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書いている最中であれ読んでいる最中であれ、文字を相手にしている者の現時点はどこにあるのだろうか? 読み書きをしている最中の「いま」はいつで、「ここ」はどこなのか?
たとえば、ノートを前にして紙の上にペンを走らせている時点が「いまここ」だと考えてみる。または、PCを前にしてスクリーンに向い、キーボードのキーを叩いて文字を入力している時点が「いまここ」だとする。言うのは簡単だが、その「いま」と「ここ」はいつであり、どこなのかという疑問が残る。
音声としての言葉を話している場合には、音声としての言葉は発したとたんに話し手から離れて消えていく。はなした「いま」は瞬間であり、その「いま」はたちまち「消える」、言い方を変えれば「過ぎ去る」が、この場合の「ここ」とはどこなのだろう? そもそも「いま」と「ここ」とは、はなれているのだろうか、それともひょっとして両者ははなせないものなのだろうか?
はなつ、はなす、はなれる、はなれない、はなせる、はなせない。
個人的な話をすると、言葉をはなしている、あるいは聞いているさなかの「ここ」と、言葉がはなれてしまった「ここ」とは異なる気がしてならない。自分が話していたり、または誰かの話を聞いている時と、自分が話し終えたり、または誰かの話を聞き終えた以後とでは、別の時空にいるのだ。
話している最中には、そして話を聞いている最中には、言葉(音声)と身体は離れていないどころか一体化している気が私にはする。「話す」と「聞く」は瞬時に起こりつつある身体的な体験であり、追いかけっこなのである。刻々と、はなされていき、はなれていくために、はなされまい、はなすまいと必死に追いかけなければちゃんと話せないし、ちゃんと聞けない。これが、話し言葉、つまり音声なのである。
はなし、はなされる(はなれる)対象である音声は、人から出たとはいえ、人の外にある外なのであって、思いどおりになりそうでいて、実はままならない相手なのである。
話す、放つ、放す、離す。
ある人の話す行為とそれを別の人が聞く行為のあいだには、時間的にも空間的にも隔たりがあるが、この隔たりは単に「ある」のではなく、むしろ「ずれ」ている。
音声としての言葉を話す行為は、「同時に」「同じ場所で」起きているとも言えるが、それはあくまでも大雑把な話である。よく考えると、話すのには時間が掛かり、話し始めがあって、途中があって、終わりがある。「話す」は刻々と更新される「いま」「ここ」の中で起きる進行形の出来事なのである。
文字を書く場合にも、書き始めと途中と終わりがあるが、文字を文字列や文章として読む場合には、いったん書き終わった文字や文字列や文章を単位として読むのが一般的だ。読む側からすれば、「書く」は「書いている」進行形の出来事ではなく、「書いた(書かれた)」完了形の結果なのである。
書いた文字は消さないかぎりは残っている。欠けているものを掻く。つまり、いまここにはないものの代わりに文字を痕跡として残す。これが、欠く、掻く、描く、書く――である。
文字を「書く」の根底には「欠く」がある。書けるは欠けるであり、欠けているにもかかわらず、いや欠けているからこそ書けるのが文字だとも言える。
文字を読む者は文字そのものではなく、文字が指し示す事物や現象や光景や物語を思い浮かべる。文字を書く者も、文字が指し示す事物や現象や光景や物語を思い浮かべながら書くのが一般的であろう。そこにはないもの(欠けているもの)を書くのである。
欠けているものを思い浮かべる――。読んでいるものは文字であるが、思い浮かべているものは文字とは別物なのである。これは音声である話し言葉でも同じであるが、次々と消えていく音声と違って、文字は消さないかぎりそこにあるだけに、あるべきものがない、つまり欠けていることがはっきりと見える。はっきり見えるとはいえ、人はそのことをあえて見ないし意識しない。見えているものを見ないのが、文字の根本的な仕組みなのかもしれない。
話すは、放す、離す。書くは欠く――。ずれているのである。話すと書くの根本にはすれ違いがある。
このように考えると、執筆時と発話時を書く行為と話す行為の現時点とすることの抽象性が明らかになる。つまり、書いている「いまここ」と、話している「いまここ」とは、粗雑なイメージであることが分かる。「いまここ」とは、現実的とは言えない「作り話」(虚構)のレベルにとどまるとも言える。
特に現在においては、文字を読む行為と、話し言葉を聞く行為は、途方もない「ずれ」の体験としてある。放送(ラジオ・テレビ)とインターネットのことである。
いまここで、私がパソコンを使ってこの文章を書いている「いまここ」と、あなたがこの文章を読んでいる、いまこことは途方もなく、ずれている。時間的にも空間的にも、刻々と移り変りつつあり、既に移り変わってしまっているという意味で、ずれている。
仮にこの文章が音声として制作され、複製され、拡散され、保存されていて、それをあなたがその音声を再生する形で聞いているとしても、音声特有の臨場感(次々と消えていく音声には身体に訴えるリアリティがある)が体験されているにもかかわらず、途方もないずれは解消されない。というか、こうしたずれは解消されるものでもないし、意識するべきものでもないのだろう。
生きることとは、さまざまに起きているにちがいないさまざまなずれを意識しないで済ますことであり、いちいちずれを意識していては生きていられないと言えるだろう。
それにしても、不思議でならない。文字を書いている「ここ」はどこなのだろう? 文字を書いている「いま」はいつなのだろう?