっくり、同じ。

        *

 つくったものに似せる、つくったものに似てくる。うつったものに似せる、うつったものに似てくる。ミメーシス、模倣、描写。

 うつす、写す。似せる、真似る。かたる、語る、騙る。つたえる、伝える、つぐ、継ぐ、次ぐ、告ぐ、接ぐ。まねる、真似る、ふりをする、振りをする、えんじる、演じる。

(拙文「人のつくるものは人に似ている/人のつくるものに人は似ていく」より)

棺*****

 寝入るとき、人はとつぜん一人になります。二人で抱きあって寝ていたとしても、眠りに入った瞬間に二人は別れます。どんなに愛し合っていても、二人いっしょに眠りの中にいることはできません。

 お墓とはちがうのです。そんなの、嫌ですか? 悲しいですか? お風呂もベッドも夢も、いっしょじゃなきゃ嫌。せっかく生きているのに。人生の三分の一は眠っているというのに。

 お風呂はお墓に似ている、と書いた作家は誰だったか? それとも、浴槽は棺桶に似ている、だっけ? あ、トイレで縦長のドアが並んでいるのを見るたびに、縦に並べたお棺に見えると言った女性を思いだしました。

 詩を書いていたあの人にまた会いたいです。夢でもいいですから。

(拙文「同床異夢、異床同夢」より)

棺******

 いま自宅の居間にいる私は自分の視界を意識しようと努めているのですが、その視界がどんな形をしているのか、さっぱり見当がつきません。みなさんはどうですか? 横長であるという気はしますが、長方形だという感じはありません。横に長い楕円形みたいにも感じられます。

 そう考えると、映画やテレビやPCの画面に似ていますね。本は縦長ですが、見開くと横に長いようです。昔の巻物もそうでした。人の頭というか意識の中には長方形の枠があるのではないかと疑りたくなります。それをなぞるというか真似て、物をつくっているのではないか。私たちは長方形に囲まれていませんか?

 生まれたばかりの赤ちゃんは、囲いというか長方形の枠の中にいます。そのあともたいていほぼ長方形の枠の中にいつづけます。家、建物、道路、乗り物、PC、スマホ……。人が亡くなると長方形の棺という枠に入ったまま長方形の炉という枠の中でくべられ、骨壺(これを入れる箱は縦に長細くないですか?)とか墓という枠に収められます。めちゃくちゃ言ってごめんなさい。

 人は自分(あるいは自分の中にあるもの)に似たものをつくり、しだいにその自分のつくったものに似てくる、似せてくる、とつねに感じているのですが、人は「自分のつくったもの」に「自分もどき」を見て初めて、「自分そのもの」に気づくのではないか、なんて考えてしまいました。

 そのひとつが長方形の枠ではないでしょうか。

(拙文「直線上で迷う」より)

棺*******

 長方形というと、ひとりでいる場所をイメージしてしまいます。上で述べた長方形の場所や「容れ物」ではひとりでいない場合のほうが多いのにです。たぶん、多くの人に囲まれていても人はひとりでいるという気持ちが強くあるからだと思います。

 寝床、ベッド、布団、病床、シーツ、ストレッチャー、トイレの個室、棺桶、お墓、遺影。こうした場や容れ物にひとりでいる人が頭に浮かびます。誰かに似ていますが、想像の中にあるその顔は見えません。見たくないのかもしれません。

 意識だけとか目だけになって道を進むさまが、寝際によく浮かぶのは車に乗っている時を思いだしているのかもしれません。道は、たとえそれが獣道であっても、舗装された道路であっても長方形を延長していったものに見えます。

 テレビにしろ、映画にしろ、液晶画面にしろ、本にしろ、車窓にしろ、枠があり、その枠はほぼ横に長い四角に見えます。視界もほぼ横長の楕円形に思えます。その横に長い長方形の枠のある光景を見ながら、人は生きていく。そのあいだに枠を意識することはまれにしかない。

 こういうのはこじつけなのでしょうが、こじつけというAとBに置き換える作業が、視覚や知覚全般の根底にあり、たとえば言語活動や広義の比喩や印象やイメージという形で、人においてあらわれているのだと思われます。目だけでなく、また意識だけでなく、魂の働きだという気もします。

(拙文「夜になると「何か」を手なずけようとする」より)

棺********

 そっくりなところがそっくりなのです。そっくりな点がそっくりにそっくりなのです。これもレトリックですけど。

 スマホという大量生産された製品のシンクロ振りに、それを使う人の身振りのシンクロが重なるという意味です。つまり、シンクロにシンクロする。

 スマホを使っている人はスマホに似てくるというのは、それくらいの意味です。

 スマホに限りません。車がそうです。自転車もそうです。三輪車もそうかもしれません。

 ボールペン、消しゴム、ノート、お箸、絆創膏、腕時計、下着、靴下、眼鏡、シャワー、便器、ベッド、乳母車、棺。どれも大量生産されたそっくりさんたちですが、それを使うとき、人はそれぞれそっくりな仕草や表情をします。

 ひとりひとりの顔も個性も違いますが、やることがそっくりなのです。

(拙文「私たちは同じではなく似ている」より)

枠と境

 名づけて手なずけることが難しいもの。そもそも言葉にするのが難しいもの。

 difficult to name
 difficult to tame
 difficult to frame

 抽象だから、似ているというよりも、そっくりというよりも、同じであり、同一。同期。

 same

 なぞ、なぞをなぞるというゲイム。なぞるが目的化して空回りする。

 game to play
 aim
 aimless game to play

 何のため? 名前のため?

 aim、name、fame、frame

 それは罠だってば!

 You're framed!

 筋書き(aim)をなぞり、名(name・fame)を残し、枠(frame)を残すのに血道を上げる。

 ゲイム(game)をプレイ(play・演じ戯れ競い奏で賭け、なぞり)しながら、自分が獲物と餌食(game・prey)になってしまうのに気づかない。いまは祈る(pray)べき時なのに。playerではなくprayerであるべきなのに。

 いまはもう、両の足で立つのもままならないのに気づかない。

 We're already frail and lame.

 言葉にひれ伏し、辻褄合わせに終始する非難合戦。

 blame game

 敵に屈しているのではなく、言葉という枠に屈していることに気づかない。

 shame

     *

 It's the blame game.

 It's time the game came to the end.

 Who is to blame?

 Shame on who?

     *

 謎も境も、知ろうとしたり分かろうとしたとたんに消える。

 気づいたとたんに枠でも境でもなくなる。

 意味であり無意味。抽象であり具象。中傷であり愚笑。

     *

 文字の形と音が意味をなす。同音で一瞬だけむすびつけられる文字とイメージと事物。韻、隠、陰、淫、印、因、姻。

 偶然と必然が意味を無くし、同時に意味を有む瞬間。

 そもそもないものをなぞるという謎。空の雲に何かをなぞるという謎。その形を指や目でなぞるという不思議。

 なぞることで枠と境が立ちあらわれる、とつぜんの異物感と異物性。

     *

 どうして、文字の形、文字が喚起する音(おん)、形と音が呼びさますイメージと意味という似ても似つかない異質な物と事と言(こと)同士が、そこに立ちあらわれてしまうのだろう。こんな不思議なことがあっていいのだろうか。

 その不思議が当り前のこととして見過ごされるという、さらなる不可思議さ。これは知恵にちがいない。これこそ、人知なのだろう。さもなければ、人は日常生活をいとなめない。

 線で文字をなぞるという謎。目でなぞるを追うという不思議。目線、視線が線である不可解さ。

 無意識になぞるべきもの。それが人の知恵、人知、陣地。最後で最期の知、血、稚、痴、恥、遅。

そっくり

 そっくりなものはたいてい人間がつくり出したものではないでしょうか。
 そっくりな点がそっくりなのです。
 それくらいそっくり。不自然なのです。

 人には同じに見える、そっくりなものには自然物にはない精巧さが備わっています。
 同じものなんて、人がつくらないかぎりないのではないでしょうか。

 人がつくるそっくりなものには、どこか人に似たところがあります。部分的に似ているも含めて。
 人に似ているのは、むしろ人が無意識に似せているからかもしれません。

 自分や自分の仲間に似ているから安心するのです。

 人は不気味なものはつくりません。不気味に似たものはつくりますよ。でも、何にも似ていない不気味なものはつくりません。

(拙文「引用の織物」より)

真似る

 荒唐無稽で根拠なしの空想。馬鹿馬鹿しくてがっかりするしかないような話。

 似せてつくったものに似せる、真似てつくったものを真似る。馬鹿馬鹿しい、馬鹿も休み休み言え、と言いたくなるような話。

 そもそも物語は人がつくったもの。現実なり空想なりを見聞きして、それを「あたかも目の前にあるように」語るのが、物語。

        *

 物語を模倣する人間についての小説。

 物語というジャンルについての復習、小説というジャンルの予習。まさか、小説を壊しているのではないか。できたばかりのジャンルが既に壊れかけている。

(中略)

 小説を模倣する人間についての小説。小説と現実を混同してしまう人間についての小説。

 小説というジャンルの始まりと洗練。律儀と愚鈍が同義であると誰かに見破られることになる。

 小説を模倣するボヴァリーを人は笑えるだろか。映画を、テレビドラマを、CMを、アニメを、(演じる)俳優を、ストーリーを、ドラマを、キャラクターを、出来事を、事件を、報道を、ディスプレーに映った像やテキストを真似て、引用し、似せて、なりきる私たちは、そっくりな身振りをしていないだろうか。

 ボバリズムとは、私たちのことではないか。

 フロベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったという神話があるが、そう口にすべきなのは、私たち一人ひとりではないのか。ボヴァリー夫人は私たちなのだ。

(拙文「私たちはドン・キホーテボヴァリー夫人を笑えるでしょうか?」より)

見えないものは目の前にある

 テレビ、映画、写真、絵画、文学、美術、映像、動画――こうしたものは人が現実の影、つまり現実とそっくりなものを求めて作った影です。

 目的があり、ストーリーやドラマ、つまり意味のある影です。だからぞくぞくわくわくするわけですが、これだけ意味に満ちた影に囲まれて生きていると疲れることがあります。

(拙文「意味のある影、意味のない影」より)

     *

 簡単に言えば、人は「見えている」はずのものをしばしば「見ておらず」、むしろ「見えないもの」を「想像して見ている」(いわば鏡の中に見ている)のであり、「見えているはずのもの」よりも、その「想像して見ているもの」のほうにより興味と愛着を持っていて、その結果として、人には「ないもの」を「ある」と錯覚し、さらにはその錯覚を強化して「ある」と決めるという仕組みが備わっているということです。これがラカンについての私なりのまとめでもあります。

(拙文「人は存在しないもので動く」より)

枠にひれ伏す

 人の作るものとは、言葉であり、物であり、事です。そのどれにも枠がありますが、枠とは境でもあります。

 枠も境も、切り取るからできるものです。「切り取る」には「切り捨てる」がともないます。

 そもそも切り取るのは、すっきりとしてきれいに見せるためです。持ち運んだり、簡単にさくさく処理するためには、すっきりとして無駄のない形をしていなければなりません。軽いことは絶対条件です。

 軽くてすっきりしているのは、枠と境がある証拠だとも言えます。要するに不自然なのです。

     *

 自然界には枠と境はないにもかかわらず、人は自然界に枠と境を作ることで、言葉の世界と現実の世界を一致させてきました。自然界に枠と境を作ることは、世界の言葉化でもあるのです。

 自然も世界も、人の都合のいいように変えられてきたと言えますが、人はこの自然と世界の中にいるのであり、その逆ではありません。人も言葉化されてきたのです。

 人は言葉を崇め、言葉にひれ伏しています。言葉の上での辻褄合わせと筋を通すことに血道を上げています。しかも、そのことに気づいていなかったり、気づいたとしても事の大きさにひるみ、すぐに忘れます。

 それが人の面子(体裁)であり、同時に尊厳(プライド)であるとすれば、悲しいレトリックです。

(拙文「人の作るものは整然として美しい」より)

     *

 We're framed.

決めたのではなく決まった

 鏡、影、落書き、絵画、写真、映画(影や幻影の進化したもの)、テレビ、動画、VR。これほど人が「見る」に取り憑かれているのは、じつはいまだに「見えていない」からであり、その不十分な「見る」を補助するような物や仕組みや枠組みをつくるたびに、思いがけない、つまり想定外の「見る」や「見える」を見てしまい、驚き、ぶったまげ、何かにはっと気づく。そんなことを繰りかえしてきた気がします。

 そう考えると、「見る」というのは「とりあえずつくった言葉」であり、その「見る」について、人は何も分かっていないのではないかというふうに思えます。「見る」「見える」という言葉をつくったから、「見る」「見える」んだ、うん、そうだ、と「決めた」とも言えそうです。

 なにしろ、人は「〇△X」という言葉をつくって、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのです。考えれば考えるほど、自分に当てはまります。いまもやっていますね。

(拙文「直線上で迷う」より)

     *

 人は「決めた」と思っているのに、じつは「決まった」のではないでしょうか。

 同様に、事物を「作った」のではなく、「できた」。言葉を「放った・発した・話した・放した・離した」のではなく、「離れた」。「書いた・描いた」のではなく、「書けた・描けた」。「掛けた」のではなく、「掛かった」。「賭ける」のではなく、単なる「賭け」。

 つまり、人の行為は、その行為をしたとたんに、人を離れて人の外での出来事になっているという意味です。要するに、人の行為は外にあるのです。さらにいえば、人の思いどおりにならないという意味で「外」なのです。

「決める」は人の為すこと、「決まる」は人知を超えている。そんな気がします。べつに神とか神秘を持ちだす話ではなく、「外にあるから見えない」だけなのでしょう。

 だいたいにおいて、人が神や神秘を持ちだすのは、人が自分の落ち度を認めたくないときなのです。

「目の前にありながら外にあって見えない」という言葉の綾を文字どおりに取るしかなさそうです。

     *

 言葉の綾と現実の綾が食い違っても当然なのです。言葉の世界と現実の世界と思いの世界は、それぞれ別個の論理と文法に従っていると思われるからです。

 ただし、「なぞる」は「なぞられる」のではなく、「謎」である気がします。「賭ける」が「賭けられる」のではなく、「賭け」であるように。

「なぞる」も「賭ける」も外にあるようには見えなくて、つまり目の前になくて、それでいて見えないのですから。謎です。外にない外なのかもしれません。

「なぞ(る)」と「賭け(る)」――おそらく「決まる・決まり」も――の対象であり主体だと思われる(この三者には共通して固定化指向が強いという特徴があります)、文字はいったいどこから来たのでしょう。どこへ行くのでしょう。

影に先立つ

 かつて先立ったはずの私たちが、いつのまにか影や言葉に先立たれ、その私たちがいつか影や言葉に先立つことになる。「先立つ」には「前に立つ」や「先に起こる」と「先に亡くなる」の両義があります。

 ことのはに さきだつひとを おくるかげ

(拙文「「気づく」は「遅れる」と同時に起こっているのかもしれません。」より)

     *

 鏡、落書き、絵画、文字、書物、文書、写真、映画、テレビ、動画、VR――。人のつくった影たちは何らかの形で残る気がします。

 初めは人が影に先立ったのに、影が人に先立つようになり、最後には人が影に先立つのでしょうか。あるじをなくした影たち、いや、そもそも影たちはしもべではなかったのかもしれません。

 つねに人の外にあり、ときどき人の中に入ったり出たりする、人の思いのままにならない「外」であるもの。影は不動、人が揺らぐ。

 とりわけ気になるのは、人のつくった影の中で最もしぶとい文字です。

 人に先立たれた文字。人の影であったはずの文字が残る。影が残る。影は人を見送ってくれるでしょうか。そのさまを思いえがくと苦しくなります。

 ヒを浴びて 影に先立つ 空睨み

 人が影を落とした大地と水面(みなも)には、もはや人の影はない。そんな地球上で、人のつくった影たちがどこかに残っている。遺っているのではなく、生き残っている。ひょっとすると、増えつづけるのではなく、殖えつづけている。

 そうしたさまが、オブセッションとなって離れません。寝入り際にも、眠っている最中にも、浮かぶことがあります。

     *

 消えないだけに、残るだけに、しかもいまや急速に増えているだけに――複製でありながら同一であるという最強の抽象を武器にして――、文字が気に掛かります。文字の暴力的なまでの異物性が気になってなりません。こんなものはこの星で他にあるでしょうか。

 とつぜんどこかからやって来た感のある文字は、なぞるを固定化する。なぞるを暴力的に固めて居直りつづけようとする。

 先立つ人を見送るかのように(これでは、まるで人は利用されただけで終わるかのようです)。新たななぞり手に先立つかのように。待つかのように。

 文字は影どころか、枠なのです。

 線からなる文字が、なぞるべき枠という棺に見えてなりません。語源はさておき、駄洒落と掛け詞好きの私にとって、棺は分く(分ける)枠です。別く(別れる)枠なのです。枠に収める者と収まる者とのわかれです。

 棺下ろし 境で別れ 雲疾し